2009-02-09

プライド。

今日の朝は-2.4度。
まあ、思ったほどは冷えませんでした。
そして、昼間もそこそこ暖かくなり、
庭に残っていた雪も一気に消えました。
日陰や雪かきをしてたまったところだけに残っています。


今夜もそれほど冷えていません。


明日はまた暖かくなるようです。
週末まで冷え込みはゆるんだままみたいです。


今日はひとりの同労の牧師が訪問してくださり、
共に祈る一時を持ちました。


語り合い、祈り合う中に、
自分自身の問題が明らかにされていきました。


最終的にはプライドなのでしょう。
それでどれだけ時間や労力を使っている部分があるかと思います。
簡単な話が複雑になることもどれだけ多いかと思います。


本当に祈らされます。
やっぱり主に期待して、主に祈って、
主が教会(教会堂じゃなくて教会)を建ててくださるんだ、ということを
信頼していくことの大切さを思わされます。


教会の土台はイエスであり、信仰です。
「この教会は音楽がすばらしい」とか、
「この教会は盛り上がっている」とか、
そういうことが教会に集うことの決め手になる時に、
そこでは、教会の土台がキリストではなくなり、
違う何かになってしまっています。


盛り上がっていようがいまいが、
賛美の時に手を挙げようが挙げまいが、
神さまがイエスを私たちのために十字架にかけて、
救いの道を開いてくださった事実は何にも変わらない。


自分の祈りが自分の願ったように聞かれようとも、
願ったようにはならなくても、
神さまの私たちへの愛は全然変わらない。


私たちが神さまの愛を感じようが、感じまいが、
神さまが私たちを愛してくださったという事実には、何の変わりはない。


主を見上げていこうと思いました。


昨日、日曜日の聖書。
昨日は伝道者の書2:12-18


「事実、知恵ある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。」16節。

何日か前の聖書箇所でも同じようなことを感じましたが、
死んだ後も、人々の心の中に生き続ける、
それを信じている人々がどれだけいるでしょうか?

イエスの復活さえ、「イエスは弟子たちの心の中によみがえった」なんて、
噴飯ものの解釈をする人もいるくらいです。

信じていると言うよりは、それを支えにしている、
つまり、誰かに覚えてもらっているから、淋しくない。
誰かの心の中に生き続けることが生きたことの証、みたいな。

だって、神さまを信じなかったら、
どうやって死の問題に折り合いをつけて生きていくのか、
わたしにはどうしても想像できません。

よく聞く一つの解決が、
その「人の心の中に生き続ける」という論理です。

でも、この「伝道者」は思いっきり否定するのです。
「すぐに忘れられる」と、
善人も悪人も同じように、
勤勉な人も怠惰な人も同じように、
忘れられていくのだと。

でも「日々のみことば」にあったように、
主は忘れない。
主は私たちのことを心に留めていてくださる。

主との関係があるから、
神さまが心に留めていてくださるから、
生きる使命を与えてくださっているから、
私たちは生きることができる。

主よ、
あなたがいてくださるから。
あなたがわたしを心に留めていてくださるから感謝します。
あなたが与えてくださっている使命に生かしてください。

No comments:

Post a Comment