今日はこちらはとてもDryな
気持ちのいい夏の日でした。
今Fayの残骸がSouth CalorinaからVirginiaあたりに
雨を降らせています。
この残骸、あさってあたりNJにも雨を降らせるかもしれません。
でも、週末は大丈夫そうです。
そして、今ハイチの南にはGustavくんがいます。
これ、男の子だと思うので、実はFayは女の子だったんですね。
hurricaneの名前は男女男女と順番ですので、
Gustavが男なのでFayは女の子だったということになります。
Fayくんじゃなくて、Fayちゃんだったんですね。
なんだか、急に印象が変わりました。
で、Gustavくんですが、
今朝はHurricaneだったのですが、
今はHurricaneからTropical Stormに格下げになっています。
でも、この後、発達して、メキシコ湾で強いHurricaneになる可能性が大きいです。
来週にかけて、メキシコ湾岸は厳重な警戒が必要です。
(うーん、この言い回しはNHKのニュースみたいだ・・・)
さて、今日はすぐに今日の聖書。
今日はテモテ第一の手紙の6:3-10
「 しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。」6-8節。
日曜日に「神と富とどちらを信頼していますか・・・」と語ったので、
もろに、今週は自分の心にそのことが問われているように思います。
自分はいったい本当に神さまを信頼しているのか、
それともある程度の貯金を持つことによって平安を得ようとしているのか?
昨日、寝る前にベッドの中で読んでいた雑誌の中に、
月の生活費の3-5ヶ月分を貯金として取っておきなさい、
と書いてありました。
他のものでは2ヶ月分とか6ヶ月分とか、
いろいろ読んだことがありますが、
改めて、頭の中でざっと計算してみて、
「そうかあ、がんばらなきゃなあ」と思いました。
「蓄えがある=安心」ということを刷り込まれてしまったようです。
そして、今朝、この聖書の箇所。
いったい自分は何によって安心を、平安を得ようとしているのか、
何に信頼しているのか、
本当にすべてを与えてくださる神さまを信頼しているのか、
神さまに問われているように思いました。
衣食あって、足りるを知る。
持とうと思い始めると、使おうと思い始めると、
際限がないですからね。
でも、11年あまり前、学生をしていた頃には、
本当にどうしよう・・・と思いながら歩んでいました。
自分で選んだ道ですから、泣き言を言っちゃいけない。
でも、家賃と学費と生活費で、どう考えても、この先がない、という中で、
何とか小さなことでもいいから、
収入になることを探したりしました。
「思い煩うな」と言われても、
本当にいつもいつも「どうしよう・・・」と思いながら歩んでいました。
ですから、ある程度の収入があるというのは、
やっぱり安心なんですよねえ。
でも、いつの間にか、神さまよりも、
そのお金で安心を得ているようになってしまう。
厳しいところを通ってきたからこそ、
あることのありがたさを感じる。
それは間違いじゃないんだけれども、
必要を与えてくださる神さまの方じゃなくて、
お金のありがたみの方に目がいっちゃうんですよね。
だから、本当にみことばによって引き戻されなければいけない、
そう思います。
主がいつも必要を与えてくださる。
主が私たちを養ってくださる。
信頼していこうと思いました。
主よ、
私たちを養い、
私たちに平安を与えるのは、
私たちを安心させてくださるのは、
あなたです。
あなたを信頼します。
かきごおり先生、
ReplyDelete>お金のありがたみの方に目がいっちゃうんですよね。だから、本当にみことばによって引き戻されなければいけない
↑先生のお正直なコメント好きです。また、先生を尊敬する点であり、僕も見習うところです。
テモテ第一の手紙第6章3節~10節。目に留まったのは5節です。
「絶え間のない紛争」という言葉です。この世の中本当に紛争が尽きませんね。
紛争を辞書で調べると「個人や集団の間で、対立する利益や価値をめぐって起きる行動や緊張状態をいう」ともありました。自分の身の周りでさえも毎日が紛争(のような感じ)です。
今日の聖書箇所から絶え間ない紛争の原因と予防策について学ばさせて頂きました。
先ず、紛争の原因は高慢病(4節)と読むことができます。高慢病の症状はねたみ、争い、そしり、悪意の疑りとのこと。
そして、そのワクチン(=予防策)はイエス・キリストの健全なことばと教えとに同意すること(3節)。
5節→4節→3節とリバース読みをしましたので、そのままずっと旧約聖書民数記21章6節~9節まで遡ります。
旗ざおの上につけられた蛇を仰ぎ見ることでイスラエルの人びとが生きたというお話しで、信じて「仰ぎ見る」ことの大切さを教えられる聖書箇所です。個人的には僕のお気に入りの一場面。
本日の聖書箇所は信じて「同意する」ことが絶え間ない紛争の予防策だと諭されれます。
仰ぎ見ること同意すること、余りにも単純なことなのですが、なかなか出来ないですよね。それがどうやら高慢病のようですわ。
J兄
かきごおり先生
ReplyDeleteお久しぶりです<(_ _)>
高原での修養会から帰ってきたら、平野も涼しくなっていました
長袖を大慌てで引っ張り出して着ています
でも、土地柄、湿気はまだ高いです
本日の聖書
いつも自分の心で矛盾の起きる箇所です
全ての生活を神様が整え守ってくださっていて
神さまによって、平安があると思いながら生活していても
でもある程度の生活費が手元になくちゃ
平安もないだろう~~~なんて思ってしまう箇所です
先日も教会で人間、数字に弱いって話をしていました
私は、会計はタッチしていないのでその場にはいませんでしたが
会計さんたちの話し合いで、神さまを信頼して云々といいムードだったのが
いざ、帳簿が出てきて、数字を突きつけられた途端
神様への信頼の話は吹っ飛んで、現実に引き戻されてしまったそうです
旧ジャージー
J兄、
ReplyDelete>先ず、紛争の原因は高慢病(4節)と読むことができます。高慢病の症状はねたみ、争い、そしり、悪意の疑りとのこと。
そして、そのワクチン(=予防策)はイエス・キリストの健全なことばと教えとに同意すること(3節)。
いや、ホント。高慢病大変ですよね。そして、この高慢病の難しいところは、他人の高慢病を見つけるのは簡単なんですが、自分が高慢病になったときには自覚症状はないです。そして、指摘された日にはムキになって反論したくなりますよね。後になって、気がつけばいい方。主と人に対して、謙遜な者でありたいです。
旧ジャージーさん、
いらっしゃいませ。
コメントありがとうございます。
>いざ、帳簿が出てきて、数字を突きつけられた途端
神様への信頼の話は吹っ飛んで・・・
うーん、数字が出てきたときこそ、本当の信仰が問われるのですが、数字が出るまで威勢がよかったのに、数字が出ると「さてどうしようか」となる、本当にそうですね。でも、たぶん、数字が出てくるまでの信仰は、信仰って言わないんでしょうね。数字が出てきて、ひるむんだけど、そこで、みことばによって励まされて、引き戻されて、信仰に立つ、それが私たちの信仰生涯だと思います。ひるまないんじゃなくて、ひるむんだけど、そこでみことばに立っていく、それが大切だと思います。