2006-10-14

器と中身

今朝はまた寒かったですねえ。
って、昨日深夜祈祷会だったので、
今朝は寝坊したから、知りませんでしたが、
うちの温度計の最低気温は0.9度Cでしたよ。

霜とか降りたんでしょうかねえ。
西のWyckoffとか、北のMahwahとか、氷点下だったんでしょうかねえ。

今夜も冷え込むようです。
予想はまた2度C。
今は11時半を回ったところで、5.9度Cです。

秋はあっという間に過ぎていって、
もう冬支度ですね。
今年は日本に行っていたので、よけい短いです。

今日は、近所にある韓国の教会を訪問して、そこの教会の方とちょっとお話ししました。
オフィスビルを教会に変えて、使っているところです。
5年前に300人くらいで、300万ドルで2階建てのビルを買って、
今は1000人位の方々が集まっているそうです。
いい買い物したなあ、と思います。

オフィスビル街の教会なので、
日曜日には周りのオフィスにお願いして、
車を停めることを許してもらっているそうです。

Zoningの問題もなく、
何の困難もなかったそうです。

神さまに祈っていきたいと思いました。
本当に大きく主に期待して行きたいと思います。

「神様は私たちを助けることがおできになるだけでなく、
助けたいとしきりに願っておられる。」
ビル・ハイベルズ

今日読んだのは使徒の働きの9章でした。
ここは迫害の先頭に立っていたサウロ(のちのパウロ)がキリストを信じる者とされたところです。

その中で2つの聖書の言葉が心に留りました。

神さまがアナニヤにパウロのことを語った、
「あの人は・・・わたしの選びの器です。」

そして、そのアナニヤがパウロに語った
「あなたが・・・聖霊に満たされるためです。」

パウロは神の器だった。
そこに神は聖霊を満たした。

神の器だったパウロに、

聖霊が満たされなければならなかった。

私たちは土の器。
弱く小さな、もろい、価値もない存在。

でも、その内側に宝がある。
キリストという宝。

そして、そこにいのちが注ぎ込まれている。
聖霊様が満たされる。

私を満たして頂きたいと思いました。
私も聖霊様に満たされて、歩みたいと思いました。

パウロをパウロたらしめた聖霊様を、
同じ聖霊様を、
私のうちにも満たして頂きたいと思いました。

主よ、
聖霊様を私のうちに満たしてください。
私を御霊で満たし、喜びを与え、力を与えて下さい。
あのペンテコステの弟子たちのように、
神さまの大きな御業をほめたたえて歌う者としてください。
人々が「ここではいったい何が起っているんだろう?」と驚いて集まってくるような、
そんな御業をなしてください。

2006-10-13

神の導きに従って

今日は深夜祈祷会の日なので、
帰ってきてからではしんどいので、
今のうちに更新。

今朝の我が家の最低気温は2度C。
冷えましたねえ。
今夜は「霜注意報」が出ています。
早くも初霜でしょうか?

そして、驚いたのはBuffalo, NY。
55センチも雪が積ったそうです。
昼過ぎで30万戸が停電。
びっくりです。
雪の多いところではありますが、
もちろん10月としては記録破り、だそうです。

今日の午前中は新しいところでの聖書を読む会。
この集会は前に場所を提供しておられた方が帰国されて、こちらに変わりました。
でも、その前はまた他の方が場所を提供されていて、その方が帰国されたので、
次の方になったんですよね。

ですから3箇所目。
このチェーンがずっと続いたらいいですね、という話をしていました。
そうですね。最初に始められた方の思いが受け継がれて、受け継がれて、
うれしく思いました。

今日の聖書は使徒の働きの8章です。
ステパノの殉教をきっかけにして起った迫害によって
散らされ行った人々、特にその中でピリポの働きが記されています。

その中で今日心に留ったのは、
「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」という神の御使いの言葉です。
26節にあります。

ピリポは伝道の成功していたサマリヤを去って、
寂しい道に行くようにと導かれました。
そして、そこではエチオピアの女王の宦官にキリストを伝えるのです。

ただそれだけのために、

この1人のために、

神さまはピリポをこの道に導かれました。

そして、その1人が救われた時に、
また神さまは違う道へとピリポを導かれました。

そこに従ったピリポもすごいと思います。

私たちはどうだろうか?
いや、私自身はどうだろうかと思いました。

神さまが示されるところ、導かれるところに、
いつでも喜んで従っていくことのできる覚悟はできているだろうかと。

もちろん、まだ、ここに使命があると思っています。

でも、いつ主が新しい道を示されても、
それに従っていくことができるか?

その神さまの御声を聞く敏感な耳と、
それに応答する素直な心とを与えて欲しいと思いました。

神さま
私たちの幸せは、
いつもいつもあなたの導かれる道に行くことです。
どうか教えて下さい。
どうか導いて下さい。
いつも従うことができますように。
従っていくことができますように。

2006-10-12

キッズクラブin Maywood

今日のJOYJOYキッズクラブは盛会でした。
9月休んだから、JOYJOYキャンプの勢いそのままに・・・というわけにはいかない、
と思っていたのですが、
4時をちょっと過ぎるあたりからたくさんの仲間が集まってきました。
全部で30人くらいかな。

4ヶ月ぶりの懐かしい顔、
キャンプ以来の顔、
いつも教会でみる顔、
そして初めての顔、

いやあ、止められません。

みんな期待して来てくれるので、
その期待を裏切らないような、
思いっきり楽しくて、
絶対また来る!っていうプログラムをしよう!と、
また燃えてきてしまいました。

会場的にはあと50人は大丈夫でしょうから、
まだまだこれからが楽しみです。

「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。
止めてはいけません。
神の国は、このような者たちのものです。」(マルコ10:14)

子ども達に大切なメッセージをとにかく伝えていって、
10年後にそのメッセージを胸に旅立つ若者に育って欲しい、そう願います。

天を見上げて

今日の聖書は使徒の働き7章。
ステパノが説教をするのですが、
それが人々の怒りを買い、彼は最初の殉教者となるのです。

心に留ったのは、
ステパノの言葉。

「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」56節。

この「見なさい」という言葉が今日は特に心に留りました。

いつも読んでいる口語訳聖書では、「ああ」、新共同訳では訳出されていません。
でも、新改訳とNIVでは「見なさい」「Look!」です。

天を見上げなさい、といわれたように感じました。
そして、彼には見えた。
人々には見えなかったけれども、
彼には見えた。

私は見ているだろうか?
天を見上げて歩んでいるだろうか?
そして、見るべきモノを見ているだろうか?

心の目を、
霊的な目を開いて頂きたいと思いました。

神さま、
今日の一日を、
教会の1人1人の一日を守って下さい。
私が、
私たちが、
あなたを見上げていくことができますように。
あなたのことを見つめていくことができますように。
あなたから目をそらせようとする、
すべての力から
私を、
私たちを守って下さい。

今日のキッズクラブに神さまの守りと、祝福がありますように。
子ども達に最高のものを手渡しすることができますように。

2006-10-11

祈りに励む

これ日本語でももちろん大丈夫だよね。
Google Docs。

こうやって、便利なモノをどんどん作っていって、
世界を支配していくんだろうなあ。
だって、この文章だって、Googleのサーバーの中に入っているんだもんねえ。

ちょっと恐いような、でも、とても便利。
出先のコンピューターでも日本語が使えるようになってさえいれば、
編集できちゃうんだもんねえ。

こうやってメモを作っておいて、
また後で、ブログに上げたり、することもできるんだろうなあ。
と思う。

でも、印刷した時の体裁とかは?

んんん、分からない。
どうやってやるんだろう。
Word形式で保存してからワードで開くしかないのかな。

何かなあ。

でもこれ、他の人とチャットしながら編集する人とかいいのかもね。


自分はちょっとそこまでやるかどうかは分からないけど・・・。

ワードのソフトが必要なくなる訳でもないみたいだし・・・。

というのが、今日の昼間、Google Docs & Spreadsheetsを使っての感想。
そのまま、それを使って文章を最後まで書いてみます。

で、今日のニュースにはどきっとしました。
夕方出かけるために車のラジオをつけたら、
アッパーイーストでビルに飛行機が突っ込んだと・・・。

夜になってテレビをつけたら、ものすごい炎と煙だったんですね。
犠牲になったのが乗っておられた方々だけだったということが不思議なくらい。

NYの安全を祈りつつ。

今、JOYJOYキャンプのビデオのDVDを鋭意コピー中。
今年初めての試みですが、
お話が入って、テーマソングが入って、子ども達の様子が入って、
1時間半たっぷり。

今まで、スタッフの中には出回っていたのですが、
今年はご家族にもどんな話だったのか、もっと知って頂きたい。
+子ども達が何回も見ることで、聖書の話に親しんで頂きたい。
ということで、参加者には配布することになりました。

楽しいですよ。

もう、こうやって、JOYJOY後遺症から抜け出れなくなっちゃうんですよお。
明日からキッズクラブ始まるし・・・。

今日の聖書は使徒の働きの6章。
教会のなかで問題が起って、
執事が選ばれるところ。
その中で、やはり使徒達が言った次の言葉が心に留りました。

「私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」

祈りとみことばの奉仕に励もうと思いました。
もっともっと祈りたいと思いました。

祈らなければ・・・みたいな義務感も、感じましたが、
それ以上に、祈りたいなあ、と思いました。

今日は早く休んで明日は早く起きようと思います。

もう時差がどうだなんて言ってられないですから・・・。

神さま、
またあなたが、私を祈りに招いてくださったことに感謝します。
どうか、祈ることのすばらしさ、
その味わいを、経験させてください。

明日のキッズクラブを守り、導いてください。
たくさんの元気な子ども達を送って下さい。
楽しい、そして、とっても、心に残る1時間として下さい。

2006-10-10

誰を欺くのか

数日ひいていた風邪も治って、体調もほぼ戻って、
日常生活に帰ってきたという感じです。
やはり帰米後10日くらいかかりました。

今日、3ヶ月ぶりに再開された集会もありました。
そして、いよいよあさってから、
JOYJOYキッズクラブが再開されます。

わくわくしてきます。

明日から金曜日の朝まで、雨模様になりそうです。
それで金曜日の夜は3度くらいまで下がります。

いよいよ秋が深まっていきますね。

でも、下の表を見ると、決して特別なことではないんですね。

これは、weather.comのこの地域の10月の平均、最高最低記録を表にしたモノです。

一番左の数字が日付。2番目が日の出時刻、3番目が日の入り時刻
4番目が平均最高気温、5番目が平均最低気温、6番目がその真ん中。
右から2番目が歴代最高気温、一番右が歴代最低気温です。


たとえば、明日の最低気温の記録、それは-2度Cです。
30度以上行った日も歴史のなかにはあるのですが。

今年は秋の深まりが早いような気がするんですが、決して特別ではないんですね。
いつも10月半ばになると、冷え込む日が増えてくるんですね。

月末には平均の最低気温が3度まで下がってしまいます。
このころには初霜とか初氷とかになるんでしょう。

今日の聖書。
今日は使徒の働き5章でした。
アナニヤとサッピラという夫婦が人々をだまし、
お金をごまかして、見栄を張った献金をするところです。

その中のペテロが彼らを責める言葉が心に留りました。

あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」4節。

実際は人をだましたのです。
神さまはだまされるような方ではありません。
すべてをお見通しです。

なのに、ペテロはそれを「神を欺くことだ」と言いました。

やはり、私のうちにも、「神さまは赦してくださるから・・・」という甘えがあるように思います。

人はなかなか赦してくれません。

でも、神さまは赦してくださる、と甘えた心を抱いているところがないだろうかと思います。

そして、人には何も分からないからいいだろう、
でも、すべてをお見通しの神さまには分かっているから、
ちゃんと悔い改めのお祈りをしておかなければ・・・。

でも、それは人を欺いているのではなくて、
神を欺いているのだというのです。

神さまが私を赦すためにはどれほどの大きな犠牲が払われているか、
どれほどの大きな犠牲によって、私が神さまに受け入れられているか、
忘れないでいたいと思います。

神さま、
私の心を探ってください。
神さま、
私の心を守ってください。
あなたがどんなに大きな愛を注いでおられるか、
忘れないようにしてください。思い出させてください。
いろいろな出来事のなかで、
私に気がつかせてください。
あなたを欺くことがありませんように。
それに気がついた時に、すぐにあなたの元に帰ってくることができますように。

2006-10-09

大胆に

とうとう北朝鮮は核実験をしました。
アメリカやロシアや中国、フランス、イギリス、インド、パキスタンそして、イスラエル、
これらの国が持っているモノを、北朝鮮は持ってはいけない、という理由がどこにあるか、
という素朴な疑問に対する答えは、何なのか、ということはありますが、

とりあえず、直近の問題としては、
これほどの国際世論の風当たりのなかで、
それを決行したことはどういうことなのかということですね。

日本では警察官や自衛隊の人
、狩猟のために登録した人以外は銃を持ってはいけない、
というかんじでしょうか?

そうする理由はいろいろあるでしょうが、
その理由に納得しようと納得しまいと、
そう決まっていることを守らないでいることの結果は引き受けなければいけません。

国際社会には、「国家」ほどの決まりはないでしょうが、
今は、ひとまず国連があり、国際世論があります。
それはあの国の指導者には関係ない、ことなんでしょうか?
それとも単なる自分たちの自由を縛る圧力なのでしょうか?

政治のことはよくわからないんですが、
何をしでかしてくれるか、かなりコワイです。
日本に生きることもまた勇気のいる時代になったということでしょうか?

よく、朝日新聞のBe on Sturdayを読むのですが、
特にその「フロントランナー」にははっとさせられる言葉が時々あります。

リンクは貼りませんが、
10月7日号の松崎さんという自費出版で本を出す出版社の社長さんの言葉に、
はっとさせられました。

それは
「『一発当ててやろう』なんて気持ちで書いた人の思いは濁っているような気がします。」
という言葉です。

牧師が語るメッセージはある意味、コミュニケーションです。
伝わらない言葉なら意味がない。
伝わる言葉で伝えたい。
自分のなかだけで分かる言葉ではなく、
また、クリスチャンの間だけで分かる言葉ではなく、
人々に伝わる言葉で話したい。

でも、その気持ちが強すぎて、
時に、それこそ「うけをねらう」こともあるでしょう。

そこに濁りが生まれる。

とてもきつい一言だと思います。

メッセージでも月報でも週報でも、そしてこのページでも、
とにかく神さまが自分に語ってくださったこと、
そこに集中していきたいと思いました。
その思いを一番大切にしていきたいと思いました。

今日の聖書。
今日は使徒の働きの4章でした。

今日心に留った言葉は、
29節の使徒達の祈りの言葉です。

「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。」

これ、すごいですよね。

いえ、皆さんが同意しなくても、私はすごいと思いました。

脅かされて、「もうキリストの名で語ってはならない」と言われたのに、
「もっと大胆に語らせてください」って言うんだから。

祈りだったら、普通、
「彼らを黙らせてください」とか、
「困難がなくなりますように」とかじゃないのか?

ああ、自分は何年聖書読んでいるんだろう。
何年読んだら、この聖書のように考えられるようになるんだろう。

どこかの迫害されていたクリスチャンがこのような祈りの課題を挙げられた、
という話を聞いたか、読んだか、そういう記憶がある。
「迫害がなくなるように祈らないでください。迫害のなかで信仰に堅く立つことができるように祈ってください」と。
それは何てことはない、聖書の世界観なんだな。
それがクリスチャンにとって「常識」でなければいけないのに、

「すごいな」と思うのは、
やはり自分たちが甘やかされているからではないだろうか?

生ぬるい信仰でいるなら吐き出されてしまう。

主よ、
私も、大胆に語る者としてください。
どんな反対があっても、
どんな迫害がこれからの人生のなかに起っても、
大胆に語らせてください。
試練を取り去るよりも、
信仰を増してください。

2006-10-08

さんび

今日はまたたくさんの方々が教会に来られました。
とてもにぎやかでした。
子ども達もたくさんで、うれしいですね。

そして、とても幸いな礼拝となりました。
歌手の方も心からの賛美をしてくださり、
教会のみんなも心を合わせて賛美をしました。

























こんなことをしたらいけないのかもしれませんが、これは、weather.comのこの地域の今週の予報です。


金曜日の最高気温が11度C。
最低気温が3度C。

東京だったらもう12月ですよね。

冬支度を急がなければ・・・。

わくわく、ぞくぞくしてきます。

自分は寒いのは大の苦手で、
足元が冷えるのが堪えるのですが、
何でか、冬の天気には興奮します。

雪が好きなんでしょう。

水、木あたり、ミネソタ、ウィスコンシン、そしてシカゴからインディアナの北の方くらいまで
雨が雪に変わる予報が出ていますね。

これからお天気ネタが増えることでしょう。

今日の聖書。
今日は使徒の働きの第3章でした。

足の不自由な男の人がペテロによって癒やされて、
歩き出すところですが、
その中で、彼が賛美を捧げている様子が書かれているところに目が留りました。

「人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。そして、これが、施しを求めるために宮の『美しの門』にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。」(9-10)

人々を驚かせるような賛美。
その様な賛美を自分は捧げているだろうか、
神さまにふさわしい賛美を捧げているだろうか?

ただ、自己満足のために、
自分が大きい声を出して気持ちがいい、というためだけに、
歌を歌っていないだろうか?

歌はいい。

でも、賛美は神さまにささげるもの。

カラオケで発散させるのはいい。

でも、いつだったかな。とても虚しいものを感じたことがある。
日本で高校生の付き添いをねだられて、行った時かな。
カラオケボックスで歌いながら、
なんだろうなあ、と思ったことを思い出した。
歌詞と心が一つになっていなかったんだね。
好きな歌だったのに、どうしてか、自分の気持ちとぴったり行かなかった。

やっぱり賛美はいい。

心から捧げられるからいい。

心から溢れる賛美を捧げたい。

そう思いました。

神さま、
今日の一日を感謝します。
あなたと共に歩んだ一日に感謝します。
教会で過ごした一日に感謝します。
これからの歩みの中で、
日々、心に賛美がわき上がってくるような、
人々が驚くような、
その様な賛美をさせてください。
必要な休息を与えて下さい。


2006-10-07

聖霊が注がれる

あっという間に夜です。
でも、今日は何か気分がいいです。

というのは、日本から帰ってきてからずっと気になっていた、
バスルームの蛇口からポタポタと流れ出るお湯。
どんなに締めても止らなかったんです。
そして、自分で直そうと思っても、ねじ山が潰れたり、
中の構造がどうなっているか今ひとつ分からなかったりで、
時間がかかっていたのですが、
今日、ねじ山が壊れたヤツを何とか壊して、
分解して、元に戻してみたら、何と水漏れが止ったではありませんか。

うーん、不思議。

どうしてか分かりません。

どうして水漏れしていたのか、
どうしてそれが止ったのか、
分かりません。

でも、とにかくよかった。


いろんなモノ分解するのは好きですが、
分解して、元に戻らなかったら、どうするんだろうと思いますよね、

特に水回り。

だって、
分解して元通りにならなかったら、元栓開けられないし、

元栓を止めたら家中の水が出ないし、

お客さんもいるのにどうしよおおおお!

と恐る恐るでした。

めでたしめでたし。

今朝の祈り会、よかったですよ、人数は少なかったですが・・・。

教会堂が与えられるように祈りました。

天の窓が開かれて、すべての必要が満たされますように。

私たちの神さまは全能の神さまですから・・・。


ということで、今日の聖書箇所。
今日は使徒の働きの2章を読みました。
ペンテコステのところ、聖霊様が教会に注がれたところです。

その中で、

18節の言葉が心に留りました。

「その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」

聖霊様が私たちに注がれている。
私たちには聖霊様が与えられていることは確か。

でも、本当に「注がれている」ということができるんだろうか。
満たされていると言うことができるのだろうか。

もっともっと求めることを主は望んでおられるのではないだろうか?

「注がれているんだからいいんだよ」という態度は違うのではないだろうかと思った。
もっともっと主よ、注いでください、と思わされた。
ただ、このペンテコステの時に起ったようなすばらしい神の業が起るようにと願った。

主よ、
どうか聖霊様を与えて下さい。
注いで下さい。
満たして下さい。
そしてあなたのことを語らないでいられない者としてください。
今夜の休みを祝福し、
明日、喜びに満たして、礼拝を守らせてください。



祈りに専念する

昨日からぐーんと涼しくなりました。
この週末から来週前半くらいはまあ、
こんな感じか、もうちょっと暖かいようですが、
来週後半からぐーんと寒くなるみたいです。

まあ、もう再来週は10月後半ですから・・・。

今から13年前かな。93年の10月はアトランタにいましたが、
そのハローウィンにはアトランタで小雪が舞っていましたから・・・。

昨日の午前中の集会のあと、
何でか熊の話になって、
北海道に行った時の「熊に注意」の看板のことを思い出しました。

今から15年前。
日本の教会で副牧師をしていた時。
主任牧師の先生に許可をもらって、
若者達を連れて車で北海道の教会を回る旅に行きました。
観光と「伝道」をかねて・・・と思ったのですが、
実際のところ、北海道の教会の皆さんに励まされる旅でした。

熊の看板があったのは支笏湖のそばの「苔の洞門」
写真がどっかにあると思うのですが・・・
家の中を捜すよりwebを捜した方が早いので・・・
これです。

これ、下の方の「それでも熊に出会ったら・・・」っての、
けっこうインパクトありました。
だって、「これはダメです」「これをすると襲われる」って感じで、
じゃあ、いったいどうしたらいいの?と思いますよね。
「死んだふり」も「木に登る」ってのもダメなんですよね。

まあ、総合的に読むと、
「目を離さないで、背中を見せないで、熊が興味を持ちそうなモノを落としながら後ずさりする」
ってことでしょうか?
でも、最後の文章を読んでも、「時間が稼げます」で終わっているところがコワイ。


昨日は「蜂蜜持っていったらいいんじゃない?」という話もありましたが、
熊に出会ってから、カバンの中を捜して、蜂蜜を見つけて、そのふたを開けて・・・ってやってられるかなあ、と思います。


まあ、熊に出会うって、大変なことなんですよね。やっぱり。


お気をつけください。


NJで出る熊はヒグマほどこわくはないんでしょうが・・・。


金曜日の聖書。
「使徒の働き」に入って第1章。
口語訳では「使徒行伝」、新共同訳では「使徒言行録」
でも、今回は新改訳で読んでいるので、「使徒の働き」です。

1章の14節の言葉が心に留りました。

「この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、
みな心を合わせ、祈りに専念していた。」

「祈りに専念する」
ってすごいですよね。

そのことだけやっていた。
自分はやったことあるだろうかと、振り返らされた。
いろんなことに追われて、
祈る時がまた貧しくなっていないだろうかと。

今読んでいる本のように、
「祈れないほど急がしい?」
ってか。

今日は明日の礼拝のために祈りながら、説教の準備をしていますが、
そういうことを抜きにして、祈る時、必要だと思います。

「祈りに専念する時」必要だと思います。

神さま、
また祈りに招いてくださってありがとうございます。
祈ることに専念する時が自分には必要だと思います。
どうか今晩の祈りを、
明日の朝の祈りを豊かな一時としてください。
あなたにお会いした喜びと感謝に溢れて、
明日の礼拝で皆さんにお会いすることができますように。

終わっちゃいましたね

なんか、あっけなくおわっちゃいましたねえ。
ものすごいメンバーだったんですがね。
2戦目で逆転されてから、全然打てなくて。
勝負の世界はわからないもんです。
でも、勝ち負けだけではなくて、
エキサイトする瞬間が全然なかったのが、残念だったかな。

まあ、寝不足とかにならなくていいんですが・・・。

あとで、昨日の分と今日の分、更新します。(^_^)

2006-10-06

今日はお休み

今日は遅くまで集会でしたし、
明日は早朝祈祷会ですので、
今日の更新はお休みです。

また明日。

また負けましたね。

もう後がありません。
明日はしっかり勝って欲しいな。

2006-10-05

主の栄光をあらわす生き死に

今日、野球は昼間だったんですね。
負けちゃったみたいですね。

明日も集会中ですね。

まあ、いいか。

朝の集会はたくさんの方々が来られて、
また歌とお話もとてもよかったです。
その後も、皆さんゆっくり過ごされました。
感謝。

明日の朝は歌手の方は他の教会に行かれます。
私の方は自分の教会の集会です。
それもまた楽しみです。

今日はさっそく聖書の言葉。
ヨハネによる福音書21章を読みました。
ヨハネによる福音書の最後の章です。

そこに、ヨハネ自身の注釈がイエスの言葉に付けられています。
「これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。」
19節の言葉です。

イエスが、ペテロがやがて手を縛られて、行きたくないところに連れて行かれるだろう、
とのイエスの言葉に対して、ヨハネが書いた言葉です。

「神の栄光を表す死に方」と言うことを考えさせられました。

今週の月曜日はペンシルベニア州のアーミッシュの村で、
学校に押し入った男に5人の女の子が殺されるという痛ましい事件が起りました。
手足を縛られて、黒板の前に並ばされて、
処刑をするように撃たれていった女の子達、
想像するだけで、本当に心が痛みます。

自分の子供がもしもそんな目にあったらと思うと、
また自分自身がもしもそんな目にあったらと思うと、
恐ろしくて、体が震えます。

でも、犠牲者の家族はアーミッシュの信仰の中で、
神の御手を信じました。
犯人への憎しみを口にしませんでした。
犯人の家族が弔問に来ることをも、拒みませんでした。

納棺の時に、遺体を前にして、犠牲者のおじいさんが、
「決して、これによって、犯人への憎しみに支配されてはいけない」と語ったそうです。

また、犯人、彼にも熱心なクリスチャンの妻がおりました。
3人の子ども達もいたと言います。
彼らはどんな思いで過ごしているでしょうか?
でも、そこにもサポーターが与えられて、共に祈る仲間や牧師が与えられているそうです。

昨日の夜のCNNのLarry King Liveで、
犠牲者、加害者を取り巻く多くの人々が、インタビューを受けていました。

当然憎しみを感じていいところで、
憎しみを感じても、誰にも非難されないところで、
あえて憎しみに支配されないで生きる彼らに、
心からの尊敬を覚えました。


私は「神の栄光を表す死に方」をできるだろうかと思いました。

私の死によって、人々の心が神さまに向くような、その様な死を経験したいと思いました。
もちろん、それは私自身が見ることはできないのですが・・・。
自分にはどうにもできないことですが・・・。

だから、神さまに助けて頂きたいと思いました。

主よ、
どうかわたしがあなたの守りによって、
あなたの助けによって、
「神の栄光を表す死に方」をすることができますように。
神さま、私を助けてください。

そして、生きている時にも、
もっと神さまの栄光を表すような生き方ができますように。

2006-10-04

なぜ泣いているのか

中止になっちゃいましたね。野球。
まあ、お天気牧師的に言えば、正解。
今11時ですが、我が家の方では雷が鳴って、激しく雨が降っています。
やってたら、終わるのは夜の2時とかになっていたことでしょう。

明日の夜の方がゆっくり見れるし・・・(自己中心)・・・
いや、待て、Back to School Night、最後の1人のが残ってた!帰るの10時前だ・・・。
でも、まあ、10時から見るくらいがちょうどいいか。

今日の夜はゴスペルシンガーの方が、NYの日系人会のホールで歌って下さいました。
声の調子は悪いようでしたが、
その歌と語りの中にとても力強いメッセージが込められていて、
集われた方は一握りだったのですが、後で伺うと、お1人1人にとってタイムリーな集まりだったようです。
感謝。

だから、結局人数ではないんですよね。
もちろん、いつもいつもたくさんの方々に来て頂きたいけれども、
おいでになれた1人1人にとってそれがいい時になれば、それがいいことなんですよね。
神さまがその様にして下さったんだと思いました。

朝の集まりにはたくさんの方が来られていましたが、
出かけにいろいろ作業をしていたので、遅刻。失礼しました。
次回からは「パンクチュアルかきごおり」をめざしてがんばります。

今日の聖書。
ヨハネによる福音書20章です。

今日、心に留ったのは、泣いていたマグダラのマリヤに、天使達と、復活したイエスが語った言葉、
「なぜ泣いているのですか」という13節と15節の言葉です。

私たちは、いかに「泣かなくていい」場面なのに、目がふさがれているがゆえに、泣いていることがあるでしょうか?

本当は神さまの御手が、広げられて、私たちが守られているのに、
不安を感じて、慌てていることがないでしょうか?

泣かなくていい。主はその様に言われます。
大丈夫だよ、と言われます。

でも、私たちの目はふさがれている。
私たちの耳は鈍感になっている。

神さまの存在が見えない、
神さまのみ声が聞こえないんですね。

「なぜ泣いているのか」

今も、私たちに語られていると思いました。
私自身に語られていると思いました。

神さま、
あなたが今も共にいて、
「なぜ泣いているのか」と聞いて下さる方であり、
「泣かなくてもいいんだよ」と語ってくださる方であることに感謝します。

私の心の目を開いて、物事の本質が見えるようにしてください。
私の心の耳を開いて、あなたのみことばが分かる者にしてください。

明日の集会の上にも、祝福をいっぱい満たしてください。


2006-10-03

家族とされて

昨日は更新後、間もなく床について、
今朝までぐっすり休みました。

うーん、一日おきですねえ。

今日はお約束の野球を最後の方だけ見て、
その後、明日の朝の集まりの準備をしながら、一冊の本を読みふけって、
遅くなってしまいました。

明日の朝の集まりは、他の教会のプログラムなのですが、
どちらかというと「聖書を読む」ということが目的ではなくて、
文化クラスの最初の15分間、聖書の話をする、というプログラムなので、
いろいろ作戦を考えさせられます。

「ああ、15分遅れていくくらいがちょうどいい」なんて絶対に思われないようにと、
ちょっと意地になっているかも・・・。

なんか、「常識にくさびを打ち込む」みたいな話ができればいいなあ、と思います。
私たちは「これが常識だ」と思っていることがいろいろあります。
でも、こうやって、日本で育って30年くらい経って、アメリカに住んで14年くらい。
ん?足し算するとちょっと多すぎですねえ。でも、まあ、それくらい。
日本では「これ常識」というものが、アメリカではとんでもない話だったりしますよね。

最近一番戸惑うのが、
「つまらないものですが・・・」と贈り物をする日本の習慣。
こちらでは絶対変ですよね。
「何で私につまらないものなんかくれるの!?」ですよね。

逆に「すごいいいのなんだよ!開けて開けて!」って感じ。
自分の場合、完全にアメリカナイズされている訳ではないんですが、
日本式にもものすごい抵抗があります。
でも、やっぱり日本ではそう言っちゃうんですよね。
もちろん、タメ口の親友とかだったら別ですが・・・。

まあ、その手のことなら、「郷に入りては郷に従え」なんでしょうが、

「絶対」だと思っていたことが、異文化に触れることによって「絶対」じゃなくなっちゃうんですよね。

聖書に触れても、そんなことが起る、それをお話しできればと思います。

だから、もう少し作戦を考えてから休もうと思っています。

今日の聖書はヨハネによる福音書19章でした。
イエスが十字架にかけられる場面です。

その中で、今日心に留ったのは、26-27節の十字架の上からのイエスの言葉です。
ヨハネに対して言った「子よ、これがあなたの母です」
マリヤに対していった「おかあさん、これがあなたの息子です」
言葉です。

十字架の上で、イエスは弟子のヨハネに「お母さんを頼むよ」、母親に「これがあなたの息子だからね」と言われたのです。それは一見、「自分が死んでしまうから、お母さんを頼むよ」という言葉に見えますが、それ以上の意味を持っている言葉です。

私たちは十字架の下で、周りの人々を「この人を頼むよ」とイエスから言われているのです。

十字架の元で一つの家族にされて、
お互いの存在を任されているのです。

自分はどこまでそれを本気に受け止めているだろうか、
それをどこまで真剣に受け止めているだろうかと思います。

「個人主義」「プライバシー」・・・それは尊重したいと思います。
でも、その上で、お互いを「神さまから任された存在」として、
一つの家族とされた存在として、
受け止めているだろうかと思ったのです。

教会ではお互いのことを「兄弟姉妹」と呼びます。
○○兄弟、××姉妹と呼んだりします。
でも、それは単なる「夫の方か妻の方か」を言い分けるための便宜上の呼び方になったりすることもあります。
「田中さん」がご夫妻で教会に来られているとしましょう。
そのご主人の方を指す時に「田中兄が・・・」と言って、
奥さんの方を指す時に「田中さん、田中姉の方がさ・・・」
と言ったりします。

でも、本当にお互いを兄弟姉妹として、言葉だけではなくて、受け止めているだろうかと。

家族として、受け入れているだろうかと。

愛することを、敬うことを、尊敬することを、信頼することを
教えて頂きたいと思いました。

神さま、
あなたが私の人生に与えて下さった、
私に与えて下さった、兄弟姉妹を心から感謝します。
どうか、私がその兄弟姉妹を本当に主にある家族の1人1人として、
受け入れ、愛し、尊敬していくことができますように、
本当に、痛みを覚える人がおられたら、
その痛みを、自分の痛みとして感じることのできる者にして下さい。

明日の朝の集まりを祝福して下さい。


2006-10-02

イエスは私たちの王

今朝はまた朝3時に目が覚めました。
一日おきに「よく眠れた!」「ああ、起きちゃった・・・」が繰り返されています。

でも、今日3時に起きたのは、
何か神さまの目的があるんだろうと思って、
ガバッと起き出したら、やっぱり意味がありました。
詳しくは申し上げられませんが・・・。

いつも「夜中に目が覚めるのは、神さまが『起きなさい』と私たちに誰かのために祈らせるために起こしているんですよ」と言っていますが(本当にそう信じています。不眠症の方には不評ですが、それでも、そう信じています)、今朝は「ああ、本当にそうなんだな」と思いました。

神さま、ありがとう。
起こしてくれて・・・。

でも、今日は夜8時にして、もう眠いです。
午後3時頃からずっと・・・。

朝2時間、夕方2時間のドライブだったのですが、
帰りは30分くらいでギブアップ。カミさんに交代しました。

ですから、今日は更新、いつもより早め。
たぶんまた早めに夢の国に旅立ちます。

今日読んだのはヨハネによる福音書18章でした。
イエスが逮捕されて、裁判を受けるところです。
その中で、イエスが、ローマ帝国から派遣されていた総督ピラトに、
「おまえは王なのだな」と聞かれて、
「そのとおり、わたしは王です」と答えたくだりが、心に留りました。

イエスは王になるためにこの世に来られました。
それは武力で人々を治めるためでもなく、
経済力で人々をまとめるためでもありませんでした。

自分を私たちの罪の身代わりとして与えて、
私たちの罪を赦し、愛によって支配するために、
愛によって私たちを支配するために来られたのです。

今、私はこのイエス・キリストを王としているだろうか、と問われているように感じました。

本当に王にしているだろうかと。

生活の中心をこの方にしているだろうか?

この方を第一にしているだろうか?

昨日の礼拝の中で、献金の感謝の祈りを捧げた方がお祈りされていたように、
お金も、健康も、才能も、時間も、すべて神様のもの、
その様に生きているだろうか?

この方を「王」とすることの意味を、具体的に、
一つ一つ教えて頂きたいと思いました。

一つ一つの場面で、「ああ、私はイエスを王としているだろうか」「この決断は、イエスを王としていることと矛盾しないだろうか」と問うて歩んでいきたいと思いました。

忘れやすい、私です。

一瞬一瞬、イエスさまが王であることを覚えていたいと思いました。

神さま、
イエスさまが私の王でいてくださることを感謝します。
具体的に、私の生活の中で、
何が、「イエスを王とする」ことなのかを、
教えてください。
一つ一つの決断の場面で、
「イエスを王である」という前提で、決断をしていくことができますように。
傀儡の王ではなくて、形だけの王ではなくて、
「王」の権威を語ってわがままをするのではなくて、
あなたを本当の王としてあがめていけますように。

2006-10-01

一つになる

3週間ぶりのJCCNJでの礼拝。
やはり「帰ってきた!」という感じです。
心から主を賛美しました。

今日のメインイベントは、

洗礼式。

1人のご婦人が洗礼を受けられました。

祈られてきた、1人のクリスチャンの方のお母様。

喜びの中での受洗となりました。

その前の一つの集まりで数年前に洗礼を受けられたある方がおっしゃってたこと。
「私が洗礼を受けて変わったことが一つあります。それは次に洗礼を受ける方が起った時に、
それがとてもうれしかったことです。それは私にとって、驚きでした。」
感動しながら、その一つ一つ言葉を選んでお話になる言葉を聞いていました。

神さまのなさる奇跡ですね。

今日、洗礼を受けられた方は、
住んでおられるところがちょっと遠いので、
いつもいつもご一緒に聖書を読んだり、
礼拝を守ったりできないことが、
ちょっと残念+心配でもありますが、
「主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。」(使徒29:32)の思いで、
祈っていきたいと思います。

みことばが守り、導き、支えて下さいますように。

今日の聖書は、ヨハネによる福音書17章です。
最後の晩餐の中で、イエスが祈られた祈りです。
神に弟子たちの守りを祈られた言葉が書かれています。

その中で、今日、私の心に響いてきたのは、
20節の言葉です。

「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。」

ここで、イエスが祈られたのは、弟子たちのためだけではなくて、
私たちのためでもありました。
いつも聖書を読む時には、弟子たちへの言葉は私たちへの言葉として受け取ります。
でも、このイエスの言葉は、直接的に、私たちのために祈られた言葉なのです。
感動を覚えました。

イエスさまが私たちのことも心にかけて祈って下さった。
私たちのことも心にかけておられる、ことが本当によくわかりました。
そして、その祈りは「彼らが一つになることです」という祈りです。

「一つになる」

そして、私たちが一つになった時に、周りの人々にたいする影響を持つことができるというのです。

どうすれば一つになれるのでしょうか?

それを思いめぐらしました。

それは誰かが大きな声を出して、
他の人がその人を恐れて黙ってしまうことによる一致ではないはずです。
余りお互い言いたいことを言わないで、「いいでしょう」という一致でもないはずです。

神さまの前にへりくだる一致。
神さまの前にひれ伏す一致。
それを求めていきたいと思いました。

自分の願い、自分の夢、自分のビジョンがすべて砕かれて、
神さまの御心を求めていく中での一致。

主がそれを与えて下さることを祈っていきたいと思いました。

主よ、
あなたが私のことを、私たちのことを心にかけて下さっていることに感謝します。
どうか、あなたが祈られた一致を、私たちに与えて下さい。
あなたの前にへりくだった一致を与えて下さい。

2006-09-30

勇敢でありなさい

9月最後の日ですね。
ものすごい勢いで9月が駆け抜けていきました。
このまま、気がついたら、「ああ、もうクリスマスか!」なんてことになっているかと思って、
恐くなります。

ちなみに今年は「クリスマス・イブ」が日曜日。
さて、どんなプログラムになるのでしょう・・・。早く英語の先生と打ち合わせしとかなきゃ。

昨日の夜は、「時差ぼけなんて関係ない!」と豪語していたのですが、
その後夜の1時半にに寝たのに、目が覚めたのは午前3時。
そして、午後やたら眠い。

うーん、完璧昼夜逆転ではありませんか・・・。

今朝はとても寒くなりました。
予想の7度Cをさらに下回って、家の温度計では5.5度Cまで下がりました。

どんよりと曇って途中から小雨も降る一日でした。

うーん、雨男かな。

明日の日曜日も雨の予報が出ています。
それもかなり本降りのようです。

昨日、かなり気合いが入って長くなってしまったので、
今日はあっさりと・・・

今日の聖書はヨハネによる福音書16章でした。
「最後の晩餐」でのイエスの話のまとめの部分です。

「私が去っていっても、別の助け主、すなわち、聖霊を送るから、心配するな」という話です。

その中で、今日一番心に響いたのが、
最後の聖書の言葉です。
「勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」33節。

この「勇敢でありなさい」という言葉に励まされました。
私は本当に小心者だと思います。
臆病だと思います。
だから、このような言葉が必要なんだろうと思います。

「勇敢でありなさい」

恐れなくていい。
おもいわずらわなくていい。
勇敢に進んで行きなさい。
その様に語られたように感じました。

いろんな苦しいことや、
悩むこともあるかもしれない、
でも、そんな中でも、「私はもう勝っているから」という方がおられるから、
そうなんだよね。
もう勝負はついている。
だから、心配しなくていい。

大胆に進んでいこうと思います。

主よ、
あなたと共に過ごす時の幸いを感じます。
いろんなことで心が乱れます。
あなたの御声をいつもいつも聞きながら、
進んでいくことができますように。
他の雑音に捕らわれてしまうことがありませんように。
みことばにいつもいつも聞いていくことができますように。

2006-09-29

友と呼ばれて

NJに戻ってきてから30時間くらい経ちました。

昨日は12時に寝て気がついたら9時でした。ちょっと寝坊。
でも、おかげで時差ぼけは軽くて済みそうです。

日本にいた時には、「NJに帰るのかぁ」って感じでしたが、
今は、もう2週間あまりの日本での滞在の現実感が薄れ始めています。
「2日前には日本にいたんだよねえ・・・」という感じです。

日本では、コンビニだけじゃなくて、100円ショップも行きなよ・・・と言われたのですが、
一歩も足を踏み入れられずに終わってしまいました。

ちょっとだけ、残念。

コンビニは初日に行ってから、なかなか行く用事もチャンスもなかったのですが、
最終日の前の日、ちょっとだけ立ち寄りました。

そしてちょっと捜したのが、男物のパンツ。

そう、パンツ。

英語のpantsではなくて、日本語の「パンツ」。

やっぱりちゃんとありましたよ。

そう、確か日本のコンビニにはあるよなあ、と思っていました。

実は・・・

9月2-4日のファミリーキャンプ、1日早く行っていたのですが、着く前に気がついたことがありました。

英語のpants、日本語の「ズボン」の替えを持ってこなかったことに・・・。
ヤバイ、3泊だもんなあ・・・すぐ食べ物こぼすしなあと思いつつ、ホテルに向かいました。

そして、カバンを開けて、「やっぱりないよなあ・・・」と思いつつ調べて、
もっとすごいことに気がつきました。
日本語の「パンツ」の替えを忘れたのです!

これはヤバイ!

話には、「2日目には裏返して、3日目には前後ろを逆さまにして、4日目には・・・」と言いますが、
さすがにそれは無理でしょう・・・。

・・・

うーん、やっぱり、さすがにね。(おい、考えるな!)


救いは何もない砂漠のど真ん中、ではなかったことです。
車で10分走れば、ショッピングモールがある。
でも、2日の午後のプログラムが始まってしまったら、もう買い物になんか出る暇がない。
でも午前中も牧師の研修会があるし・・・

と思って思いついたのが、

普通のグローサリーストア(スーパーマーケット)にも、
ちょっとは置いてあるだろう・・・。
大体7時頃から開くだろうから・・・。

と朝早く行ってみました。

でも、ない。

靴下止まりです。

靴下はあるんだけどなあ・・・。

下着も、お店によっては、なぜか、女ものならあります。

・・・・

でも、それもヤバイよなあ・・・。
(だから、考えるな!って)
てゆうか、それは「履かない」よりももっとヤバイでしょう。

帰り道に目に留ったのは「7イレブン」。
開いてる。一応アメリカでも7時には開くみたいです。ハイ。

ちょっと期待して、入る。・・・だって、確か日本の「7イレブン」にはあったから・・・「パンツ」。

入ってすぐ、「あ、こりゃダメだ」と気がつく。

典型的なアメリカの「7イレブン」より、さらにモノがない。
なぜか軍手はあるが、「パンツ」はない。
ソーダマシンはでかいのがどーんとあるのですが、
肝心の「パンツ」はないんですねえ。

ちょっとでも期待した自分の愚かさを感じました。

結局、牧師研修会をちょっと中座して、10時から開く店で買ってきました。「パンツ」と「pants」。

うーん、最近、ちょっと忘れ物がひどすぎるかな。

でも、そんな時、日本のコンビニがこっちにあったら・・・とマジ思います。

今度近所に「日本のコンビニがオープン!」とかあったから、
今度調べてみよう。ちゃんと「パンツ」があるかどうか・・・。

今日の聖書はヨハネによる福音書15章でした。
最後の晩餐の中のイエスの言葉が続きます。
今日のところは「私はまことのぶどうの木、あなたがたはその枝です」というところです。

その中で、イエスの次の言葉が心に留り、祈らされました。

「わたしはあなたがたを友と呼びました。」
15節の言葉です。

イエスさまが私のことを「友」と呼んでいてくださる。
友と呼んで親しく過ごそうとしておられる。
それなのに、私は神さまとの時をどれくらい楽しみにして毎日を送っているだろうか?

祈りの生活がもっともっと豊かなモノになるようにという熱い思いが与えられた。
もっともっと親しく神さまと時を過ごしたい。
もっともっと豊かな時を過ごしたい。
その様に思いました。

そして祈りました。
あなたとの交わりの時を、
あなたに祈る時を、もっとゆっくり、もっと豊かに持たせてください、と。

日本で教会図書用に買ってきた、
「祈れないほど忙しい?」という本、
まず、皆さんに回す前に最初に自分から読みたいと思い、読み始めました。
自分にこそ、本当にそれが必要だと思いました。

主よ、
私を祈りに導いてください。
あなたがせっかく「友」と呼んでくださったのですから、
あなたと共に時間を過ごさせてください。
あなたと共に歩む喜びに溢れさせてください。
霊的なものに、あなたの愛に、あなたの導きに私の焦点を合わせていくことができますように。

2006-09-28

ほんの一握りの人にでも

その3

半分くらいまで来ました。
NJ時間で木曜日の朝の9時半頃です。
今日は祈り会の日ですね。
皆さんが集まって祈って下さっていることに心から感謝します。

木場深川教会でも木曜日の朝に祈り会をしてから出てきました。
TCATまで車で10分くらいのところに実家(=教会)があるので、
4時過ぎの飛行機に乗るためには、11時半頃出ればいいのです。
そこで、「10時からの祈り会でメッセージをして行きなさい」ということになった訳です。

10人くらいのご婦人方が集まっておられました。共に祈りました。
その輪に加えて頂けることはうれしいことです。
またご奉仕をさせて頂くこともうれしいことです。

教会の原動力は祈り。
何度も語ってきました。
でも、自分の祈りの生活はまだまだ貧しいなあと思います。

今回も日本に来て、皆さんにお会いしたり、お電話でお話しする中で、
「祈っていますよ」「祈りますからね」と言わないではいられない、
決して単なるご挨拶ではなくて、祈りたいと思わされる状況があります。
日々の祈りの中で、お一人ひとりのことを祈り続けたい。おぼえ続けたい、そのように思います。

今日のNJでの祈り会の祝福を祈りつつ。

やっと追いつきました。
木曜日、今日の聖書箇所。
ヨハネによる福音書14章です。
ここも最後の晩餐でのイエスの言葉が書かれているところです

その中で、弟子のひとりが言った言葉が目に留りました。
22節です。

「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」

どうしてなんだろう?と思いました。
イエスはたくさんの人々に語られました。

でも、弟子たちには特別に語られました。
特別にご自身の深い思いを分ち合われました。

それがイエスの方法だったのだと思います。

私もそのようにさせて頂きたいなあ、と思いました。

一度にたくさんの方々に語ることも大切な働きだと思います。
たくさんの方々が神の愛を知り、イエスを「主」として従っていく歩みに導かれたらいいと思います。

でも、それと共に、ホンの一握りの人々だけかもしれない、でも、本当に深い深い神さまの愛を分ち合っていく、
そのような伝え方ができて、その聞いた人々がまたホンの一握りの人々かもしれない、でも、本当に深く深く、神さまの愛を分ち合っていく、
それが広がっていったらいいなあ、と思います。

有名な話です。

王様が3人の娘に何でも欲しいものを言いなさい、と言われました。
上の2人はたくさん求めました。何だったか忘れました。

でも、一番下の娘は1日目にはコインを1枚、2日目には2枚、3日目には4枚と毎日倍々に増やしていって、それを1ヶ月間続けて欲しいと言いました。
王様は、「何だそんなんでいいのか?」と思いました。
でも、1ヶ月経った時に、姫はコインを何枚もらっていたんでしょう?ちょっとエクセルで計算してみますね。

1073741823枚
10億7374万1823枚です!

すごい!

そのコインが1円玉でも10億円ですよ。
10円玉だったら100億円。
100円玉だったら1000億円です。

ネズミ講が禁止されているのは当然。
チェーンメールをやってはいけないのも当然ですね。

でも、すごいですね。
だから、一遍にたくさんの方々に語れなくてもいい。
確実に何人かの方々に伝えていけば・・・。そう思います。
そしてその何人かの方々が同じように、何人かの方々に語りたい!と思うように導かれていく。それが大切なんだなあ、と思います。

主よ、
どうかわたしを用いて下さい。
派手な働きはできなくてもいいです。
ホンの幾人かでも、確かに福音を伝えることができますように。
そしてそのひとりひとりが確かに福音を伝える器に整えられていきますように。