2011-05-20

途方にくれても。

のんちは金曜日は郡山だった。
今回はNJの教会の関係の方々お二人の訪問。
何としてでもお会いしたくて、
前の晩はインマヌエル教団の郡山教会に
面識もないのに、本当にお忙しいだろうし、
多くの方々からの問い合わせで、戸惑っておられるだろうけれども、
祈り会があるから、とにかく祈り会に伺って、
そこに泊めていただいたそうだ。


本当に先生方にはよくしていただいたみたいです。
夫として、心から感謝します。


でも、わかっていなかったわけではないのだけれども、
福島の方々の痛みはとても深い。
のんちも電話の向こうで何度も涙声になっていた。
私もこちら側で涙が止まらなかった。


立ち上がれない、立ち上がることのできないということが、
先が見えないということが、どんなに不安で途方に暮れることなのか。


「震災うつ」の問題もあり、このようなページに、のんちから聞いたことの中でも、あまり読んだ方が気が重くなるようなことは書かないでいようとも思ってもいるのですが、あまりに先が見えない。あまりに悲しい。


その問題についてあまり詳しくない者が、何かを言うことには気をつけなければいけないと思いますし、いろんな立場があることも承知していますし、牧師は政治的な発言はしない方がいい、という方もおられるでしょうが、私は、今まで原発の問題についてあまりに無関心だったことを恥じます。無関心を通して、また、より快適な生活を求めて、福島の被害に加担したことの罪を認め、悔い改めます。これ以上、無関心の罪を犯し続けたり、「賢く」黙っている卑怯な生き方をしたくない。教会、聖書の名をかたり、「どうせ人は罪人だから」とか「どうせ、この世はいつか終わるのだから」と達観したかのような人たちの言動にははっきりとNOをつきつけたい。


神様がわたしたちに管理を任されたこの地を、預けてくださったこの地を、わたしたちは正しく治める責任があるのです。ちょうど、神様が与えてくださったこのからだを、わたしたち個人個人が正しく健康管理していくのと同じように。


一度トラブルが起こったら、人間の力ではどうにもならなくなってしまう危険があるものの開発を続けることは愚かだと思います。特攻隊のような志願者を募ったり、チェルノブイリの時のように、どんな危険があるかを隠して人に働いてもらわなければ、止められないものを作ったのは愚かです。それにどんな経済効果があり、地元の振興に役立つとも。そこに何重のセーフティーネットを張ったとしても。


これからは原発反対の立場から、もっと積極的に発言し、積極的に関わっていこうと思います。明日も近所でイベントがあるようです。

講演会「未来を担う子供たちへのメッセージ」



ちょっと私自身は伺えそうにないのですが、多くの方々がおいでになりますように。


「わたしたちは・・・途方にくれても、行き詰まらない。」(コリント第二の手紙4章8節)


途方に暮れている方々に、「それでも、行き詰まらない」という神の恵みが、人々の愛を通して、また聖書を通して、その人々の愛と聖書との両方によって、具体的に現されていきますように。


土曜日からのんちは石巻のビッグバンにいる、と思います。


主よ、
今日も、あの福島の地で、途方にくれておられる方々に、
あなたが共にいてください。
今、私自身が行くことがあなたの導きだとは思えませんが、
今、導きをいただいて、そこに赴いている一人一人の愛を用いてください。
わたしたちの届かないところにまで届くあなたの御手で、
その心にあなたの平安を満たしてください。
無関心の罪、黙っていたことの罪、現状を肯定してきたことの罪を悔い改めます。
このような大きな被害が出るまで、それを続けてきたことを悔い改めます。
為政者や実業界のリーダーが言うことを無批判に黙って聞いてきたことを悔い改めます。
悔い改めた者の生き方へと導いてください。
悔い改めた者の生き方を教えてください。
無知を赦してください。
深い知識を求める歩みをさせてください。

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