2009-06-28

とりなし。

昨日はまた雨が降りましたが、
今日は一日雨も降らず、どんよりもせず、いい天気でした。
昨日は中高生を連れて、遊園地。
明日からは2泊3日で小学生キャンプです。


よく体が持ちますね、と言われますが、
自分でも不思議なくらい守られています。
でも、無理は禁物。
昨日は更新はギブアップ。
今日も明日に備えて、早く休みます。


さて、昨日、土曜日の聖書。
土曜日は出エジプト記39:1-21。


「これらの宝石は、イスラエルの子らの名によるもので、彼らの名にしたがい、十二個で、十二の部族のために印の彫り物が、一つの名につき一つずつあった。」14節。

これは、祭司が身につけた衣装の宝石についての説明です。
祭司が12部族にちなんで12の宝石を身につけていた、
それも胸に付けていたことに、
祭司の大切な働きである「とりなし」について考えさせられました。

もう以前に書いたことがあったかもしれませんが、
ある方が、一つの集会で、息子さんのことで悩んでおられることを分かち合ってくださいました。
息子さんがいつも学校の帰り、一人で歩いて帰ってくる。
他のお子さんたちが仲間で固まって帰ってくるのに、
彼は一人で帰ってくる。
友だちができないみたいだ、どうしたらいいのか、
そんな悩みを抱えておられました。

その時に、私は「祈りましょう」と言って、
そこで祈りました。
その方にとって、そんな家族のこと、祈ってもらうのは初めて。
なんだか、戸惑う気持ちと共に、
「祈ったって・・・」という気持ちもあったことでしょう。

でも、その日の午後、息子さんが帰ってくる時間に、
いつものように「そろそろかな」と外を見ていたら、
彼がもう一人の少年と一緒に歩いてきたそうです。

その方は、「こわくなった」と言っておられました。
うれしかったというよりも、「こわくなった」と。
祈りが聞かれるって、私も思います、うれしいよりも、畏れを感じると。

そのことを思い出していた、ときに、
自分はどれだけとりなしの祈りを捧げているか、問われているように感じました。
教会のかたがたのことも覚えて祈りました。

そして、祈るべき一人の人のことを思いだました。
「一人の人」ってゆーか、ユキなんですけどね。

その方のお子さんのためにとりなしの祈りをした、
そして、それが聞かれて、ひとりの方が神様との出会いを経験した、
そんな経験を与えられていながら、
自分は自分の娘に本当に波長の合う仲間が与えられるように、祈ってきただろうかと。
けっこう一人でいる時間の多い彼女のために、
共に人生の問題を語り合ったり、
祈り合ったりすることのできる友人ができるように、祈ったことがあっただろうかと。

他の人のために祈ることはあっても、
どうしても家族が後回しになっている自分がいます。

兄妹の中でも一番何も要求しない娘であるが故に、
一番後回しになってしまうヤツです。

祭司が民のために祈ったように、
主イエスが私のために祈ってくださっているように、
私も教会の一人一人のことを、また家族のことを、とりなしていくことができますように。

主よ、
イエスさまが私のためにとりなしをしてくださっていること、
心から感謝します。
私もとりなしの祈りを捧げさせてください。
教会の一人一人のために、
そして、家族のために、
出会いが与えられた一人一人のためにとりなしの祈りを捧げる者とならせてください。


早速、とりなしのお願いです。
明日から2泊3日で教会の小学生のキャンプに行って来ます。
子供たちが、イエスさまをはっきりと知って、救い主として、お迎えすることができるように、お祈りください。

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