これは昨日、26日の分。
牧師会も今合同修養会があるので、
どうしても「打ち合わせ」的要素が強くなってしまいます。
でも、本来、もっと祈り合い的な要素があればいいなあ、と思わされています。
昨日はある先生がご自分の話をしてくださって、
もちろん具体的なことは何もなかったのですが、
ご自分の霊的な、内面的な葛藤の話、
その中で神様が語ってくださったことを分ち合ってくださって、
とても心に触れる内容でした。
牧師は自分で自分を追い込むこともあり、
周りの期待に応えてしまうこともあり、
どうしても、いつもいつも霊的なスーパーマンでいなければならないと思ってしまいがちです。
でも、やっぱり弱く小さな、神様の助けなしには生きていけない存在です。
それなのに、「神様の助け」さえも見失ってしまって、
ただ、表面的に仕事をこなしていく、というところに、
陥ってしまうことさえあるのです。
そして、お互いに「こんなことで悩んでいるのは自分だけだよな」と思っている。
だから、誰か一人が、心を開いたら、お互い心が触れ合うような関係に一気になっていくように思います。
弱さを認めること・・・これは勇気がいることですが、
心がつながるための第一のステップですよね。
昨日の集まりに感謝。
そして昨日の聖書。
昨日はコロサイの信徒への手紙1-4章全体を読みました。
心に留ったのは、3章13節の言葉。
「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。」
「責めるべきこと」なんだから、「責めるべき」なんだと思います。
そうですよね。でも、ここではそれを「赦しなさい」という。
日本語おかしいというか、矛盾というか、
「責めるべきこと」は責めるべきことです。
でも、それを赦しなさい、と聖書は言うのです。
三浦綾子さんの秘書をされていた方から伺った話。
「あなたが取り返しのつかないことをしてしまった時は、赦すから、私の秘書として働いてくださらない?」と言われたそうです。
取り返しのつくことは「赦す」ということではない。ただ、取り返せばいいだけだ。「赦す」ことができるのは、相手が取り返しのつかないことをしてしまった時なのだというのです。
なるほどー。と思いました。
「取り返しのつかないことをしてしまった」という時に、赦すっていうことは大変なことですよね。
でも、三浦さんの言われるように、私たちは、「赦す」ということをしているつもりで、「赦したんだから・・・」と恩着せがましく言ったりしますが、本当はそんなのは「赦す」というほどのことでもないからなんでしょうね。
本当にいくら何でもこれだけは赦せない、ということをこそ、「赦す」と言うことに価値があるのだ、と思いました。
神様、
赦すことを教えてください。
赦す、ということをあまりにも簡単に語っているように思いました。
赦すことがどんなに大変なことなのか、
赦す、ということがどんなに真剣なものなのか、
主よ、教えてください。
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