ということで、Brooklyn Tabernacleのクリスマスプログラムに行ってきました。
15分前くらいに会場に入ったのですが、もう2階席、3階席までいっぱいでした。
4000人入るみたいですが、いっぱいでした。
内容は・・・2回目で、たぶん、前回は2年前だと思うのですが、
ずいぶん、エンターテインメント的な要素が強くなったなあ、と思いました。
みんなを楽しませようという方向性に行っているように感じました。
中高生の息子と娘はげらげら笑いながら見ていましたが、
私は英語の問題、文化の問題で、笑いきれなかったので、
その部分がちょっと長かったように感じました。
Brooklyn Tabernacleは、
祈りと御言葉と神への賛美でぐんぐん押してくる、という感じだったので、
ちょっとその点では物足りなく感じましたが、
新しい方々へのメッセージを考えるとああゆうアプローチになるんでしょう。
実際JCCNJも似た様なアプローチじゃん(ってレベルは違いますが)、
と言われそうですが、
私にとってのBTの魅力は、そういう「人を楽しませよう」みたいなこととはまた違った
spiritualな深さだと思ってきたので、これから、そっちの路線に行ってしまうのは、
残念なような気がしています。・・・って勝手なこと言っていますが・・・。
それでも、現代の街角の場面で、ダンスが始まった時には、
ああ、これがこのNYの文化なんだよなあ、と思いました。
今まで、この地に教会がありながら、このようなものが用いられてこなかったことの方がおかしい、
この教会も今次のステップに行こうとしているんだ、と楽しみにもなりました。
今日は8度止まり。
そして、今夜は真夜中12時で0度くらい。
明日の朝は-2度くらい。
でも、この「涼しさ」も明日までで、
木曜日はまた暖かくなるようですね。
年内は雪もないんじゃないかと思います。
助かるような、寂しいような。
で、月曜日の聖書。
昨日、月曜日はガラテヤ人への手紙2章でした。
「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」21節の言葉です。
この章というか、この手紙は、よい行いをすることによって、私たちが神様の前に正しい者と言われるわけではない、信仰によって、キリストの十字架によって、私たちは初めて神の前に正しい者と言って頂けるのだ、ということが書かれています。
そのことが、ここでも、「私は神の恵みを無にしません」という言葉で表されています。
もしも、「一生懸命よい行いをすれば救われる」のであれば、イエスは十字架にかかる必要がなかったのだ、というのです。
そう、ほんとうに、そう思います。
自分ががんばって何とか、神に喜ばれる歩みをすることが出来るなら、
神の前に正しい者だと言えるなら、
神の恵みは必要なかった、
キリストの十字架は必要なかったのです。
自分の罪深さが分った時に、
神の愛が分った、
その時のことを思い出しました。
主によって生かされていることを心から感謝します。
神様、
あなたの愛に感謝します。
あなたの愛に感謝して、
その喜びに支配されて、
歩む者としてください。
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