2013-05-21

時の流れの中で。

今日は本当に暑かったです。
真夏でした。
真夏を通り越していましたね。
ウチの庭の温度計は最高気温が34.4度C。
ウチの中ももわっとしていました。

今は夜の12時前で23.3度。
暑くはないですが、もう夏ですね。

今日の朝は「教会」についての学びがありました。
その準備をしている時に、

教会へ車で行くようになったのはいつ頃からかなあ、と思って考えていました。
いや、自分ではなくて、普通の人々が。



ホンのここ数十年ほどの間のこと。
そして、今やテレビで「礼拝」を守る人まで出てくる時代。

教会もそんな人々の心を引きつけようと一生懸命。
そして、なんだか、教会が一つのお店のようになって、
教会に来る人々が気に入ったお店を探すように、
教会も、そんな人々の気に入ったお店になれるように、
がんばっちゃっているんじゃないかなあって。

大変な時代です。
でも、最初の頃からそうだったんでしょうね、
パウロがテモテに送っている手紙の言葉がなんだかホントに今のことを言っているようです。

「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。 しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。」テモテ第二の手紙4:3-5(「耳ざわりのよい話」というのは日本語としておかしいが、そのまま引用)

もちろん、私も一人でも多くの方々に届きたいと思うし、
ひとりでも多くの方々に教会に来ていただきたい。

だから、そのためだったら何でもするみたいな気持ちはある。

でも、いつの間にか、それが教会の定義のようになってしまって、
「教会ってなんだ?」ということを根本のところからちゃんと押さえることをしていなかったかな、と、反省したのでした。

そんな中で、時代と共に、変わるべきものと、変わってはいけないもの、
それがあって、変わってはいけないものがホントにはっきりしていれば、変わることは何にも怖くなくなる。だから、変わってはいけないものをしっかり持っていることの大切さを思わされています。

学問的にいうと基本信条とか、いろいろあるんですが、

それはやはり十字架に表された神様の愛。

・・・だな、と思います。

さて、昨日5/20月曜日の「日々のみことば」。
昨日はイザヤ書の40章でした。

「弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。」29節。

脱力系の私にとっては、
「弱い者は、弱い者で休ませていただけるんだからいいじゃん」と思うことが多いのですが、この聖書の言葉を読んで、力を求めることの大切さも思わされました。

「あなたの弱いところにわたしの力が完全に表れる」という言葉をイエスから頂いた、パウロも、本当に「肉体のとげ」が取り去られること、つまり、癒しを求めたし、力を求めた。そして、その中で主からの答えをもらった。

だから、私も祈ろうと思います。
力が与えられるように、強さが与えられるように、
神様にはそれがおできになるんだから。

主よ、
あなたが私のうちに力を与えてください。
教会に連なる一人一人に、この記事を読まれる一人一人に神様のあふれる力を満たしてください。

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