今日はずっと暖かくなりました。
朝起きたら-3度まで上がっていて、
一日中曇っていましたが、気温は2.3度まで上がりました。
今、夜の11時半ですが、気温はまだ1.8度もあります。
レーダーには何か降っているエコーが出ていますが、
実際には、家のあたりでは何も降っていません。
上空で何かが降っていても、下に届くまでに蒸発してしまう場合があります。
今も多分そうなのでしょう。
12時45分アップデート・・・外はみぞれが降っています。でも、プラスの1.9度。
明日も、今日同様、どんよりとあまり寒すぎない日でしょう。
月曜日はまた寒くなります。
「証し」の第3章。
私がイエス・キリストを救い主と信じたのは小学校2年生の時でした。
私の記憶によると・・・。
3年生から東村山の聖書学院で持たれていた
2泊3日の「小学生キャンプ」に行けるのですが、
特別にスタッフの一人であった父について、行きました。
夜の集会で、先生がお話をされていたのですが、
内容は何にも覚えていません。
で、最後にみんなが「・・・立って下さい」と言われて、
立ったんですよね。それで私も立ちました。
1年生の弟と一緒に・・・。
それに気がついた父が「どうして立ったんだ?」と聞いたのですが、
「みんなが立ったから、どうしたのかな?と思って」と答えたのだと思います。
でも、その時、私は父の口から、びっくりすることを聞きました。
「罪があったら、天国に行けない」
もうびっくりです。
教会で育って、神様のことを知っていました。
イエスさまのことも知っていました。
天国のことも・・・そして、当然、自分は行けるものだと思っていました。
でも、初めて「罪があったら天国に行けない」というのです。
それは困ったと思いました。
昨日も書いたのですが、
いつも弟をいじめていたからです。
だから、罪があることはよくわかっていました。
その時に、イエスさまが十字架にかかって下さったこと、
ゴメンナサイとお祈りすべきことを知りました。
私は単純に、というか、素直にと言うか、ほんとうに
それしかないと思って、泣きながら、ゴメンナサイと神様にお祈りしました。
1971年7月21日だったかな?
2年生の夏休みの最初の方の出来事でした。
「 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」ヨハネ第1の手紙1章9節
これが私にとっての「救い」の経験です。
でも、これはほんとうに始まりの始まりでした。
ですから今でも私は信じています。
どんなに幼い罪意識でも、
どんなに小さな罪意識でも、
軽く見てはいけないこと。
ちゃんとイエスさまの十字架の赦しを語ることの大切さ。
決して、「そんなことは気にしなくていい」と言ってはいけないこと。
そして、どんな薄っぺらな罪意識でも、
それを悔い改めたときに、神様に受け入れられること、救われること。
「救いの経験」はその時に与えられること。
そして、それはそれが「始まりの始まり」でだんだん深められていくこと。
さて、今日の聖書です。
今日はピレモンへの手紙です。
「その請求は私にしてください。」18節。
1章だけの短い手紙。
でも、その背後にあるドラマはどれほどのものだったかと思います。
ピレモンの奴隷でありながら、主人を裏切り、主人に損害を与え、
逃げ出したオネシモ。
しかし、彼はその後パウロに出会い、
悔い改めて新しい出発をします。
そのオネシモをピレモンの元に送り返すときに、
その手に持たせたのが、この手紙です。
「私がそれをかぶる」とパウロは言ったのです。
オネシモのために自分の持てるものを差し出したのです。
私はどうだろうかと思いました。
このようにできるだろうかと。
神様が私に託して下さったもの。
それは神様の許しの中で、神様の喜ばれるように使うことを前提に、
私たちに任されているもの。
それをどのように使うのか、問われているように思いました。
何に投資するのか、問われているように感じました。
最近、「次の世代のために何ができるか」と言うことをよく考えます。
自分が先輩達に与えられたように、私も次の世代にのために投資できるだろうかと。
神様から託されているものを、
喜んで与える、喜んでささげるものでありたいと思います。
次の世代のために。
主よ、
私に愛を与えて下さい。
あなたに対する愛を、
次の世代に対する愛を与えて下さい。
そのために、
いつもいつも、あなたからどんなに大きな愛を与えられているか、
忘れることがありませんように。
どんなに大きな愛を与えられているか、見つめ続けることができますように。
明日の日曜日に祝福を満たして下さい。
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