回復しました。
昨日、5日の分です。
昨日の日曜日、朝も午後もミーティングが続いたので、
ちょっときつかったですが、
礼拝は幸いな時となりました。
多くの方々が集まられました。
礼拝後皆さんとゆっくりお話ができなかったのが残念でしたが・・・。
このところ、いつも使っているマウスが調子が悪いので、
思い切って、「タッチパッド」(フラットパッド?)に慣れてやろうと思うのですが、
なかなか慣れません。
マウスを持ち歩くのも、何だか「せっかくノートブックなのに・・・」というのもあり、
少しでも「節約生活」をしようということもあり、
挑戦中。
触ったつもりがないのに触ったことになってしまったり、
触っているのに、読みとってくれなかったり、
感度を調節するのですが、まだまだダメですねえ。
14年前、アメリカに来た時は、MacのPowerbookを買いました。
来たばっかりの時は、ちょっと貯めたお金があったので、思い切って買いました。
あのころで1500ドルとか?もっとかな?
「トラックボール」というのが真ん中についていて、とても使いやすかったです。
そして2代目、3代目と、Toshibaで、「スティックポイント」?だったか
何だったか、あんまり最近見ない、短い棒みたいなのがキーボードの真ん中にあって、
それも使いやすかったです。
最近見ない、と言うことは、たぶん、「使いにくい!」って人が多かったのでしょう。
今回買う時も、その棒がついているヤツがいいなあ、と思ったのですが、
余りないんですね。結局、その他のところを見て、「お買い得かな」というのを選んだら、
「タッチパッド」のヤツだったんですね。まあ、そのうち慣れるだろう、と思って・・・。
でも、それから間もなく2年。ずっとマウスを繋いできていたんです。
ま、何事も挑戦。
勝手に触ったと判断されるのがイヤで、
「タップ」といって、パッドを叩いたら、「クリック」したと同じことになる機能は、
OFFにしてしまいました。
それでずいぶんよくなりました。
でも、まだ「ドラッグ」はダメです。
まあ、焦らず、ボチボチ慣れていこうと思います。
ということで、昨日の聖書。
ローマ人への手紙3章を読みました。
わたしたちが罪人であって、自分の力で救われることはできない。そこで、神様が救いの道を開いて下さった、というところです。
27節の言葉が心に留りました。
「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。」
自分の誇りはどこにあるんだろうなあ?
自分は何を誇りとしているんだろうか?
でも、それは取り除かれたのだというのです。
「自分はこんなにやっている」とか、
「自分にはこれがある」とか、
「こんな実績がある」とか。
そういうものは取り除かれた、というのです。
でも、人は誇りを持たずに生きていくことはできるのでしょうか?
私の結論は、「神の愛を知った時に、『私にはこれがある』という誇りがなくても、
『こんなわたしが愛されている』という安心感に支えられて、生きていくことができる」
でした。
そう思います。
誇る必要がなくなる、
極端に自信がない人で、
自分の過去の業績とか、才能を得意げに話す人に閉口することがありますが、
ちょうどそれと反対に、愛されている故の安定感で、
何も誇りにする必要がなくなるのではないかと思います。
いずれにしても誇るものはないんです。
「取り除かれた」のですから・・・。
主よ、
ただただ、あなたに感謝します。
あなたが私に「誇る必要のない」歩みを与えて下さっていることを。
あなたに出会わなければ、私は自分を誇らないでは生きていけなかったんだと思います。
あなたに会えてよかった。
ありがとうございます。
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