2012-08-01

いろいろあったんで。

昨日の続きで、今日は「前線型」雷雨の話のはずでしたが、もう今日は休みます。


一昨日、ウチの車が動かなくなって、昨日はそれをtowingして、ディーラーで見てもらって、今朝、点検の結果が出てきました。


直すのにはものすごいお金がかかるという話だったので、その同じディーラーで頭金なしのリースをすることにしました。


少なくとも3年間は修理の心配をしなくていいし、メンテナンス込みの契約。とてもいいディールだったので、今日もう乗って帰ってきました。結局今まで乗っていた中古よりも割安だと思います。towingにはお金がかかったし、今までの車の価値も当然ゼロ査定だったけれども、今までの車の悪いところを点検するための120ドルも免除になり、その車もそのまま引き取ってもらえて、何よりも神様がこの車をくださった(リースだから実は自分のものじゃないけど)んだ、という平安があるので、感謝です。


明日の平安を祈りつつ。



2012-07-31

雷雨の起こり方2つ。

昨日、今日と、それほど暑くならない、でも、決してさわやかではなく、すかっと晴れるわけでもなく、どんよりでもなく、雨も降らない、という、なんて言ったらいいんでしょうか、ちょっと半端な天気。

明日は雷雨になりそうです。


この写真は先週の木曜日の雷雨の前の不気味な雲ですが(この日は、友人である近くの教会のK牧師ご一家が日本からの帰国の途中、16時間空港で待たされたそうな・・・おつかれさまです)、明日はここまではいかないと思いますが、激しい雷雨があると思います。

で、その夏の雷雨のメカニズムなんですが、
大きく分けて、「前線型」と「夕立型」の2種類があります。

明日は「前線型」ですね、きっと。

これはどっちにも共通なんですが、雲が発達したり、雨が降ったりするのは、「上昇気流」と関係があります。「上昇気流」というのはなんだか景気が良さそうで、空高くのぼって行く、って感じで、天気がよくなるような気がするかもしれませんが、それが正反対で、「上昇気流」は悪天候の原因の一つです。

なんでかというと、高度が高くなると、空気は薄くなっていきます。気圧が下がるんです。そうなるとどうなるかと言うと、空気は膨張します。「富士山 ポテトチップス」で画像検索をかけると、パンパンに膨らんだポテチの袋の写真がたくさん出てきますが、それは、富士山の気圧は地上の2/3なので、ポテチの中に入っていた空気が膨張したからです。

空気は熱を加えると膨張しますが、もしも熱を加えないのに気圧が下がるが故に膨張するとすると、気温は下がります。「断熱膨張」というのですが、(・・・ここら辺で「もうわからない・・・」となる方が起こりそうな気がするのですが・・・)、空気は温度が下がると、その中に水蒸気として含むことができる水分の量が少なくなってしまうのです。その時に、空気の中に含みきれなかった水蒸気はどうなるかと言うと、水の粒になります。その水の粒が白く見えるのが「雲」です。

ですから、「上昇気流」で空気が上に上がっていく→断熱膨張→気温が下がる→水蒸気が水滴になる→そこに雲ができる、というわけです。

その「上昇気流」の起こる理由の違いが「前線型」と「夕立型」の違いです。

いい天気で気温が上がったけれども、同時に上空に冷たい空気が入ってきている時には、特に「夕立」が起こりやすいです。上空の冷たい空気は重いので下に降りようとします。そして、地表の熱い空気は、どんどん上に上がろうとします。それで、激しい上昇気流が起こります。そうすると、そこに雷雲が発達して、雷雨が降るのです。上空の気温が低いことや上昇気流が強いことがポイントですから、雹(ひょう)も降りやすいです。


そこらへんの事情は、3年前にも「どうして夏にヒョウが降るわけ?」というテーマでも書きました。
興味のある方はこちらもどうぞ!(いるかな?)


「日中の日差しで地面が暖められることが理由」ですから、これはまず昼過ぎから、日没直後までの間に起こります。ですから、これは「夕立」なのです。

で、もう1つの「前線型」ですが、これは朝でも夜でも、いつでも起こります。これについては、明日「前線型」で雷雨となるので、また明日。

(追記:結局、1週間後になりました。
こちらから。
http://njotenki.blogspot.com/2012/08/blog-post_7.html

さて、「日々のみことば」から。
今日は第一コリント15章20-34節を読みました。

「しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。」28節。

これを読んでいると、従うことが喜びとなる、という感じがしてきた。
わたしたちにとって、イエスに従うこと、神に従うことって、難行苦行じゃなくて、喜びなんですよね。

この世界の向かっているところは、すべてが神に従うところ。

そして、それは究極的な平和、究極的な調和、究極的な喜び。

私の小さな人生、私のちっぽけな毎日の中で、イエスを王として歩むことができますように。イエスに従う歩みができますように。

主よ、
今日もあなたを王として歩ませてください。
私を支配しようとする他のものすべてから私を守ってください。
あなたに従う喜びをもっともっと経験させてください。

2012-07-29

幼子のように。

昨日も、今日も夕方土砂降りの雨。
今日は教会にいたので大丈夫でしたが、昨日は水たまりで悪名高きNYのHarlem River DriveからFDRに向かって走っていたので、何度か深い水たまりにハラハラしながら走りました。

明日は雨は降らないようですが、湿度の高めの、蒸し暑い日になりそうです。

一昨日の金曜日ですが、6月に80歳になられた方をのんちと訪問してきました。
2週間ほど前にご訪問した時に、「楽しいことをしましょう」ということになり、時間を作って、ご訪問してきました。
本当にうれしそうに話をしておられる姿に、教会が神を父とした一つの家族であり、一緒に歩んで行くんだなあ、ということを強く思わされました。

そして、何よりも幼子のように喜びを表してくださるその姿が本当にうれしかったです。

昨日は、土曜日だったのですが、カルフォルニアでコンサートに行かれた方がとってもよかった、という話だったので、リンカーンセンターでのフジコ・ヘミングさんのピアノコンサートに家族で行こうか、ということになりました。下の娘がピアノを習っているのですが、音符を追うだけで満足しているようなので、その壁の向こうに行こうという気が起こるようにという願いもあり、goldstar.comというサイトで、40ドルのチケットが10ドルで手に入るというメールも来ていたこともあり、思い切って行くことにしました。

そのカルフォルニアの方の感想が「私も久しぶりにピアノを弾きたくなった」というのが心に響きましたね。何でもそうですが、心がワクワクするようなそういうのがうれしいです。礼拝でも、私の願いは、礼拝の終わった時に「もっと祈りたくなった」「もっと聖書を読みたくなった」という気持ちになる方が起こされるのが喜びです。

で、行ってみたら中規模のホールに満席の人。そして、10ドルはお得でしょう(手数料込みでも16.50ドル)、といういい席で、2時間たっぷり楽しませていただきました。

私自身はやはりよく知っているということでムソルグスキーの「展覧会の絵」がよかったです。ラヴェル編曲のオケ版があまりにも有名になっているので、そのイメージが強いのですが、元々ピアノ用に書かれた曲。楽しそうに弾いておられました。

実はその曲、大学時代のコンサートバンドでやろうということになりました。私のイメージの中では、ラヴェル編曲のオケ版を土台にして、それをブラス版にしたものがいい、ということがあったのですが、プロの音楽家である指揮者の方がそれを拒否。指揮者をやめるかもしれない、というところまで行きました。何とか引き止めて、続けていただいたのですが、この曲をやる条件は、ラヴェル版を土台としない、原曲を土台としたアンサンブルに新しく挑戦する、ということでした。

出来上がったのは今までと全然イメージの違うアンサンブルで、ラヴェル版に慣れ親しんだクラッシックファンには「何これ?」だったのでは?とずっと思っていました。

それはもう、30年も前の話ですが、今回、初めて原曲のピアノ版で全体を聴いて、その方の言うことがわかったような気がしました。

元々はこれだったんだな、と。

最後はリストを3曲。「これを一番やりたかったんだろうな」ということがわかるくらい、情熱的な演奏でした。最後の「ラ・カンパネラ」は下の娘も知っている曲だったので、「ながいー」という感じで聴いていた娘も、このときばかりは食い入るように身を乗り出して聴いていました。

この方も80歳。これがまた幼子のようで。本当に喜びでピアノを弾いておられる。

金、土とお会いしたガールズの姿に「幼子のようにならなければ、神の国にはいることはできない」と言われたイエスの言葉を思い出させられていました。

人は子供から大人になって、また幼子を取り戻すんだな、と思わされます。

ちなみに、このgoldstar.comというサイト、結構お得情報が手に入り、お世話になっています。


今回は特別にお得でしたが、宮古の先生が来られた時に、ダウンタウンの水上バス観光も、半額くらいで行くことができました。これはその時の西の空、ニュージャージー方面です。

きょうの「日々のみことば」から。
今日は第一コリント15:1-11を読みました。

「神の恵みによって、私は今の私になりました。」10節。

パウロが今の自分があるのは神の恵みによるのだ、ということ、本当にそうだと思いました。私もそうでした。そして、一人の人がイエスを信じて信仰をもって歩み出すのは、決して、簡単なことではない、本当に神の奇跡なんだということを思わされています。

だから、いろんな知恵を用いた言葉や、説得力とか、そういうものではどうにもならないのだと思います。

神様の奇跡が必要なんだ、神様が触れてくださること、神様の恵みによって、触れていただくこと、それ以外にないんだと思わされます。

だから、本当に祈って、神様の恵みを待ち望みたいと思いました。
それも、また私たちが幼子のようになること。

主が大きなことをしてくださいますように。

主よ、
あなたの恵みを求めます。
私が何をしたからではなくて、ただ、あなたの恵みによって救われたことに感謝します。
どうか、私のまわりにいる人々、私が出会う人々に、あなたの恵みが届きますように。

2012-07-26

「あなたの若い日に造り主を覚えよ」

昨日はこんな夕日。
ウチの庭からだとあまり空が大きく見えないので、小さく切り取った空ですが。




そして、夜になると星が瞬いていました。






でも、今日は朝から「夕方にはdangerousなstormが来ますよ!」と予報が出ていました。
そして、6時半頃には空が暗くなってきて、不気味な雲が流れてきます。


「強い風で、いろんなものが飛んできますから、窓から離れてください」とラジオやテレビでは繰り返していたのですが、その雲の写真を撮らないではいられなくて、様子を見ながら、写真を撮っていました。




雲は左から右に流れていました。
よく見ると嵐を予感してか、鳥が飛び回っているのが見えます。
この後、風が強くなって、雷雨になりました。
今は夜の10時。すっかり雷は収まりましたが、ちょっと雨が降っているようです。
ウチのあたりは、恐れていたよりは、マシだったようですが、幾つか竜巻も発生したようです。


でも、同じ空でも、本当にいろんな表情があるんですね。


人間の小ささを感じます。


そんなこの世界を造られた神様の大きさを知ってもらおうと、教会に来ている子向けのミニキャンプを7月の初めにやりました。楽しかった〜。場所は牧師館。ハイ、我が家です。




聖書を読んだり。
遊んだり。

遊んだり、

遊んだり、

遊んだり、



遊んだり、





ごはんを自分たちで作って食べたり。
のり巻食べたり、






おいなりさん、食べたり、






すいか、食べたり、






バームクーヘン、食べたり、






ながしそうめん、食べたり、






パンケーキ焼いて食べたり






スイカの皮で顔作ったり、






工作したり、



カタツムリ作ったり、





もう、ホントに「やばたのしい」3日間でした。


教会にいつも来ている子たちのプログラムなので、ホントに少人数なんですが、小さいがゆえに楽しめるプログラム、小さいがゆえに話せる話、楽しくやりました。
そして、もちろん、お泊まりも。
楽しくて楽しくて、泊まる予定じゃなかった子たちも、そのままお泊まり。


ただただ、この子供たちに神様のみ思いが届きますように!と祈りながら・・・。

2012-07-25

牧師のなすべきことは何?

暑い日と涼しい日が何日か交代でやってくるNJの夏らしい日が続いています。
いつもよりも暑く感じますが、今日などは、夜9時で24.5度ですから、快適です。


明日はまた暑くて午後からは雷雨がありそうです。






7月の初めに、アメリカに来て20年になりました。
そして、もうすぐ、NJの教会の牧師になって15年になります。
いつも祈りながら、主に聞きながら、牧師のなすべきことを求めています。


今年の春に「Emotionally Healthy Leadership Conference」というのに出席してきました。
ピーター・スキャゼロという人の「情緒的に健康な教会を目指して」という本を読んで、彼が主宰するセミナーに出たいと思ったのでした。


その中で学んだことの一つに、「応えられない期待は怒りになる」というものがありました。
・・・だから期待に応えましょう・・・という話ではなくて、「その期待は言葉にしていないことが多いので、伝わっていないことがある」「伝わっていないのに、その期待を『当然の期待』として押し付けるのは不当」(日本では「それ読むのがプロ」みたいな風潮がありますよね)「期待を伝えられた方は、それに応えられるかどうかを、はっきりと答えるべき」という話でした。


そんな学びをした後、役員会でみなさんに牧師に何を期待しているかを言葉にしていただきました。


本当に愛にあふれた皆さんの言葉をいただいたのですが、今度はその「期待」に対して、私がそれに応えられるかどうかをお答えすべき番で、それを反芻しながら、過ごしてきました。


その中で、ずっと心に留まっていて、また読み返そうと思っていたのが「牧会者の神学」という名前のユージン・ピーターソンの本。ずっとずっとここに戻らなければ、と思っていました。


久しぶりにその表紙を開いたら、その裏にこんなことが書かれていました。


「本書は牧師の本来の働きは『聞くこと』であり、また『神が聖書において、祈りにおいて、そして隣人たちにおいて語る時、人々がその御言葉を聞きとる援助をすること』であると定義することによって、牧師の召命を教会運営という宗教的事業経営のごときものに歪小化しようとする強い圧力に対する解毒剤を提供する。」


牧師の働きで本当に大切なのは教会運営ではなくて、自分が神に聞いて応えて行く、そして、人々が同じように神に聞いて応えて行くサポートをする働きなんだと、もう一度引き戻されたような気がします。


そして、原題はこのようにありました。



Working the Angles: The Shape of Pastoral Integrity




「Integrity」・・・日本語にはしにくい言葉ですね。首尾一貫していること、表裏がないこと、一つの人格として統一がとれていることを表す言葉です。


いろいろなすべきこと、そして、「このような必要がある」という声、でも、与えられた時間や能力は限られている、そんな中で、自分が引き裂かれてしまわないために、自分のなすべきことは何なのかを、しっかりともって歩ませていただくことの大切さを思います。


さて、「日々のみことば」から。
今日はコリント第一の手紙13章。
これは「愛の章」と言われるところです。


「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。・・・」4-7節


正直な反応は、自分には愛がないなあということであり、ではどうすればいいの?ということでした。その前には「こんなことをしても、こんなことができても、愛がなければ、すべてはむなしい」と書かれています。絶望的な気持ちになります。


12章の最後には「さらにまさる道を示してあげましょう」と書かれているのですから、この道を求めるべきなんでしょうね。


本当に祈るしかありません。「私に愛を与えてください。私に愛することを教えてください」と。


よくいわれることではありますが、この「愛」の部分に自分の名前を入れて読んでごらん、「・・・は寛容であり、・・・は親切です。またひとをねたみません。・・・は自慢せず、高慢になりません。」と読んでいると、恥ずかしくなって、すぐに詰まってしまう。でも、そこに「キリストは」とか「神は」と入れるならば、どうだろうか、と。


本当に愛の源である方に愛することを教えていただきたいと思います。


主よ、
私の中に愛のないことを感じます。
愛することを教えてください。
これはもうあなたに頼るしかありません。
愛のなんたるかを教え、愛することをさせてください。


PS. ちなみに、このブログの題の「日々の祈りと日々の遊び」という言葉もこのピーターソンの本からアイディアをもらっています。「祈りと遊びは、その深い部分において、互いに一致するものを持ち、広い内的関連性を持つものであって・・・」99ページ。

2012-07-20

「手を入れてきれいにする」

昨日は、本当に暑くて、我が家の庭の温度計で(デッキのある壁に貼ってあるので、照り返しで高くなるのかもしれませんが)、41.7度Cまで上がりました。でも、その後、雷雨で20度台に下がり、今日は一日20度台の涼しいくらいの一日でした。ホッ。


明日は雨で肌寒いくらいかもしれません。22度くらい、の予報が出ています。


ちょっと前後しますが、6月の初めに、庭の木を一本切りました。
息子がいるうちに・・・と思って。



はしごに乗っているのが息子で、私はこのロープを持って、木があらぬ方向に倒れてしまうことがないように引っ張っています。(そして、写真も撮っています)

去年の10月に大雪が降った時に、大きなダメージを受けた木です。
元々、この家に引っ越してきた時にはそんなに大きくありませんでした。
でも、最近はどんどん大きくなってきて、隣から苦情が出るくらい。

なので、切ることにしました。3本あったのですが、少しでも自分ができることは自分で、と、その中で一番低い木は自分たちで切ろうと。

でも大変でした。のこぎりで、すごい時間かけて切りました。あと、切った丸太の重いのなんのって。

でも、それを観念して買ったチェンソーで玉切りにしてみると、


年輪が10年分くらいしかありません。
ホントにこの10年くらいの間にどんどん伸びてしまったということ。
こんなに大きくなる前に、ちゃんと手を打っておけば・・・ですね。

あとの2本は業者の方に頼んで切っていただきました。
大きなクレーンが来て、大の男が5人掛かりで、
1時間かけて切っていきました。

これが切る前。


そして、これが切った後。


本当にすっきり、きれいになりました。

イエスさまが「ブドウの木」のたとえ話をされた時に、
こんなことを言われました。

「実を結ぶ枝は、父が手入れをしてきれいにしてくださる」と。

ブドウの木はこんな勢いで太くならないけど、本当にいずれにせよ、ほっとくのはよくない。

それは痛いかもしれないし、悲しいかもしれない、避けたいかもしれない、でも、伸びっぱなしでは、実を結ばない、それだけではない、我が家の庭の木のように、切らなければいけなくなってしまうかもしれない。神様の手入れを、神様の剪定を、痛くても、辛くても、受け止めることができますように。

ちなみに、切った丸太はキノコを植えてみます。夏じゃなくて、春や秋に切った木で作るみたいですが、どうかな。

昨日の「日々のみことば」から。
昨日は第一コリント10:1-13を読みました。

「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」12節

私はこの言葉、本当に大切だと思うんですよね。
「自分は大丈夫」と思っている人がほんとうは一番危ない。
・・・そう思って、教会の皆さんに、話をします。
「自分は大丈夫、と思っている人が一番問題なんです」と。

でも今日もそんなことを考えながら、
「いや、自分こそ、だれよりも『自分は大丈夫』と思っていないか」と思わされました。

本当に主に信頼して、主に頼って、倒れないように歩ませていただきたいです。

主よ、
あなたの支えによっていかされていることを、忘れないように、守ってください。
いつもあなたの御許に歩むことができますように。

2012-07-17

めげないで出て行くこと。

今日は暑かったです。
38度以上に上がりました。
湿度はそれほど高くなかったんですが、日差しが強くて、車の中が高温になるので、外に出るのがちょっとおっくうになるくらい。


今夜から明日にかけて蒸し暑くなり、
明日は午後から雷雨の予報です。


今日は最初から「日々のみことば」の話。


今日、6時頃に起きて読んだのが、コリント第一の手紙9:19-27。
その中で目に留まったのが、24−25節。


「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」


伝道する者の真剣さ、情熱を感じました。
で、朝からこんな箇所を読んだら、昨日3週間ぶりに再開したジョギング、ちょっと筋肉痛かな、ということで休んでなんていられなくなりました。
で、走りましたが、本当に何度も何度も、「もういいや」というポイントを通って、とりあえず目標の30分。昨日よりもちょっとペースは遅かったようですが、走りきりました。


明日の朝はものすごい蒸し暑い予報が出ているので、自重して、今度は金曜日の朝くらい、と考えていますが、本当に自分との戦い、という部分もありますね。


でも、私たちが主の働きのために立ち上がる時に、その働きは主と共になす働きだということ。主が力を与えてくださるからできる。いや、本当に私たちの弱さに主の力を表してくださるから、恐れないで働ける、そう思います。


さて、先月の半ば、もう1ヶ月前になりますが、岩手から来られた先生ご夫妻、個人的にお話を伺ったり、集会でお話をうかがったりしている中で、本当に大切なことを教えられたように思います。7−8月号のニュースレターで、分かち合わせていただきましたが、リンクだと切れてしまう可能性があるので、その文章をここに転載します。






6月の中旬に、昨年の東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県宮古市から、宮古コミュニティーチャーチ牧師の岩塚和男先生ご夫妻をお迎えして、お話を伺う時をもちました。本当に遠く離れたところにいる私たちには少しずつ過去のものになりつつあるように感じてしまうあの大きな震災が、現地に歩む方々にとっては決して過去のものではなく、今も、皆さんが、たくさんの戦いや、大きな不安の中に歩んでおられることをもう一度、認識する時となりました。 その中で、先生方がお話をしておられたことの中で、一番印象に残っているのは、震災直後のことでした。 教会堂は津波があと50メートルのところまで来たものの、無傷ですんだので、大きな紙に「避難所に使ってください」と書いて窓に貼っておいた。すぐに電気が回復したので「携帯の充電できます」と書いて窓に貼っておいた。でも、誰も来なかった。待っていても誰も来なかったというのです。そこで、先生は避難所を回って行った。「教会の牧師です」と言っても、「宗教活動はお断りです」と相手にされなかった。お寺の住職には話をしてもらっているのに・・・。別に先生は伝道しようと思っていたわけではなかった。ただ、本当に多くの人々が痛みを覚えている中で、人々に仕えたいと思っておられた。そして、本当に膝をついて、体を使って、人々に仕えて行った。教会に届けられる世界中からの支援物資を周りの人々に配り、人々からの善意の支援物資が避難所や倉庫に山積みになったままになっていたのを見て、その仕分けと配布を自ら買って出て、それを空っぽにしていった。少しずつ、少しずつ、人々の信頼を得るようになっていった。家を失った人々が避難所から仮設住宅に移っていった後も、丁寧に丁寧に仮設のリーダーと連絡を取り、信頼を勝ち取っていった。一軒一軒人々の安否を問いながら、訪問を続けた。「来るな」と言われた家でも、家から出られなくなった人々、昼間からお酒をあおっているような、とっても放っておけない人々は、何度も何度も訪問を続けた。そして、今は訪問を待っている人々、訪問を待っている仮設のコミュニティーがいくつもあるという。 どんなにすばらしい施設を持っていても、どんなにすばらしいメッセージを持っていても、どんなにすばらしいサービスを提供できても、いつまでも待っているだけだったならば、先生方は人々と出会うことはできなかったでしょう。どんなにか出て行くことが大切なのか、ということを思わされます。 イエスは言われました。「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)と。私たちがもっともっとこの地域のコミュニティーに出て行って、人々に仕えることができますように。


私たちが出て行くべきところ、それを問いながら、でも、いつまでも考えているばかりではなくて、具体的に形にしていければと思います。

2012-07-16

休むこと。

ちょっとここのところ、しっかり「休む」ことをして来なかったのですが、今日はしっかり休みました。メールのやり取りも一日、自分の好きなことや家族のことをしながら時間を過ごしました。


で、その休みつながりでもあるのですが、6月の2週目は岩手の宮古から、被災地支援を1年以上にわたって続けておられる牧師夫妻においでいただいて、お話を伺うとともに、休養も・・・と思い、教会としてお招きしまた。


そして、お伺いしたお話も改めてご紹介したいですが、今日は休む話。


どこまでお休みになれたかわかりませんが、本当に、どんな働きでも、ちゃんと休むことって大切ですよね。よりよい働きをするために・・・ということもあるけど、その人が本当にその人として生きるために、ちゃんと休むことが大切だと思います。つまり、走り回っていないと何か悪いことをしているかのような、自分の価値が見いだせないような、そんな状態になってしまいやすい私たちが、ちゃんとゆっくり休んで、神様とゆっくり時間を過ごしていく中に、「ああ、自分は自分でいいんだ」と感じることって本当に大切だと思うのです。何かをすることにではなく、ただここに生かされていることに意味を感じる、そういうひと時。


で、火曜日に到着された先生方は雨の一日だった火曜日には十分睡眠を取っていただいて、水曜日から、ペンシルベニア州のランカスター地方にご案内しました。


今も、電気や車を使うことを拒否し、馬車で生活しているアーミッシュの方々が多く住む地域です。






こんな馬車がひっきりなしに通ります。


ゆっくりと時間が流れるところで、ゆっくりと過ごしていただきました。


そして、ご夫妻の雰囲気がちょっと伝わる一枚を。




写真を撮る夫をじっと暖かく見つめる妻・・・って感じ。
こうやってずっと働きを続けておられるんだなあと思います。


今回の1週間の滞在がこれからの働きのために、少しでも力になれば・・・と思わされます。


久しぶりに「今日のみことば」から。
先週読んだ言葉ですが、コリント第一の手紙1章17節。


「キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。」


本当にそうだと思いました。
いつの間にか、洗礼を受けた人の数が、その教会の祝福をはかったり、牧師の働きを評価したりするような基準になっているように思う。少なくとも自分の気持ちの中にはそういうものがあったと思う。


でも、私の使命は、「福音を宣べ伝える」ことにあったんだと、もう一度思わされました。


神様、
いつもいつも忠実にあなたのメッセージを語る者でありますように。
あなたがいつも語るべきことを教えてくださいますように。

「虹」神の栄光と、神の決意。

5月の末からの続き。
カルフォルニアから帰ってきて、1週間後。
6月6日の夕方に郵便局が閉まる前に郵便を出そうと思って、通りに出たら、なんだか車がゆっくり走っている。「もう、急いでいるのに!」と思って、曲がり角を曲がったら、そこには見事な虹が。多分、人生で一番はっきりくっきりの虹でした。

で、結局、「消えないでくれ〜」とあわてて家に帰ってカメラで撮ったのがこの写真。

外側にもうすーく、写っていますが、実際はもっとはっきりと見えたダブルレインボウでした。


で、くっきり写っている内側の虹を望遠で撮ると・・・


赤、橙、黄、緑、青、藍、紫と見えますね。無理やり言っている感もあるけど。
でも、その内側に黄色と緑もあるように見えます。

本当にそれほど、鮮やかな虹でした。

虹って、英語ではrainbowで「弓」なんですが、実は旧約聖書が書かれたヘブル語でもそうなんですね。「雲の中に弓が現れた」と。新約聖書も含めて、聖書の中には4回出てきます。

ヨハネの黙示録の4章で、神の栄光の姿として、10章では天使の姿として、虹が輝いている姿が描かれています。

またエゼキエル書の1章にも、神の栄光を表す様子として使われています。
「そのまわりにある輝きのさまは、雨の日に雲に起るにじのようであった」1:28。

その「弓」としての力の象徴か、それともその鮮やかな色ゆえか、神の栄光を表すものとして虹は理解されてきたようです。本当にそうですよね。私もこの虹を見た時に、「かみさま、すばらしい!まさにアーティスト!」と思いました。

そして、もう1つが創世記の9章のノアの記事です。

神は虹を契約として与えられたとあります。
「もう、私は洪水によって人を滅ぼすことはしない」と。
この虹はその契約のしるしだ、と。

この「洪水」と訳されている言葉はノアの洪水にしか使われない言葉で、「地のすべてを滅ぼし尽くしてしまう大洪水」を指しています。ですから、神様は「地のすべての人々を滅ぼし尽くすような洪水はもう起こさない」と言われたわけです。

ということは、私たちはこの神様の決意がなければ、地上からぬぐい去られてしまっても、滅ぼされてしまってもおかしくなかった、それほど、人の罪は深いのだということを聖書は語っているのだと思います。

そして、神はもっと大きな決意をしてくださいました。それは私たちが信じる時に救われる道を開く、そして、そのために、私たちの罪が赦されるためにひとり子を与える決意をしてくださったのです。

次にこんな虹を見る時にはそんなことを思いながら見上げようと思います。

今も、大雨の中におられる方々のために守りを祈りつつ。

2012-07-12

先の世代を支える使命。

今日の夕方、無事に帰宅。


皆さんに祈られていたせいか、疲れをあまり感じない旅でした。
今日の午後、フィラデルフィアの郊外に引っ越された方をご訪問する予定があったのですが、それまでちょっと時間があったので、当たり前のようにハイウェイを指示してくるカーナビを無視して、ローカルの道に入って、バージニア州とメリーランド州の境を流れるポトマック川沿いに車を止めて、河原に降りていくことに。


すると、どこからか、滝の音が。
その音のする方に歩いていくと、ポトマック川に流れ込む小さな流れの途中に滝がありました。「滝フェチ」を自認する私は、そこに進んでいくことに。水着だったら、うたれに行くことができるくらいのちょうどいい滝。




そして、足下を見ると、そこにはなぜか「しそ」が。




なぜ、ポトマック川のほとりに「しそ」はないだろう、とにおいを嗅いだら、正真正銘のしその香り。なぞだ。


でも、そんなこんなで、河原で一休み。
癒されて再出発。


そして、午後にご訪問したのは、先日80歳のお誕生日を迎えられたご婦人。
今日は2時間くらい、戦後の満州からの引き上げの話、そして、アメリカ空軍の軍人だったご主人と結婚されてアメリカに来られる時の話、本当に壮絶な話を伺いました。


アメリカに来られる時には生まれて初めて乗った飛行機のエンジンが2つ火を噴いて、海面に着水しなければいけないかも・・・と言われて、海面すれすれを低空飛行して、なんとか、着陸できる島を見つけて、そこに無事に着陸。でも、泊まるところもないので、砂浜で寝たとか、翌日、エンジンを修理して、ハワイ、サンフランシスコと飛んで、民間機に乗り換えてやっとのことでNJに着いたとか、まあ、本当にすごい経験をして来られたようです。(満州引き上げはもう、悲しすぎる話がたくさんありました)


お話を伺いながら、本当にこの世代の方々のことを支える使命が私たちにはあるんだと思わされました。


今まで「次の世代」のことをよく口にしてきましたが、「先の世代」の方々を支えることも、ほんとうに大切な私達の使命ですね。主の導きに感謝。

2012-07-11

目指せ!「手乗りハチドリ」

さて、本格再開に備えて、やはりこの1ヶ月余の間のことをぼちぼち書いていこうと思います。


もうずいぶん前ですが、5月の終わりに、3日間だけ、南カルフォルニアで会議に出席していました。会議自体も本当に、そこに加えていただけたことが喜びとなるような幸いなひとときだったのですが、直前に新しいおもちゃを手にしていた私は、その新兵器を手にちょっと散歩に出ました。


そして、ニュージャージーとは全く違う植物の写真をいろいろ撮っていたのですが、途中で、ハミングバード(ハチドリ)に出会ってしまったわけです。そして、そこで格闘。そして、成果はこれ。






さすがハミングバード、羽ばたきのスピートが半端じゃないので、羽が止まっていませんが、初めてではこんなもんでしょう。


で、Youtubeにはこんなのが。







その後、NJでも庭に来た、という話を聞いて、よし、「目指せ!手乗りハチドリ」だ、としばらく蜜を置いていたんですが、まだお目にかかりません。


実現するんだろうか・・・。でも、ぜひやりたい。アラスカに住みたい。



「信仰によって今も語っている」

前に書いたのはいつだったかなあ、と思ってみてみたら、6月11日、ちょうど一ヶ月前。

そのあと、どんなことがあったかなあ、と振り返ってみると、
12日から日本の宮古で被災地支援をしておられる牧師夫妻と時間を過ごして、
25日から「ひがきゃん」があって、
2日から「教会ミニキャンプ」があって・・・と続いて、
その間に上の娘の高校の卒業式があったり、
暑い中、庭の片付けをしたり・・・
Facebookの方が気楽なので、ちょこちょこ書いてきましたが、
こちらはなかなか手つかずでした。

今週は急遽外に出ることになでも、おかげでこうやって時間ができて、久しぶりの更新。1ヶ月も休んで、訪問してくださる方はいるんだろうか・・・と思いながら、昨日の出来事を。

先週の木曜日、ここにも何回かご紹介している私たちの大切な方が主のみもとに召されていかれました。

父と同じ年に生まれ、父と同郷の島根県で育たれ、私の名前も一発で読めた方。
くわしくはこちら
息子がアトランタの大学に入ってからは、毎年、夏の終わりに大学に息子を送っていく時は、お寄りしていました。たくさんお世話になりました。

昨日、メモリアルサービスがあり、ここまで数ヶ月、あまりまとまった時間が取れないできたのに、今週は特別な動かせない用事がない1週間。

これは「行って来なさい」と主が言われたのだと、感じて(元々あんまりそういうのない人なんですが・・・)、教会の皆さんにも祈られ、励まされ、車を12時間ほど走らせて、お伺いしました。




象徴的だったのが、この聖書とバッジ。

60代半ばで教会に通い始めたこの方が、どれほど一生懸命聖書を読み、聖書に聞いてきたか、それを感じさせる書き込みがいっぱい。ところどころ日本語も見える。

そして、このバッジは、「歓迎係」用のバッジです。
クリスチャンになられてからは今では6000人の方が集まるというこの教会(行き始めたころは数百人だったそうですが)で、歓迎係をニコニコしながらされていたそうです。

この言葉を思い出しました。

「彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。」ヘブル11:4

2012-06-11

ペテロ第一の手紙から教えられたこと。

また久しぶりの更新になりました。 
いろーんなことがあって、いろいろ分かち合いたいことはあるのですが、
まずは、この更新を休んでいる間に読んでいた聖書の言葉から。

 ペテロ第一の手紙を読んでいました。
そして昨日が最後でした。
 その中で、先週の火曜日の読んだところ、 3:9が心に残りました。 

「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」

 これができない。
本当に難しい。 
最近心に迫る言葉が、

「自分にあいさつをしてくれた人にだけあいさつしても何になる。そんなの誰でもできる」

というイエスの言葉です。

侮辱されたら,むっとしてしまう。
 攻撃されたら言い訳をしてしまう。
自己防衛をしてしまう。 

先週の金曜日にはルカによる福音書のイエスの十字架の場面を読んでいました。
そのイエスの姿。
自分を憐れんで、声をかけてくれる人にも、
 自分を十字架にかけて、ののしり、つばをかける人にも、
 同じように接したイエス。

自分だったらどうするかと思う。
自分の痛みをわかってくれる人には、「わかってくれる?」と答え、
自分をののしる人には「なんでそんなことを言われなければいけないんだ?」と答える。

でも、イエスは変わらなかった。
自分のことではなくて、人のことを考えていた。 

そのような歩みをさせていただきたいと思う。

主よ、
どうか、あなたの御言葉通りに歩めますように。
祝福を受け継ぐ者となることができますように。

2012-05-25

労苦は無駄にならない。

なんだか、最近なかなか定期的にアップできないでいますが、元気しています。
ここのところ、NJは毎日雨続き。
昨日は何度も雷が鳴り、土砂降りがあり、
今日は朝のうち、霧雨。
でも、午後には晴れて、蒸し暑かったです。


このさきも、結構こんな天気みたいです。


先日、20年前、日本で私が牧師として駆け出しの時に、出会った、一人のご婦人から連絡をいただきました。ご主人が洗礼に導かれたと。


彼女の方は、日本でわたしたちが牧師として働きを始めたところに、集って来られて、いろいろ質問をして来られていました。そのあと、引っ越されて、アメリカに渡られて、NY州のロングアイランドの普通の英語の教会で洗礼を受けられました。
その後、ご一家はロスアンジェルスの南に引っ越されて、10年以上前、まだ、ウチのしたの娘も生まれる前だったと思いますが、一度お伺いしたことがあります。でも、その後、たまに連絡がある程度でした。


でも、今年になってから、息子さんが洗礼に導かれ、そして、今回、ご主人も洗礼を受けられたとのこと、本当にうれしいニュースでした。昨日、そのメールを読みながら、涙が止まりませんでした。


決して「洗礼」の数をカウントしてそれで成否を判断するのではないのですが、やはり、洗礼に導かれる方々が起こされないと、さびしいものです。「何か自分は間違っているのではないだろうか」と思うことさえあります。


そんな中で、このようなニュースを聞いて、ああ、20年前のあの働きも決して無駄ではなかった、そして、すぐに何かの結果が出なくても、忠実に語り続けること、伝え続けることの大切さを思わされます。


なまけ者は寒いときに耕さない、それゆえ刈入れのときになって、求めても何もない。」箴言20:4


主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」第一コリント15:58

2012-05-17

朝が楽しみ。


今朝はぐっと涼しく、すかっと晴れて、さわやかな朝を迎えました。

冬は「寒いから・・・」、夏は「暑いから・・・」、春は「花粉が飛んでるから・・・」といろいろ理由をつけて、ご無沙汰していたジョギング、昨日始めて、今日筋肉痛なのは、喜んでいいのか悪いのか・・・。

でも、昨日の寝る前から、走るのが楽しみでした。

元々、自分にとって走ることは、訓練でしかなく、楽しいものではなく、あんまりやりたくないけど、さすがに運動不足で、やらないと・・・というものだったのですが、今朝は、「楽しみ」にしている自分がいて、走りながらも「楽しんでいる」自分がいました。
楽しみにしていたら・・・遠足の日の子供のように、早く目が覚めて、その前に、昨日の夜も、すべてを早く済ませて、早く寝たい、と思っていて・・・とすべてがいい循環になっていくんですね。

お祈りもそうだと思いました。

義務で15分座って祈っていなければ・・・と思っていると、それは辛い。
訓練だから・・・と言っても、そういうことを喜びにできる人はいいけど、自分はそういうのが苦手。そして、どうしても他のことが優先されて、後回しになってしまう。
もちろん、ながーいクリスチャンとしての歩みの中では、そういうときもあるだろうし、そういう「訓練」的な見方も必要なのかもしれない。

でも、神様と共に歩むこと、神様とともに過ごす時間の尊さ、楽しさ、もっと知ることができたら、と思います。



これはジョギングのあと、Instagramという最近Facebookに買収されたiPhoneアプリで撮った写真。昨日はどうしてもうまくいかなかったけれども、今日は花びらが開き始めて、いい感じ。そして、素の写真よりも、Instagramの効果がいい感じ。

そして、一日さわやかないい天気でした。
この先も日曜日くらいまでいい天気が続くようです。

さて、今日の聖書。
今日は歴代志第一17:1-15でした。

「ナタンはダビデに言った。『あなたの心にあることをみな行いなさい。神があなたとともにおられるのですから。』その夜のことである。次のような神のことばがナタンにあった。」2−3節。

朝令暮改という言葉がある。
誰も、朝言ったことが夜変わっていることは気持ちがいいものではない。
一度言ったことを撤回するのもみっともない。
振り回される方も大変だ。

預言者ナタンが王ダビデに「神のために神殿を建てたい」と言った時に、ナタンは「神があなたと共におられるから、ぜひやったらいいでしょう」と答えました。でも、その夜に神様はナタンに、昨日の言葉を撤回しなさい、ダビデが建てるのではない、と言われるのです。

ナタンはどんな気持ちだったかなあと思いました。
みっともない。
かっこわるい。
みんな、自分を信頼しなくなるんじゃないか。
言うことが変わるのはよくない、そんなことを言われるのではないか。
何よりもダビデが「なんだ、昨日はいいって言ったじゃないか」と切れるのではないかと思ったかもしれません。

でも、ナタンは神様に従いました。

自分のメンツや、人々の期待や、そんなものに振り回されない事の大切さを思います。

主よ、
あなたに従う者とならせてください。
人がどう思うかではなくて、あなたに従う者とならせてください。