2010-05-27

世界の中心で主に声を上げる。

いえ、決してNYが世界の中心だなんて
決めつけているわけではないのですが、
やはり、夕方のTimes Squareに行くと、
「おー」と思わせるものがありますよね。
観光客もビジネスマンも沢山の人々が行き交っていく中、
主に声を上げました。




昨日の夜は、NYでの祈り会の予定でしたが、
場所を提供してくださる方を含めて、
みなさんお仕事だったり、ご用事があったりで、
キャンセルとなってしまい、でも祈りたかったので、
Times Squareのこんなところに座って、




人の流れを見ながら、聖書を開いて祈っていました。


そして、ここにTimes Square Churchという大きな教会が与えられている事のものすごさを思いました。David Wilkerson牧師が今から24年前に42丁目を歩いていて、神様からのCallingを感じて始めた教会ですが、その彼を動かし、多くの人々を救いへと導かれた神様が、私達とも共におられる心強さを思わされました。


昨日は30度を超える暑さ、今日は雷雨。
さて、明日は・・・気温も20度台前半で、
過ごしやすい一日となりそうです。


今日の午後はキッズクラブ。
多くの始めての子どもたち、NJに引っ越してこられたばかりの方々、
たくさん来られました。


JOYJOYキャンプも締め切りまであと2日。
「iPad日本発売か、JOYJOYキャンプ申し込みか」というほどの盛り上がりを見せています。
ここに来て「今から間に合いますか?」という問い合わせも幾つか。
もう郵送では(ほぼ)間に合いません。
そんな中、「直接持っていくから・・・」という申し出も。
今年は今までの最大の申し込みになるかも・・・。


そして、今夜は1週間ぶりのスカイプ会議。
子どもたちのために、何を伝えたらいいのか、
熱い議論が2時間以上も続きました。
大人とは一つ違ったアプローチの必要性も感じさせられ、
どのように語ったらいいのか、考えさせられています。


さて、今日の聖書。
今日はエレミヤ51:11−19。


「ヤコブの分け前はこんなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主ご自身の部族。その御名は万軍の主である。」19節。

主こそ、私たちの分け前。
主ご自身を私たちは分け前としていただいている。
それはなんという素晴らしいことだろうか。

主の与えてくださるもの、
主がもってもられるもの、
主が私たちの人生にその歩みをいろんなレベルで共有するようにと与えられる人々。
主の与えてくださる励まし、慰め。

それらも素晴らしいけれども、
主はご自身を私たちに与えられる。

私たちの分け前となってくださる。

だから、この方が私たちの分け前だから、
堅く立っていくことができる。

大胆に歩み始めることができる。

主よ、
あなたに感謝します。
あなたが共にいてくださるから、
あなたご自身が私たちの分け前だから、
心から感謝します。
どうか、あなたと共に歩む喜びの中に生かして下さい。

2010-05-26

W Anniversary

26日の朝です。
昨日は夜、どんどん届くJOYJOYキャンプの受付の整理をしていたら、
疲れきって、11時前にはダウンしてしまいました。


考えてみたら、昨日の朝はハジのSummer Jobの面接のために、朝4時半起きだったんですね。で、夜には力尽きた・・・という感じでした。でも、肝心の朝5時から(!)の面接は「担当者が来ていないから、後で連絡する」だったそうです・・・。そんなことってあるんでしょうか。


さて、今日26日は7年目のマツイ記念日。
「え?何それ?」という方は、こちらへ。
今年はとうとうマツイくんも赤くなってしまいまして、
一つの時代が終わったことを感じさせられています。
Angelsの試合はなかなかこちらでは見れませんしねえ。
日本の方が見れるのではないでしょうか。


そして、このマツイ記念日は、先週NCでお世話になったご夫妻の結婚記念日だったんですねえ。今年は52回目だそうです。


渡米48年、多くの嵐の中を通ってこられたご夫妻ですが、共に主を見上げ、支え合って歩んでいる姿には本当に元気をいただけます。お二人がどのようにクリスチャンになられたかはこちら


このブログの愛読者であられるおふたりに心からお祝い申し上げます!


さて、今日の聖書。
今日はエゼキエル書の51:1−10。


「主は、私たちの正義の主張を明らかにされた。」10節。

はい、もう、理屈抜きに、励まされます。
私たちは自分の正しさを主張する必要もない。
主が判断してくださっているから、
主が判断して下さり、明らかにされるから、
ただただ、誠実に主に従っていきて行こう。

もしも、自分が間違っていたら、主はそのことも示してくださるだろう。

恐れないで、主に信頼して、従っていこう。

主よ、
あなたの御言葉を感謝します。
あなたが共にいてくださること、
あなたが正しい判断をしてくださること。
私たちの正義を明らかにしてくださること。
またある時には罪を示してくださること。
信頼して行きます。


今日の一日の私の歩みも、
教会の一人ひとりの歩みも、
ここに来られるひとりひとりの歩みも、
守ってくださいますように。


さて、今日は久しぶりのNYDayです。
行ってきます。

2010-05-24

投資と節約。

毎朝のように日本のニュースで「仕分け」の話をやっている。
まあ、そんなことがあるのか、ひどいなあ、という話もあれば、
そこまで切って、大丈夫?という話もあったとか。


自分はだいたい「与えられたものを大切に」と考える方だけれども、
それで損することもあるのかもしれない。
思い切って投資するときに、何倍にもなって帰ってくる、
そんなことを逃してしまっていることがあるかもしれない。
財テクの話しじゃなくて、時間の使い方とか、お金の使い方とか。


古い製品にしがみついて、それに時間や労力をとられて、
新しいものを買った場合の何倍ものエネルギーを使っていることもあるだろう。


だから、バランスが必要だと思う。


いつも思わされるのはコンピューター。
昨年の暮れに、15年ぶりくらいに、PowerBook 145以来のMacを使い始めた。
ノートブックで一番安い白MacBookを200ドル引き+消費税3.5%の店で買って、
(普通、NJの消費税は7%)
それ以上の投資を全くしないで使い始めた。


BootcampでWindows XPも走らせて、
Win版のMS OfficeとMac版のOpenOfficeで何とかやってきた。


でも、やっぱりBootcampは面倒くさい。
そこで、メモリを2G買い足して4Gにして、
VMware Fusionを導入。
合計160ドルくらい。


そしたら、もう、何て快適!
WinもMacもほんの一瞬の切り替えでできる。


何で今まで「追加投資なし」にこだわっていたんだろうかと思いました。


はい、そのMacに最初から入っているPhoto Boothという内蔵カメラで写真を撮るソフトで遊んだ写真がこちら。




左はのんちじゃなくて、サキです。念のため。






まあ、こんなふうに遊んでいるレベルですから、
何のためにあえてMacを買う?という感も否めませんが・・・。
やっぱり「遊び心」でしょうか。


でも、本当に投資の大切さも思わされる。
特に私達に大切なのは
「労力の投資」。


「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」第1コリント15:58


「あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである。」伝道の書11:1


主のために労することはすぐにリターンがなくても、「多くの日の後」にそれを得ることができる。それが主の約束です。


また我々の世代の責任として、「次の世代への投資」も大切にしていきたいと思います。


今日は予想よりも気持ちが良かったですね。
それほど蒸し暑くもなく、それほどどんよりでもなく。


でも、明日からは暑くなりそうです。
あさっては、マジ暑くなりそうです。


今日の聖書。
今日はエレミヤ50:17−32。


「主に向かい、イスラエルの聖なる方に向かって高ぶったからだ。」29節。


この箇所に何回も出てきますね。

「高ぶる者」という表現。

「高ぶる」ってどういう事なんでしょうか?
ここでは「神様に向かって」ということが言われていますね。

神様に向かって高ぶる。

やはり、神ではなくて、自分がすべてを決めていくかのような態度、
すべてが自分の力で歩んでいるかのような態度でしょうか。

でも、そうだとすると、
自分も決して、当てはまらないということはない、のだと思いました。

自分の目から見て、『あの人偉そうだな』『あの人腰が低いよね』ということよりも、
神様の前に本当にへりくだっているかどうか、なんだと思います。

処世術ではなくて、主の前に本当に自分の弱さ、貧しさを、認めて出る者でありたいです。

主よ、
あなたが今日の一日を守って下さってありがとうございます。
あなたのために「無駄」と思えるようなことを、大胆にしていくことができますように。
そして、いつもいつもあなたの前にへりくだって、本当の自分を認めて出ることができますように。

主の御手の中にあること。

昨夜はそれほど疲れを覚えていなかったのですが、
9時には睡魔に襲われて、そのまま寝てしまいました。
それで、今朝は3時起き。
すっかり朝モードです。


昨日の礼拝。特に「わたしは救われるためにはどうすればいいんですか?」という、ペンテコステの日に3000人の人々がしたようなレスポンスはいただいておりませんが、
でも、すべては主の御手の中にあることを思わされて、
平安の中にあります。
そう、昨日のメッセージの最初にも語らせていただきましたが、
聖霊様は自由な方。自由にお一人ひとりに触れて下さいますから。


もう十数年前のことですが、
アメリカから日本に一時帰国をしたときに、
一人の方をご訪問しました。


その方は、私達が日本で、大きな教会の副牧師をしていた頃、
私達の住んでいたところの近くで始まった小さな集会に集い始めいてた方でした。
お子さんをめぐる一つのトラブルのことで、心に痛みを覚えておられました。


その時に、いろいろお話をお伺いして、聖書を開いて、お祈りをしました。
帰り道、なんだか、心が通じきらない、もどかしさ、
聖書の言葉が届いているのか、どうか、わからない思いをもって、
電車に乗って帰りました。


でも、それから2週間後くらいでしょうか、
お便りをいただきました。
その日の夜に、祈りの中で、主が語ってくださったそうです。
そして、その方は、ご主人の仕事で、まもなくNYのLong Islandに引越され、
NJに引っ越してきた私達と、そのころ、Yaohanといっていた今のMitsuwaで再会。


そして、その後、現地の英語の教会で洗礼を受けられました。
今はCAで信仰生活を送っておられます。


だから、本当に人の心に触れてくださるのは主なのです。
それを信頼して歩んでいこうと思います。


さて、昨日までの「ひびみこ」から。
22日に読んだところですが、


「わたしはエラムの力の源であるその弓を砕く」49章36節。

またまた何度も出てくるテーマですが、
人々は神ではないものを「力の源」にしていました。
この場合は軍事力でしょうか。
それを主は砕かれる。

本当の力の源はどこにあるのか、それを教えるために。

わたしは、教会の牧師として何を頼りにしてきたんだろうかと思います。

正直なところ、ここでも何度も書いていると思いますが、
やはり人を頼りにしてしまうんだろうと思います。
マンパワー。

大学で社会学を学んでいる中で、
その重要性を何度も感じた、マンパワー。

牧師として奉仕をしている中でも、
最初に副牧師として任命を受けた、200人の方々が集う教会でも、
また今奉仕をしているNJの教会でも、
やはりマンパワーの大切さを感じさせられてきました。

そう、特に信仰的に筋の通った人々のマンパワー。

でも、結局のところ、どこまで行っても、
自分自身の最終的な力の源は主ご自身で、
自分自身が主によって力をいただいていかないといけない、
ということをあまり学ばないできのだと思います。

最近読んだある牧師さんの体験記も、
そのことを書いていました。
「一緒にやろう」という同労者が与えられて、張り切って新しい教会を始めたけれども、
ある時、彼が「やっぱりやめる」と言い出した。

その時に、自分はいつの間にか、
この同労者がいる、ということを頼りにしてしまったのではないだろうか、と書いておられました。そして、そこから、神様を頼りにして、神様だけを頼りにして再出発をされたと。

主が与えられた同労者に感謝しつつ、
しかし、主にこそ、力の源があることを、
いつもいつも大切にしつつ、歩みたいと思います。

主よ、
たくさんの信仰の友、
支えて下さる方々、
教会の同志としてのメンバーたち。
感謝します。
しかし、究極的な力の源があなたであること、
あなたご自身を頼りにして歩んでいくこと、
同労者たちも、互いを頼りにしてもたれ合うのではなくて、
共にあなたを頼り、共にあなたを見上げる仲間であることを、
忘れることがありませんように。


今日のひとりひとりの歩みを守って下さい。


わたしの月曜日も守って下さい。


明るくなってきました。目覚ましも鳴りました。
教会に行って祈ってきます。


今日はどんより、蒸し暑い一日となりそうです。

2010-05-23

日曜日への期待。

ペンテコステの日曜日になりました。
今、真夜中の12時を回ったところです。

説教の原稿が出来上がり、もう休みますが、
それをはるかにこえて、聖霊様が、
お一人ひとりのうちに豊かに語ってくださいますように。

2000年前のペテロの説教。
本当にストレートで、
気遣いよりも大胆さを感じます。

でも、人々の心が聖霊様によって悔い改めに導かれて、
3000人の人々が洗礼を受けるのです。

本当にストレートに福音を語ることができますように。

祈りつつ、期待しつつ。

2010-05-20

人ではなく神が。

連夜の11時台の帰宅はちょっと堪えましたが、
今日は在宅で11時台までSkypeミーティング。
いやあ、便利ですね。
今日はこの地区の日本語教会が3つ集まって、
子どものためにもつキャンプのためのミーティング。
5人が無料で遠隔地会議ができてしまうんですからね。


次のバージョンからは、少人数のビデオ会議にも対応しているとか。
やっぱりちゃんと面と面と向かって会議をしたいですが、
こういう道具をうまく活用して、主のために働くのも素晴らしいことだと思います。


今日は暑くなりました。
明日はもう一段階暑くなるようです。


今日は朝の集会も、午後のキッズクラブも沢山の方々と楽しいひとときを過ごしました。
集われた方々にみ言葉がとどまり、実を結ぶ日が来ますように。

「まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。そこで、『ひとりがまき、ひとりが刈る』ということわざが、ほんとうのこととなる。わたしは、あなたがたをつかわして、あなたがたがそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたは、彼らの労苦の実にあずかっているのである」。ヨハネ4:36−38


蒔くことも本当に大切な働き。
軽く見ないで、真剣に働かせていただきたいです。


今日の聖書。
エレミヤ書49:1−6。


「あなたがたはみな、散らされて、逃げる者を集める者もいない。そうして後、わたしはアモン人の繁栄を元どおりにする。」5−6節。


神様のアモンの人々に対する裁きの言葉。
誰も、彼らを集めることはできない、という。
散らされる一方で、
一つにされることはない。
回復させられることもない。

でも、神様にはその力がある。
神様には彼らを回復させられる力がある。

それはどのような方法によって実現されるかも神のみ手の中にある。
見た目は解放者がいるのか、占領者が解放するのか、
そういうことなんだろうけれども、
本当に起こっていることは、
神様による解放、神様のみ手による回復。

誰もない。誰も彼らを集めない。
でも、主が回復される。
主が回復を与えてくださる。

主よ、
どうか、あなたの回復を与えて下さい。
自分の頑張りも、あなたの導きと守りなしには虚しいものです。
あなたが与えてくださる回復を、待ち望みます。

2010-05-19

回復を願う主。

朝になりました。
たまには朝の更新。
昨日は一日冷たい雨でしたが、
今日もなかなか雲が取れない一日なりそうです。
明日からは回復して、また「半袖」の陽気になりそうです。


JOY JOY Camp 2010「おどろき!なぞ解き、探偵団。」申し込み殺到中。
来週の土曜日が受付の締め切りです。


火曜日から水曜日の聖書。
エレミヤ書48章の後半でした。


「しかし終わりの日に、わたしはモアブの捕われ人を帰らせる。」47節。

傲慢で、イスラエルを笑いものにしたゆえにさばかれるモアブ。
しかし、主はモアブの回復を約束された。

「ひびみこ」にはこのように書かれている。
「あなたに対して高ぶり、あなたの悪口を言ってやまない人がいるでしょうか。その人の救いのために祈ることができるように、愛を主に求めましょう。」

もしもそんなことがあったら、祈れるだろうか。

主の恵みの深さを思わされるとともに、
主の基準の高さに圧倒される。

今日も主を見上げて歩んでいきたい。

今日も、一人ひとりがそれぞれの場所にあって、
主を礼拝する歩みへ導かれますように。

主よ、
あなたの基準はあまりにも高くて、
圧倒されます。
どうか、そこまで私を導いて下さい。
自分の力ではなく、聖霊様によって愛を与えられて歩むことができますように。
今日も教会の一人ひとり、ここに連なる一人ひとりがあなたを見上げて歩めますように。
人間関係の中だけに埋もれてしまうことがありませんように。

二つほど。

また日付が変わってしまいましたが、
今日は寝てたわけではなくて、
ほんのさっき帰ってきたから。


早く休みますが、
忘れないうちに思わされたことを2つほど。


一つは「博士の愛した数式」から。


直線は紙に書いたときには、直線ではない、
最初があって最後があるのは「線分」であって、直線ではない。
そして、紙にかかれた線はどんなに細く書いても、それには太さがあるから、
厳密な意味で、直線ではない。


完全な直線は、私達の心の中にだけある。


そういう意味の記述がありました。
何かとても神聖なものに触れたような気がしました。
完全な直線は書かれた瞬間に完全な直線ではなくなる。


本当だ。


じゃあ、教会や神様はどうだろうかと思いました。


教会もこの世に置かれた瞬間に、
それは完全なものではなくなる。


神様も「こんな方だ」と説明された瞬間に、
神様ではなくなる。


さて、本当の神様は「心のなかにおられる」となると、
それもまた本当ではなくなる。
私たちの心の中に縛られた瞬間に神様ではなくなる。
神様は私たちのちっぽけな頭やちっぽけな心には入りきらない大きな方。


じゃあ、教会は?
そう、教会は反対に心のなかにある教会、というのは、
実は本当の教会じゃない。
本当の教会は、いつでもこの世に存在する不完全な存在。
その不完全な教会を、聖書は「キリストのからだ」であると言う。


とてもおそれおおい話だと思う。
不完全な教会を「わたしのからだ」と呼んでくださることの恵みを感じる。


もうひとつは日付が変わったので昨日になりましたが、お会いしたある方がいわれていたことば。
「信じることの恐ろしさ・・・」
これは本当に深い言葉だと思いました。


ほんとに信じるとは恐ろしいこと。
それが人生を決め、歩みを決め、生活を決め、
お金や時間の使い方を決めていく。
いや、人生自体の使い方を決めていく。


信仰者として、そして、また信仰者を励ます者として、
信仰への招きを語る者として、
決して忘れてはいけない言葉だと思いました。

2010-05-18

守られて感謝。

月曜日のために祈って下さい、
と思い切って、お願いして、
心は守られて、支えられて、ああ、祈られたんだなあという一日でした。
朝飯前には祈った後、庭掃除から一日をはじめるという
なんだか、日本にいるかのような気持ちのいい一日のスタート、
そして、のんちが帰ってくる夕飯も6時にはもう出来ている、という、
心的には健康な一日でした。


ありがとうございます。


日付は変わってしまいましたが、
昨日は、医者の予定(両方チェックだけ)が2つ入っていて、
2個目、午後行った方、オフィスが鬼のように寒くて、
それでおかしくなったんでしょうか、
せっかく心が元気なのに、カラダが変調をきたし、
夕方から頭痛が始まって、9時前にはもうダウンしておりました。


夜中の1時前にモゾモゾ起き始めて活動開始、
でも、余り長い間起きていると、朝がきついので・・・
と思いながら更新しております。


さて、日曜日からはエレミヤ書48章のモアブについての預言のところです。
月曜日までの1-25節の中で心に留まったのは、7節。


「おまえは自分の作った物や財宝に拠り頼んだので・・・」

繰返し繰返し語られることですが、
「あなたは何を頼りにしていますか?」と問いかけられる。

本来道具であるはずのお金やモノにいつの間にか支配されていないだろうか?
「これがあなたを生かしている」と思わされていないか。

ネットもそうだ。

PCもインターネットも、タダの便利な道具なのに、いつの間にかそれに支配されてしまっていないだろうか?

20年前はPCを持っている人は本当に特別な人だった。
日本では、「ワープロ」までだった。
24年前の大学の卒論までは手書きだった。

つい最近出てきたばかりの道具であったPCが
今や私達を支配しようとしている。
一日繋がらないと「大切な情報をミスしていないか」と不安になったり、
陸の孤島に取り残されたような気になったり・・・。

「あなたは何を頼りにしていますか?」

本当は私たちは私達を創造された主を頼りにしていくべき者であるのに、
何を頼りにしているだろうか?

いや、一般論としての「わたしたち」ではなくて、「わたし」はいったい、何を頼りにしているだろうか。

やはり自分?健康?誰か信頼できる人?

主を信頼しよう。
主との関係の中に生きよう。

主よ、
あなたの守りを感謝します。
祈って下さる方々が与えられていることに感謝します。
あなたを頼ります。
あなたを頼る者を祝福してくださることを、弱いわたしに経験させて下さい。


夜中の2時半。
今日はこの後、雨のようです。
またひと休みして、朝に備えます。

2010-05-16

月曜日のために乞祈祷。

みなさんは月曜日をどのように迎えられるでしょうか?
日曜日にいただいた恵みに溢れてスタートされるでしょうか?
仕事や学校が始まることに重い心を抱えて始められるでしょうか?

私はいつも日曜日の礼拝の後、チャレンジを受けます。
そして、月曜日に一番サタンの攻撃を受けると思います。
ですから、私もみなさんのために祈らせていただきますので、
このサイトを訪問されたみなさん、
私の月曜日のために祈って下さい。

闘いとしての礼拝。そして、礼拝のための闘い。

今回のWorship Seminarで学んだことはこれでした。


創世記4章で、最初の礼拝の中に忍び込んできた、「妬み」「怒り」、そして、最後には「殺人」。礼拝を台無しにしようという力がそこには働いている。


礼拝は、
キリストの主権を宣言すること。
神を神としてその前にひれ伏すこと。
主の臨在、神の愛を信頼して歩むこと。


それは自分の気持とはかかわりなく、です。


それを否定しようという力が働きます。
お金が私達を生かしているかのように思い込ませたり、
病が私達を支配しているように思わせたり、
神の愛を否定したり、
不信感を互いの中に植えつけたり。
でも、その中で、ハッキリと主の主権、主の支配、主の最善を告白し、
そこに生きていくのです。


毎日が「礼拝」というのもそのコンテキストで考えるとクリアに見えてきます。


そのような生き方を、社会生活でも、家庭生活でもしていく、ということなのです。


それは闘い。


だから、礼拝は闘い。
そして、そこで勝利するために、
礼拝のための闘いがある。


礼拝をリードする使命をいただいてる者として、
そこに焦点を当てて歩んで行こうと思わされました。


本当に幸いな3日間でした。


知らない曲ばかりだったのですが、
「魂」が喜んでいることが分かりました。


主を喜ぶときに、私たちは力が与えられるって、
本当ですね。


JCCNJの礼拝が、
各地の教会の礼拝が、
さらに祝福されますように。


みなさんの一週間が主の支配の中に守られていることを、
一人ひとりが経験することができますように。


さて、1週間の「ひびみこ」で語られたこと。


昨日まででエレミヤ47章まで来ました。
その中で一番心に残ったことば。


「エジプトはかわいい雌の子牛。・・・その中にいた傭兵も、肥えた子牛のようだった。」46:20-21。

戦いのために備えの出来ていない者たちの姿。
それがミジメで、滑稽なくらいだ。

最近また「龍馬伝」がたまってきてしまっているが、
ずいぶん前に見たエピソードの中で、
黒船が来たときに、
武士たちが刀や鎧を探しに古道具屋に殺到する場面があった。

徳川時代の二百数十年の平和な時代の中で、
武士が戦うことを忘れてしまった。

私たちは武力で戦うことはないかもしれないし、
そのことを願うけれども、
霊的には戦いがある。
礼拝が「戦い」だ、ということだったけれども、
本当にそうだ。

その戦いに備えが出来ていないということはないだろうか?
霊的な平和ボケというか。
いや、平和であるかのようにボケてしまっていることはないだろうか?
戦うべき時に戦わないで来たときに、戦えないものになってしまっていた、ということはないだろうか?主の力を知らない者になっていた、ということはないだろうか?

戦いの備えをしていく者でありたい。

主よ、
霊的な戦いの備えをさせて下さい。
そして、そこで勝利をいただくことができますように。
勝利を得ることができますように。
物事の本質を見ぬくことができる者でありますように。

2010-05-14

無事到着、お祈り感謝。

予定通り、今朝は8時に出て、
夜の8時40分くらいに着きました。

あちらこちら、雷雨があったようですが、
私たちはちょうど激しいのはよけて行ってくれたみたいで、
「向こうの方で稲光が光っている」とか、
「雹が降った後で、芝生の上に積もっている」とか、
「雹と風で木の葉っぱが全部落ちている」とか、
そういうのを見ながら走りましたが、
「ひどい雨で大変だった」というのはありませんでした。

祈りに守られました。
車の調子も最後まで大丈夫でした。

車の中では、ハジのMP3 Playerに入っている、
賛美の歌を中心に歌って帰ってきました。
ワーシップセミナーの続き。

でも、もう一つ絶叫したのは、
自分が中高生の時に世の中で普通に流行っていた歌です。
30年も前の歌ですよね。
それを二人で車の中で大声で歌っているというのは、
ヘンな親子かもしれませんが、
仲間になったような不思議な感覚です。

自分の心が喜んでいるのを感じました。

感謝。

また「日々のみことば」とセミナーのことは
ちょっと落ち着いて時間を作って書きます。

2010-05-13

感謝!続けて乞祈祷。

NJに戻る前に一言感謝。

今日でWorship Seminar終わりました。
本当に主がここに導かれたことを感謝しつつ、
時間を過ごしています。

みなさんに祈られている幸いを感じます。

報告はまた改めて。

Seminarが昼で終わり、
その後、会場のそばに住んでおられる日本人クリスチャンのご夫妻をご訪問して、
昨日合流したハジと、4人で幸いな主にある交わりの一時を持たせていただきました。

明日は朝8時に出発して、12時間一気に走ります。
お祈り下さい。

皆さんにとって明日の一日が主の恵みと愛とで満ちあふれた一日であることに、お一人ひとりの目が開かれますように!

2010-05-11

お祈り感謝。

無事にセミナーの会場につきました。
みなさんにお祈りしていただいて、良かったなあと思います。
半分くらい雨の中、ちょっと霧の中もありましたが、
守られました。

そして、霊的にも、今朝、主から示されたこともあり、
守られています。楽しみにしています。

では、次の更新はもしかしたらNJに戻ってからかもしれませんが・・・。

みなさんの一週間も守られますように!

2010-05-10

乞祈祷。

目的地までの半分ちょっとで投宿。
今日一日守られましたが、
あと半分の道のりも、守られますようにお祈り下さい。

また明日の夕方からのセミナーの祝福も、
私自身の霊的な状態(うーん、もろクリスチャン用語かなあ、どう言えばいいんだろう、「心の状態」?)も守られますようにお祈り下さい。

今朝は、予報ほどは下がらず、4度でした。
今夜も寒いみたいですね。


NJは今夜も「凍結警報」です。
今夜の方が風がない分、冷え込みます。
霜の恐れもあります。
0度くらい。


私の滞在先はもう少し暖かく、4度くらい。
雲も広がって、こちらは雨の中のドライブになりそうです。


さて、今日の聖書。
今日はエレミヤ44:1-14。


「わたしは、寄留しにエジプトの国に行こうと決心したユダの残りの者を取り除く」12節。


彼らがエジプトに行こうと思った理由はエジプトに行くことによって救われる、と思ったからだろう。そこに救いがある、そこに生き残る道がある。そう思ったのだろうと思う。

でも、それは神の道ではなかった。
神はエレミヤを通して、違う道を準備しておられることをなんどもなんども語った。

常識的には、確かに「降伏」よりも「エジプトを頼ろう」の方が救いがありそうに見えたのだろうと思う。

何が神の願われる道なのだろうか?
何が神のみ思いなのだろうか?

徹底的にそこに従っていくこと、
常識ではなくて、見た目の当然ではなくて、
主の願われることを見極めることのできる者とならせていただきたい。

簡単なことではないだろう。
簡単に見極められることではないだろう。
だから、一瞬一瞬主に目を向けながら、
歩んでいきたい。

主よ、
常識ではなく、計算ではなく、
あなたのみ思いを求めていくことができますように。
あなたのみ思いを知ることができますように。

2010-05-09

導きを感じて。

さっきのポストで書きたりなかったのですが、
そのThe Coveで検索したときに、
Billy Grahamのセミナー施設にヒットして、
それがNCの知り合いの方の住んでおられるところにそばで、
そして、そこにHillsong ChurchのWorship Leaderが来られると知って,
これは特別な神様の導きではないかと祈ってきました。

決して、偶然ではない。

主がこのことを導いてくださっていると信じて行ってきます。

お祈り下さい。

南へ!

今日は本当に寒いくらいの一日でしたね。
そして、昨日からの強い風、
昨日の夕方はあちらこちらで木が倒れていました。
やっと風も弱まってきたでしょうか?


でも、そこで、また問題になるのは、
冷え込みです。


今夜はFreeze Warningが出ています。
つまり「凍結警報」です。


春も早かったですが、寒さも遅くまで続く、
寒暖の差の大きいここ数ヶ月。
農家の方々も大変だろうと思います。


今は夜の10時半で6.9度。
明日の朝の最低気温は0度くらいの予想です。


その寒さから逃れるために、ではないですが、
明日から南の方にドライブして行きます。


目的地は、Ashevelle, NC。
ビリー・グラハムの研修センターでのWorship Seminar。
オーストラリアのHillsong Churchで礼拝リードの牧師として、奉仕されていた、
(今は立場は違いますが、やはりその教会で奉仕されています)
DARLENE ZSCHECH(子音ばっかりで読めない)さんが講師で、セミナーがあります。



実は今年のアカデミー賞のニュースの中で、
The Coveという日本の捕鯨を題材にしたドキュメンタリー映画の受賞がありましたよね。その時に、「何だそりゃ」と調べていたときに、このセミナーにヒットしたのでした。


というのも、この研修センターの名前が「The Cove」なんですよね。


楽しみにしています。


明日はフィラデルフィアの郊外に住んでおられる方をご訪問して、
その後、バージニアまで走ります。


昨日と今日の聖書。
昨日から今日のところは、エレミヤ42章15節から、43章にかけて。


「あなたは偽りを語っている。私たちの神、主は『エジプトに行って寄留してはならない』と言わせるために、あなたを遣わされたのではない。ネリヤの子バルクが、あなたをそそのかして私たちに逆らわせ、私たちをカルデヤ人の手に渡して、私たちを死なせ、また、私たちをバビロンへ引いて行かせようとしているのだ。」43:2-3


ひどい話ですよね。
何でも神様の語られることを話して下さい、
と言っておきながら、
実際、エレミヤが語ることが、
自分たちの考えと正反対のことであったときに、
「そんなことは神様のメッセージであるはずがない」
「バルクにそそのかされたのだ」と
いちゃもんをつけるんですよね。
なんくせをつけるんです。
それも、「あなたがたは私に悪を企んでる」とまで言われてしまうんですよね。
ああ、悲しい。

なんなんだろうなあ、と思います。

エレミヤの苦悩を思わされます。

私達が神様に従っているかどうかは、
人が喜ぶかどうかということと全く関係ないんですよね。
ある時は正反対だったりすることもある。

振り回されないで、
誠実に主に聞き、主に導かれる歩みをさせていただきたいと思います。

私自身も主の導きが自分の願いと正反対の時にも、
主に従うことができますように。

主よ、
あなたの導きを示して下さい。
あなたの導きに従って歩む者とならせて下さい。
自分の願い、人の願いにふりまわされない、
確かなあなたの導きに従う者とならせて下さい。

2010-05-07

「モンスター」にされないために。

今日は爽やかないい天気でした。
でも、今夜これから、天気は急速に下り坂。
明日の朝は激しい雷雨の可能性があります。


午後には晴れてくるみたいですが、今度は風が強くなりそうです。
日曜日は先週とは打って変わっての肌寒い風の強い日になるみたいです。


最近読んでいるBill Hybelsの本の中の一節。


「誰かとの人間関係が断絶した場合、すぐに対応しないとしたら、それは相手を串に突き刺すようなものです。あなたは何度も何度も串を回転させ、そのうち怒りの火が燃え上がるようになる。あなたはその人の悪いところを次から次へと考え出す。怒りの火であぶり続け、気づいたら、相手は変わり果てた姿になっているのです。この時点では和解することなど、全く考えられません。そう、これは殺人です。ここまで来ると、謙虚になって相手を赦すことなどできない、ということになるのです」


彼はそう言って、早く対応することを勧めている。


これは幸せなことなんだろうけれども、
私は人間が根本的にいいヤツばかりだと思っている。
ちょっと困ってしまうような人がいたとしても、
それはその人がそうせざるを得なかった事情があるわけで、
そんな悪いヤツはこの世にいないと思っている。
まあ、脳天気な人間だ。


でも、この文章を読んだ時に、
「自分は誰かをモンスターにしてしまうことはないかもしれないけれども、もしかしたら、自分は誰かにとって、とんでもないモンスターになってしまっているかもしれない」と思わされたのだ。


誰かが私を串に刺して、怒りの火であぶり続けているかもしれない、
そう思ったら、なんて、自分はうかつだったのだろうかと思った。


自分が「結局はみんないいヤツだ」と思っているから、
いつの間にか、「みんなも自分のことをそんなひどいヤツだなんて思うわけがない」とたかをくくっていたのだ。


でも、それはとんでもない思い込みで、自分はモンスターにされてしまうかもしれない、ということに気がついたのだ。


自分が誰かをモンスターにしてしまわないようにしよう、そのようにいつも思っている。でも、それと共に、私自身も誰かの心のなかでモンスターに化けているようなことがないようにしなければいけないのだ。そして、それはその人の心をしばり、蝕んで行く。


そのような事にならないように、自分の方から、心を配っていくこと、感情的なわだかまりがある時に自分の方から、「誤解されていないか」とわびていくこと。コミュニケーションをとっていくこと、そして、私であれ、他の誰かであれ、串刺しにして、火で炙っている人がいたら、「早くそこから抜け出せるように、行動を起こしなさい」と勧めていかなければ、そして、そういうことに囚われたときに相談したくなるようなオーラを発していかなければ・・・。


大切な事だと思わされました。


さて、今日の聖書。
今日は42:1-14。


「どうぞ、私たちの願いを聞いてください。私たちのため、この残った者みなのために、あなたの神、主に、祈ってください。ご覧のとおり、私たちは多くの者の中からごくわずかだけ残ったのです。あなたの神、主が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように。」2-3節。

この人達は、このとき、どこまで本気だったのだろうか?
どこまで、神様に真実に従うつもりだったのだろうか?
もう少しストレートに言うと、
どこまで、エレミヤが言う神様のメッセージに聞くつもりだったのだろうか?

結果として、彼らはエレミヤを通して語られる神の言葉に聞くことができなかった。

でも、それはこの人達が最初から、いい加減な気持ちだったことを表しているのだろうか?それとも、彼らはこの時点では、本気で従うつもりだったのだろうか?

私はこの後者のような気がしている。

それなりに真剣だった。
でも、現実に自分が願う道が閉ざされて、違う道が開かれた場合、
そこに進むようにと語られたときに、従うことができなくなってしまった。
そうなのではないだろうか?

そして、それは私たちの人生にありがちなことではないだろうか?

本気であることは大切なこと。
でも、それに負けないくらい、じゃなくて、それとは全く違うレベルで、
自分の弱さを知っている、自分の弱さに泣いている、
それがもっともっと大切な事だと思う。

「信じます。不信仰な私をゆるしてください!」と悪霊につかれた少年のお父さんはイエスに懇願しています。

私はそれこそ、信仰なのだと思います。

信仰という最高のものの中にも自分の弱さを見せつけられるのです。
でも、そこにこそ、自分の弱さを知ったところにこそ、
神様の御業がなされていくのです。

主よ、
私の中にある弱さをあなたはご存じです。
それをも用いて、あなたのご栄光が表されますように。
従えない私を赦してください。

2010-05-06

20年目の再出発。

昨日は私達が結婚して20年目の記念日でした。
本当に赦され、支えられてきたことを思わされました。


そして、昨年の夏に日本から持ってきていただいた
「ファイアーストーム」見ましたよ。とうとう。
もともとは、はちこさんのところで、Fireproofという英語の題で紹介されていて
その後、日本語版が出たと、でも、題が何故か「ファイアーストーム」となってしまったと、紹介されていて、見たいと思っていました。そしたら、集会にこられていた方が何の気なしに図書館で借りたらそのDVDだった、とても感動したと、言っておられました。


ウチの場合、英語版だと自分も不完全だし、のんちは、絶対寝ちゃうから、日本語版じゃないと・・・ということで、去年、わざわざ日本のアマゾンから日本の知り合いのところに送ってもらって、JOYJOYキャンプのヘルプのために来るときに、持ってきていただいていたのでした。でも、何故か、日本のDVDが見れる機械が見当たらない。どうしても見つからない、ということで、のびのびになっていたのでした。


この機会を逃してはいけない、と、PCを1つ日本のDVD専用にしてしまう決意で、PCの前に二人で座って見ましたよ。


よかったですねえ。
特に最初の二人の言い合いの場面。
あるある〜と互いに心が痛みながら、苦笑いしながら見ていました。


もうひとつは、主人公が限界のところに来た場面かな。


本当にイエスの恵みを思わされました。


そして、主の前に、再出発を祈り合って、今日の朝を迎えました。


今日は我が家での家庭集会、先月一回休んだので1ヶ月ぶり。
祈りつつ、楽しみに待ち望んでいました。
でも、連絡する方が次々と「ちょっと用事が・・・」なんですよね。


でも、小さな集まりでも、主が送ってくださる方は、特別に祝福してくださるから、と祈って時間を迎えたのですが、なんと、どなたも来られない。


いつも楽しみにしておられる方々が数人おられるので、少なくても5-6人にはなるのですが、今朝は二人で始めることに。


でも、祈っていましたから、平安がありました。
いろんな理由はあるでしょうし、私自身の問題もあるかもしれませんが、でも、すべての背後には主がおられて、その主が今日はどなたも来られなかったということは、特別に二人で集会を持ちなさい、特別な時を持ちなさい、と言われていることを感じました。


そして、本当に幸いな時となりました。
主の前に、普段できない話も沢山して、賛美もして、聖書を共に読んで、立ち上がりました。


ここから教会を育ててくださる。
この二人の関係から教会を建て上げさせてくださる。
そのことを思わされました。


日曜日からずっと一直線につながっているように思います。


主がすこしずつ、その心のなかにあることを、私に分かち合ってくださっている喜びを感じています。


さて、昨日から今日の聖書。
エレミヤ40-41章。
実は、昨日も「この後どうなるんだろう」と思ったら、止まらなくて、日曜日のところまで読んでしまいました。もう何回も読んで知っているところなんですが、毎回ハラハラさせられます。

「そんなことをしてはならない。あなたこそ、イシュマエルについて偽りを語っているのだ」40:16。

ゲダルヤは、「あなたのことを暗殺しようとしている者がいる」と忠告する人がいても、「何を言っているんだ?」と取り合わなかった。それだけではなくて、彼を守ろうという人達に「あなたは偽りを言っている」と語っている。

でも、実際にゲダルヤはイシュマエルに殺されてしまう。

人を信じたい自分。

いつでもひとを信じていていたい。バカを見てもいいから、裏切られてもいいから、ひとを信じていたい、そう思っている。

それが正しいとさえ思っている。

でも、今日の聖書箇所を読むと、現実に目を背けて、実際の人の心を見ないことは、やはり愚かなことなのかなあ、と思います。

逃げているのかもしれない。
わかっているのに、目をそらして、ちゃんと正しく対決したり、誤解を解いたり、そういうことをしないのは、やはり不誠実なんだろうと思う。

何度も書いているテーマだけれど、
アンパンマンと同じで「愛と勇気」は本当に大切だと思わされた。

主よ、
ありがとうございます。
20年目の再出発を感謝します。
もっともっと愛することを教えてください。
また逃げない愛を与えてください。

2010-05-05

立ち上がる前に。

朝になりました。
涼しい、爽やかな朝です。


今日は一日綺麗に晴れそうです。


昨日の朝、夢を見ました。
「私はあなたにこれから私の心の中を明かす」と神様に言われる夢でした。
それと同時に目覚ましがなりました。


ですから、すかっと目覚めて、「夢だしなあ・・・」「でも、神様が何か特別なお考えがあって、あんな夢を・・・」と思い巡らしながら、わくわくしながら教会に向かいました。


ちょうど、神様の導きを祈っていることが幾つかあったので、ビジョンが与えられることを願いながら。


でも、向かっている車の中で、与えられた思いは「悔い改めなさい」だったのです。


日曜日は子どもたちと大人と一緒にメッセージを聞く、という礼拝でした。難しさを感じながらも、子どもたちにも我慢させないで、でも、それと共に大人の一人ひとりが神の声を聞くことができるようにと祈りながら、語らせていただきました。


説教題は「さあ立ち上がろう」
聖書箇所はマタイ28:16−20。
復活のイエスが弟子たちに使命を与えて派遣するところ。


その中で、復活のイエスの前にひれ伏した弟子たちの姿に触れながら、「立ち上がるためには、普通は座っているところから立ち上がるんだけれども、神様のために立ち上がるときには、主の前にひれ伏して立ち上がる」「それまでもイエスの前にひれ伏した人たちはいたけれども、みんな『助けてください』ということでイエスの前にひれ伏した。でも、この時の弟子たちは、イエスを神として、人生の王として、その前にひれ伏したのだ」と自分が語られたことを分かち合ったのでした。


それが、昨日の朝、心に響いてきて、本当にまさに、自分自身こそが、まず、主の前にひれ伏さなければ、主の前に悔い改めるべきことを悔い改めることなければ、主は用いてくださらない、そのことを思わされ、悔い改めに導かれました。


それこそが、主の御思いの中心なんだと思います。
でも、もっともっと御心を開いてくださることを楽しみにしています。


さて、昨日の聖書。
昨日はエレミヤ39:11−18でした。


「それは、あなたがわたしに信頼したからだ。」18節。

王に進言してエリヤを助けたエベデ・メレク。
主はその神への信頼に、特別な守りをもって報いてくださった。

主を信頼するものは慌てることがない、と。

私たちが神様に頼るのを忘れて、
人を恐れると、失敗をする。

主を信頼して、risk takingをしよう。

主がなしてくださることを見せていただきたい。

主よ、
あなたの事を信頼して、なすべきことをなす者とならせて下さい。
あなたの語りかけに感謝します。
続けて、あなたがみこころを示してくださいますように。


今日の一日がお一人ひとりにとって、幸いな一日となりますように!