2010-04-03

感謝をメモる。

今日も暖かい穏やかな一日でした。
花が一気に咲いてきています。
桜も咲いているんでしょうね。
あんまりじっくり見るチャンスがなくて、
何の花が咲いているのか、わからなかったりするのですが、
とにかく街中の木々が花をつけているようです。


この暖かさは来週半ばまで続くようですね。
7日は30度近くまで上がる予報が出てきています。


でも、その後はぐんと下がって、15度くらいの日が多くなりそうです。
17日は遅霜の可能性も・・・。


一度暖かさに慣れてしまうと後がコワイかも。


今週の初めの立ち読みの日の話。
もう一つパラパラと立ち読みした本があって、
その本には、「感謝ノートを付けなさい」と書いてありました。


感謝なんて無理をしてするもんではありませんが、
でも、自然に湧いてくるのを待っていていいのか、というのもあります。
すぐに忘れてしまったり、意識しないですぎてしまうこともあります。


イエスに癒された10人の中で感謝を表したのがたったの1人だったという聖書の記事もあります。


ですから、私もやってみようかと思って、祈りのノート(ルーズリーフなので)の最初の頁に「感謝のページ」を足しました。


でも、実際書こうと思うと、常時20件というのは、結構チャレンジですね。


今日の感謝・・・明日のための備えを時間が与えられたこと。祈って支えてくださっている方々がおられること。今日お電話で話した方の中に、「明日、行きます!」と言われた方がおられたこと。


「感謝をメモる」ちょっとやってみようと思います。


今、のんちが、お米を計っていたのだけれども、途中で袋が空っぽになった。そこで、買ってきた新しいお米の袋を取りに何歩か歩いたら、「あれ、何杯まで入れたんだったっけ?」だって。あるよねえ、こういうこと。文字通り、三歩歩いたら忘れる、今日この頃の夫婦の会話。


さて、今日の聖書。
今日はマタイ27:57-66。


「そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。」66節。

石の蓋があって、
そこに封印がされて、
番兵が番をしていた。

これでもかってもんですよね。

ある本には、
「兵隊たちも、こんなに虚しい仕事はなかったんじゃないか」って書かれていました。

ですよね。

でも、その大きな石も、底に施された封印も、そして、番兵達も、イエスの復活の力の前には何の意味もなかった。

その復活の力が私達のうちに注がれている。
その復活の力によって生かされている。
その大きさを思わされています。

その祝福を100%戴いているだろうか?

主の復活の力をもっともっと経験させていただきたいです。
約束どおりに主がしてくださることを信頼して歩みます。

主よ、
あなたの復活の力に感謝します。
明日の礼拝をあなたが豊かに祝福してくださいますように。
集われる方々、ひとり残らず、その復活の力を知ることができますように。
イエスを蘇らせたあなたの力に触れることができますように。

2010-04-02

Good Fridayの夜。

今日の3時頃に一回アップしようと思ったのですが、
うまくいかなくて、書いたものが消えてしまったので、
「まあ、いいや、神様が『書かなくていい』と思われたんだな」と思っていました。


イエスが十字架にかかられた日。
いろいろなことに手を動かしながら、
ずっと夜の集会のための準備をかねて、
「ペテロがイエスを『知らない』と言ったのは今頃かな、
「ああ、今頃、十字架につけられたんだな」
「我が神、我が神、どうして・・・」と叫ばれたのは今頃だろうか?


そんなことを思いながら、過ごしていました。


イエスが罪の固まりになって、神に捨てられた者とされたこと、
その意味を思わされました。


今日の聖書はその十字架の箇所。
マタイ27:45ー56。
「神殿の幕が上から下まで真二つに避けた。」51節。


神の方から、救いの道を開いてくださった。
私たちのがんばりではなくて、
主の方から開いてくださった道。


神と人とを隔てる幕を裂いてくださった。


感謝。


主よ、
あなたに祈れるということが、
どれほど特別なことか、
どれほど大きな愛が注がれているのか、
思わされました。
感謝します。
祈る特権を無駄にすることがありませんように。

Good Fridayの11時。

Good Fridayの11時。
子供たちは学校が休み。
お仕事が休みの方々もちらほら。
2日続けてのぽかぽかの春の日です。

イエスが十字架にかけられたのは朝9時頃かという印象があったが、
今日改めて聖書を読んでいると、
ヨハネ19:14では、昼頃ピラトの許で裁判を受けている。

人々が「そいつを十字架につけろ!」と叫んだのは今頃だったのだろうか?

昨日、ある方が「クリスチャンにとって、イエスが十字架につけられた日は、暗い日ですか?」と聞かれて、「んー、あまり馬鹿騒ぎはしないですが、暗いと言うよりも感謝かな」とお答えしたのですが、今日、改めてイエスの十字架を思いながら過ごしている中で、「ホントのところ、イエスの苦しみの深いところまではわからない・・・」というところに、ぶち当たっているように思います。

私もあそこにいたら、「そいつを十字架につけろ!」と叫んでいた一員。

ただ、周りに流されて、そのように叫んでいただろう。

今夜の集会のために準備をしつつ。

2010-04-01

ことばをもとめる。

暖かくなりました。
朝はちょっと寒かったですが、
昼間は20度を超えて、本当に春本番です。
明日も晴れて、暖かくなります。


イースターの前ですが、今年の春は勢いがあります。


4月になって、日本では新しい年度が始まったんですね。
私も人生の6割日本でしたから、自然と4月は新しい気持ちになります。


ですから、このブログもいろいろ考えることもあり、
新しく歩み出そうと思っています。


その一つは、「日々のみことば」が毎日更新できなくてもとらわれない、ということです。
・・・昨日もそうしたのですが、何日かまとめて書く、または飛ばす日もあるかもしれません。


ほかにもいろいろあるのですが、
何よりも自分の中で大切だなあと思うのは、
「わくわくしないなら、更新しない」ということです。


楽しまないと、楽しくないですからね。


月曜日にMITSUWAで待ち合わせがあって、
早く着いていたので、本屋さんで、立ち読みをしていました。
というか、いすもあるんですよね、あそこ。


2冊、ぱらぱらとめくっていたのですが、
渡辺淳一さんの「鈍感力」
そして、香山リカさんの「しがみつかない生き方」


両方話題になった本ですよね。


で、「鈍感力」の方は、「こまかいことにとらわれないで、環境に適応した生き方が必要」ということを言っているみたいですし、「しがみつかない・・・」は、何にでも意味を求めたり、こだわったり、一生懸命になったりしない生き方を勧めているようです。


で、両方共感する部分が多かったのですが、
それよりも感心したのが、本の題の付け方。


「環境適応力」じゃあ、誰も買わないですよね。
それを「鈍感力」という言葉で表したから、
私みたいな、「鈍感コンプレックス」を持つ人たち・・・つまり、鈍感なんだけど、「自分が鈍感なことにも気がつかない」という筋金入りの鈍感になりきれなくて、自分が鈍感であることを気にしている人たち・・・に「ああ、鈍感でもいいんだ!」と一歩間違えば、とんでもない勘違いになりそうな勇気を与えてくれる本になったんですよね。


「しがみつかない・・・」も「こだわらない」とか「肩の力を抜いて」とかやったら、ダメなんでしょうね。「しがみつかない・・・」というちょっとアクの強い言葉だから、「これおもしろそうだな」と思わせる。「自分はしがみついているかなあ」という人も、「しがみつく生き方は嫌だよねえ・・・」と思っている脱力系の人も、ちょっと読んでみようかな、と思う。そして、最後の章が「『勝間和代』を目指さない」だから、こりゃまた痛快。本人が狙ったのか、編集者が狙ったのか、わかりませんが、話題作りになりましたね。


ああ、欲しいなあ、そういうビビッとくる言葉が沸いてくる頭。
ちょっと、この先、挑戦してみよう、っと。


でも、神様の言葉はそういう言葉ですね。
私たちの心をわしづかみにしてしまう言葉。
その言葉を預かっているんだから、その言葉の力を台無しにしないようにしないと。


さて、明日はGood Fridayで、イエスが十字架にかかった日。
今夜はイエスが最後の晩餐で、弟子たちの足を洗った晩であり、
またゲッセマネで血の汗を流して祈られた夜です。

今日の聖書は、マタイ27:27ー44。
「もし、神の子なら、自分を救ってみろ」40節
「イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか」42節
「もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい」43節

3つの「もし・・・なら、・・・しろ」というあざけりの言葉ですが、
驚くことに、その「・・・なら」の部分は全く当たっています。
・・・そしてその後の部分が的外れなのです。

ここに人の思いと神の思いとの違いを見ます。
人々は大きな思い違いをしてました。

ペテロがイエスの受難の預言を聞いて「先生、そんなことがあってはなりません」と言ったときに、イエスは「引き下がれ、サタン、あなたは神のこと思わずに人のことを思っている」と言われました。

神様の救いの計画と、人々の「救い」についての考えは違いすぎました。

私はどうだろうか?と思わされました。
神様の考え、神様の計画に気持ちを向けているだろうか、そこに集中しているだろうか?

神様はイザヤ書55章で、「御言葉」こそ、全く見当違いのことを考えている私たちに、神の思いを伝えるものであることを宣言されています。

私はどこに心を向けているだろうか?

神様の御声を聞かせていただきたい、聖書から語っていただきたい、そのように思います。もっともっと真剣にもっともっと飢え渇きをもって、「主よ語ってください」と求めていこうと思いました。

主よ、
私があなたの声を聞いていくことができますように。
あなたのみ思いに心を向けていくことができますように。
そして、私のうちにも、言葉を与えてください。

2010-03-31

パニック。

今朝までは、雨が残っていましたが、
次第に空は明るくなり、
夕方にはすっかりいい天気になりました。

明日からはしばらく晴れて暖かくなりそうです。
というか、汗ばむようなひもありそうです。

今週は受難週。
明後日はイエスが十字架にかかったGood Fridayです。
ですから、教会の皆さんには、「イエスの十字架を覚えながら、イエスがどんな思いで十字架に進んでいかれたのかを思いながら過ごしましょう」とアピールをしています。
でも、それはまた自分に対するメッセージでもあります。


一番弟子であったペテロがイエスのことを3回も知らないと言ってしまう。
もちろん、それは本意ではなかったわけです。
でも、彼は女中さんに「あなたはイエスの弟子でしょう」と言われて、
あわてて、イエスを否定するのです。
「何を言っているんだ?」と。
ある意味、不意をつかれたのだと思います。
パニックを起こした、と言ってもいいかもしれません。

今日も、自分も同じような弱さを持っていることを思い知らされています。
私も、とっさのときに、正しい答えができなくなることがある。
本当の気持ちとは裏腹な答えをするときがある。
もちろん、「どちらが本当の気持ちなのか?」と問われると、
またどちらなのか、本当に心許ないのだが、
どうにも気持ちが苛立ったり、慌てて逃げ腰になってしまったり、
そんなことがある。

十字架にかかられたイエスの弟子だなんて、恥ずかしくて言えやしない、そんな自分の姿に愕然とするのです。

ああ、また神様の憐れみしかない。

そんなことを思わされます。

さて、日曜日から今日の分までの「日々のみことば」の中で思わされたこと。
マタイ26:57ー27:26。
イエスの裁判の様子が出てきます。

27章の最初のところにはイエスを裏切ったユダが、
イエスを売った祭司たちのところに「私は間違っていた」と言いに行ったところ。
それに対して、彼らの答えは「知ったことか」でした。
「自分たちには関係ない」ということでした。

そして、その後に出てくる総督ピラトの態度も、
「私には責任がない」というものでした。
彼の妻は「関わらないでください」ということでした。

逃げたい気持ち、面倒なことに関わりあいたくない気持ち、
そんなところは、ないだろうか?
逃げてしまったことがどれほどあっただろうか?

それに対して、イエスは私たちのために、
面倒なことに関わってくださった。
面倒を面倒と思われないで、関わってくださった。

十字架まで行ってくださった。

感謝。

私も、そのような歩みをさせていただきたい。
主が歩まれた道に、一歩でも近づいて歩みたい。

主よ、
あなたが私に持ってくださった関心を、
私も人々に対して持つことができますように。
あなたの愛には到底届きませんが、
でも、あなたの愛を映す者とならせてください。

2010-03-30

自分と切り離せないものと切り離せるもの。

今日は朝になってから、がんがん降りました。
昼頃、ちょっと出かけるところがあったのですが、
道があちらこちらで冠水。
車高の低い車は水没するんじゃないか、というところもありました。
うちの近辺は前回の大雨、暴風の比ではなかったですが、
場所によっては、同じくらいひどかったみたいです。


明日は回復に向かい、明後日からは春本番になりそうです。


今日は、ある方と、私にとって、また相手にとって「牧師」という前提のないひとときを過ごしました。本当に幸いなひとときでした。親のこと、NJでの生活のこと、子供の教育のこと、自分の将来のこと、いろんなことを語り合いながら、また互いの言葉に耳を傾けながら、初めてお会いしたことを感じさせない時間でした。


そんなときを過ごしながら、「私」と「牧師」ということは、切り離しうることなんだなあと思いました。いえ、ずっと切り離していられるかはわかりません。神様の与えてくださった使命だと思っているので、たぶん、ずっと「牧師」でない自分を生きなさい、と言われると、無理かもしれません。でも、ひととき、「牧師」であることを置いておいて、一人の「人」として人と対することはできる。そして、それがまた喜びだったりする。でも、「クリスチャン」であることは、自分と切り離せない。それはひとときも。それは「自分」であることの一部なんでしょうね。


もしかしたら、やっぱり、ちょっと肩に力が入っているかもしれないな、と思います。もっともっと、自分であること、もっともっと、神様が造ってくださった自分であること、そこに平安をいただいて歩んでいきたいと思います。


今日のような時間、もっともっと造っていこうと思いました。


さて、27日(土)の聖書。
土曜日はマタイ26:47ー56。


「そのようなことをすれば、こうならねばならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」54節。

祈りの中で、「できればこの十字架を負わなくて済むように」と願われたイエスが、ここでは、「いや、私はこれを負わなければいけないのだ」とはっきりと十字架に進んで行かれていることがわかる。なんとしてもこの御言葉が成就されなければ・・・というところに立っておられた。

やはり、それは祈りの中での答えだろうと思う。
確信と平安がイエスの中にあった。

自分はどうだろうかと思う。
確信と平安が与えられるまで祈っているだろうか?

人の言葉や、周りの態度によって、
「それもそうだなあ」と変わってしまうような祈りの答えはないだろう。

状況や人の答えではなくて、
主の答えをいただいて歩んでいきたい。
主が導かれてるところに歩んでいきたいと思います。


主よ、
祈りの中に答えを与えてください。
あなたの与えてくださった答えに従って歩む者とならせてください。
あなたの答えをいただくまで、何度でも何度でも、祈らせてください。

2010-03-29

割れた9年ものの中身。

昨日、割れてしまった9年もののイースターエッグ。
その中はどうなっているんでしょう?
気になりますよね。


はい、ビデオを撮りました。
昨日と同じシャツですが、
2日続けて同じの着ているんじゃないですよ、
昨日撮ったビデオです。





中身は予想通りでしたが、
「乾燥ピータン」でしたね。


でも、思ったよりも透き通った琥珀色。


長い長い時間をかけて、ここまでなるんですよね。
見えないところで。


そういうとこ、何か、私たち人間と似ていますね。


雨は昨日の夜かなり降っていましたが、
今日は小康状態。
夜になってからまた降り始めるようですが、
どうでしょうか?


26日(金)の聖書。
マタイ26:36ー46。


「どうしても飲まずに済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」42節。

イエスはずっと十字架に向かって歩まれた。
十字架に向かって歩んでこられた。

でも、いざ、十字架を前にして、
やはり、戦いがあった、葛藤があった。
できれば十字架を避けたかった。

しかし、イエスの最後の結論は、
「父なる神のみこころに従う」ということだった。
祈って祈って、祈り抜いて、
こたえをもらって、まっすぐに歩み始めた。

自分もやはり葛藤を覚えることもある。
逃げたくなることもある。
投げ出したくなることもある。

自分も義務だから・・・とか、
乗りかかった船だから・・・とかではなく、
神様から答えをもらって、
神様からの納得をもらって、
歩み続ける者でありたい。

主よ、
なやむこと、まようこと、
あなたから、答えをもらって、
祈って答えをもらって、
歩み始めることができますように。
あなたの見声を聞くことができますように。

2010-03-28

9年もののイースターエッグ。

今日は寒さはぐっとゆるみましたが、
午後からは雨が降ってきました。
これから雨が本格的になって、
明後日、火曜日まで続きそうです。


2日間での雨量は75から150ミリと予想されていて、
2週間前に続いて、また洪水が起こりそうです。
ただ、今回は風はあまり強くないのでは、と思います。


大きな影響が出ないようにと祈ります。


さて、昨日も作った、イースターの卵。
毎年、JOYJOYイースターではエッグペイントをします。
そのたまご、私はなんとか割らないように気をつけます。


なんでかというと、
そのまま風通しのいいところに置いておくと、
中身が小さくなって、カラカラと音を立てるようになるからです。


今回初めての試みですが、
コンピューター内蔵のカメラで、
ビデオを撮って、YouTubeにアップしました。






あー痛い痛い。(3:17)9年ものが・・・。


皆さんももうやっておられるかもしれませんね。
もしも、9年もの以上のコレクション、それから、15グラム以下のコレクションがありましたら、是非、ご連絡ください。あ、ダチョウの卵とか、ワニの卵とか、蛇の卵とか、そんなので作ったイースターエッグも教えていただきたいですねえ。


さて、25日(木)の聖書。
マタイ26:26ー35。


「私は決してつまずきません。」33節。

前の日、水曜日のところとつながってくるのですが、
自分はけっしてつまずかない、
他の人がそういうことがあっても、
私はそういうことは絶対にない、と言いきったペテロ。

その必死さが伝わってきます。
「イエス様、そんなこと言わないでください」
「そんな風に、私のことを見ていたのですか?」
そんな気持ちだったと思います。

でも、彼は自分のことが全然わかっていなかった。

私もそうなんだと思います。
自分では自分が自分のことを一番よくわかっているつもりだけれども、
本当に自分のことをわかっておられる方は、神様。

神様の見ておられるように自分を見る。
自分自身で神様がどんな思いで見ておられるかを知る。

そのようになりたいなあ、と思います。

主よ、
あなたは私をどう見ておられますか?
人がどう見ているかではなくて、あなたはどう見ておられますか?
私はどのようにあなたに仕えるべきでしょうか?
あなたが見ておられるように、自分自身を、そして、人々を見ることができますように。

2010-03-27

JOYJOYイースター感謝!

今日は寒かったです。
朝の最低気温は-3.5度。
昼間も本当に寒かったです。


その中で、JOYJOYイースター!
50人を超える子供たちが集まってくれました。
今日は去年と違って、補習校が休みだったので、
週末出かけておられる方々もいて、
少ないかも・・・と思ったのですが、
結構賑やかになりました。


補習校の入学式にぶつかった去年は76人だったので、
それよりは少なかったですが。


でも、プログラムも充実していて、
お話もみんな静かに聞いてくれて、
JOYJOYシンガーズもよかったし・・・。


エッグハントが寒かったのだけが・・・。
でも、本当に楽しかったです。
子供たちも大喜びでした。


さて、24日水曜日の聖書。
水曜日はマタイ26:17ー25でした。


「主よ。まさか私のことではないでしょう。」22節。

みんな、「私は大丈夫」と思っていた。
まさか私が主を裏切るはずがないと思っていた。
でも、どうしても「私じゃないですよね」と聞かないではいられなかった。

まさか・・・だった。

私もまさか、私は主を捨てないと思っている。
まさか、大きな罪は犯さないと思っている。
まさか、主の与えられる使命を投げ出したりはしない、と思っている。

でも、本当に自分の弱さを忘れてしまうのは恐ろしいことだと思う。
自分の危うさ、自分の決意のもろさ、それを忘れてしまうのは恐ろしいことだと思う。

主の守りの中で、主の支えの中で、
初めて歩んでいける者であることを忘れないでいたい。

主よ、
私を守ってください。
あなたに従っていけるように。
あなたと共に歩めるように。
自分の弱さを見逃してしまうことがないように。
主よ、守ってください。

2010-03-26

しもべであり続けること。

昨日は、祈祷会とキッズクラブと続いて、
その後、帰りに一軒訪問をして、
8時頃に夕食。その後、買い物を頼まれて、
行って帰ってきたら、もうみんな寝てて、
自分もそのままバタンと倒れて、夜中の1時で、
そして、その後、少し何かしようと思ったのですが、
やはり、何もできなくて、朝までぐっすり。
でも、午前中はまだ「いまいち」でしたが、午後からよくなってきました。


はい、昨日の更新ができなかった言い訳・・・。


ここまで書いたのですが、やらなければいけないことに気がついて、
書きたいことは、たくさんあるのですが、
またこんど・・・ということで。


しもべに徹することの難しさを感じています。
今日語りながら、本当に自分のために主が語ってくださることを感じました。

2010-03-24

モーセとアロンとホルとヨシュア。

今日は晴れましたが、朝とか、夜とか、ちょっと肌寒かったですね。
薄手のコートを着てちょうどいいくらいでした。


やはり土曜日は「晴れて寒い」ですね。
土曜日の朝は氷点下に下がりそうです。


やはり今年の合い言葉は「暖かくしてJOYJOYイースターへ!」です。


今日はNYでの祈り会。
幸いなひとときでした。
聖書は出エジプト記の17:8ー13。


戦いに出て行く人がいる。
祈りの手を挙げる人がいる。
そして、それを支える人がいる。


まさにそんな祈りのひとときでした。
Daylight Saving Timeが始まって、1時間時間が前にずれてから、
朝がきつかったです。疲れも覚えていました。


でも、それでも、支えてくださる方々がいる。


それが大きな力でした。


そして、実際に出て行って社会の中で戦いを覚えている人たちがいる。
だから、祈る。祈って支える。


もっともっと祈りたい、そう思わされた祈り会でした。


さて、昨日、23日の聖書。
マタイ26:1-16。


「何のために、こんなむだなことをするのか。」8節


自分はそんなことをしたことがあるか、
イエスのために、神様のために、
「もったいない」と周りの人に言われるようなことがあったか。

「何でそんなむだなことをするのか」と言われるようなことをしたことがあっただろうか?

主は私のために「もったいない」ことをしてくださった。
主は私のために、油の瓶どころじゃない、
命を投げ出し、注ぎだしてくださった。

もったいないことをしよう。
主のために。

主よ、
あまりに保守的に、あまりにおとなしく、なってしまったように思います。
どうか、あなたのためにもったいないことができるものでありますように。

2010-03-23

寒くなるかなあ。

今日は雨もだいたいあがりましたが、
どんよりとしていて、肌寒い一日でした。


明日は晴れそうです。


でも、やっぱり先週の暖かさを経験した身には
ちょっと寒く感じそうです。


そして、JOYJOYイースターまであと4日ですが、
もうだいたい決まりましたね。


天気は大丈夫。
でも、一度25度を経験した身には
「めちゃくちゃ寒い」日になりそうです。


みんな暖かい格好でJOYJOYイースターに集合です!!


久しぶりのPurpose Driven Life。
21日目は「教会を守る」ということ。


ここも弱いですよね。


教会がMarket Placeと化している現代、
多くの人々が教会から教会へと渡り歩きます。
(もちろん、悩み抜いて祈り抜いて、どうしてもそのような決断に至ることもあるでしょう。)


集う人々は消費者になってしまう危険もあります。
教会を建て上げる者ではなく、
礼拝スタイルを評価し、メッセージを評価する者になってしまいます。
主の前にひれ伏す礼拝ではなくて、満足させてくれる礼拝になります。


そんなところで、
ちょっと人間的な問題が出てきたとき、ひとたまりもありません。


牧師の立場で、ここを強調すると誤解されるかもしれませんが、
本当に大切なことだと思うので、あえて書きます。


「あなたの牧師や指導者たちを支えること」
牧師も誰も同じ・・・ということが言われることも多いです。もちろん、同じ部分も多いでしょう。でも、主が与えられた使命と賜物はやはりあると思います。自分自身、甘えの気持ちで「みんな同じ」という気持ちがあったと思います。でも、主のCallingに本当に忠実であることが大切だと思わされます。


「教会の一致を守るというあなたの責任を真剣に受けとめてほしいのです。そのために全力を注いでください」


「私たちが教会の中に置かれている一つの理由は、私たちが自己中心とは逆のことを学ぶためなのです。共同体において私たちは『私』ではなく、『私たち』を、そして、『私の』ではなく、『私たちの』と言うことを学んでいきます。」


さて、昨日、3月22日の聖書。
マタイ25:31-46。


「わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え・・・」35-36節。

先日、「与えられた時間の十分の一を主に捧げる」ということを話された方がいて、
自分はどうだろうかと思わされていました。
牧師は「全部捧げているよ」と思っているかもしれません。
でも、そういう意味だったら、どんな仕事でも主への献身なんですよね。
だから、起きているときも寝ているときも、みんな主のための時間。
だから、本来クリスチャンはみんな十分の十、全部主に捧げている。
人生全体を主に捧げている。

でも、その象徴として、特別に取り分けて捧げ物をするのが十分の一ですよね。
そこには痛みがあるし、戦いもある。でも、もっと深いところにあるのは、感謝だし、喜び。

ある人は聖書を読んで祈る時間が2時間24分という方もおられます。
神様とだけ時間を過ごす。
まあ、そういう考えもあるでしょう。

でも、この聖書の箇所を読んだとき、「これかも・・・」と思わされました。
「これらの最も小さき者の一人にしたのは私にしたのである」と言われたイエスの言葉。

仕える者とならせていただきたいです。

空腹な者に食べさせ、
渇いた者に飲ませ、
旅人に宿を貸し、
裸の者に着せ、
病気の者を見舞い、
投獄されている者を訪ねる。

具体的な一歩・・・何だろう?

主よ、
あなたが私に与えてくださっている時間、
これはすべてあなたの時間です。
どうか、私のなすべきことを教えてください。
最後の投獄されている者を訪ねる、という言葉が心にとまっています。
どうか、主よ、あなたが出会いと導きを与えてください。

2010-03-22

神様と一緒に海辺で夕日を見る。

昨日までの晴天が終わって、
今日は雨。
ほんとに暖かい1週間でした。
でも、今週は現実に引き戻されています。
雨は明日には上がりますが、
その後、ひんやりとした日が多くなりそうです。
特に後半は冷え込むのでは・・・と思います。




土曜日のJOYJOYイースターの5日前の予報。
「晴れだけど寒い。」
んー、これが当たりそうだなあ。
でも、雨じゃなければいいですよね。エッグハント。


休日の今日、ある方と話をしていて、
神様の許に休むことの意味を語り合っていました。


私は1年半くらい前にも書きましたが、
「神様と一緒に海辺で夕日を見る」というのが、
神様の許に休む、というイメージです。
別に海辺に行かなくてもいいです。
行ったらもっといいでしょうが。
祈りの中で、その風景を思いながら、
神様に語りかけるのです。


「何それ?」という反応をいただくことも多いのですが(笑)、
今日、話をした方は、「いいですねえ、それ」と
心から同意してくださいました。
共感、してもらうと、それだけで、休みになります。


神様からのプレゼントでした。


感謝。


さて、昨日休んだので、昨日3月21日の聖書。
マタイ25:14-30


「主人の喜びをともに喜んでくれ」21節、23節。

この言葉、すごくいいですね。
共同訳の方では「主人と一緒に喜んでくれ」で、
日本語として、とても自然なのですが、
このごつごつした、こんな日本語あるかい!と突っ込みたくなるような、
「主人の喜びをともに喜んでくれ」って、この新改訳の訳、
私は心にじーんときました。
神様が私に「私の喜びをおまえの喜びにしてくれ」って言ってくださっているなんて。

それに対して、もう一人の人。
1タランとを隠しておいた、その理由。
「あなたは意地悪だから」「あなたはひどい方だ」と思っていた。

イエス様の喜びを喜びとして、歩んでいける幸いを感謝します。

主よ、
あなたが、あなたの喜びに私を招き入れてくださっていることに、心から感謝します。
あなたを信頼します。
あなたの喜びの中に飛び込みます。
あなたの喜びの中で歩み幸いを楽しませてください。



2010-03-20

自分のものとしての信仰。

日本では春分の日、アメリカでは春の初日。


今日も暖かかったです。
でも、ほとんど一日教会の中にいましたから、
あんまり感じませんでしたが・・・。
ただ、地下とか寒いんですね、こんな日は。
うちも、教会も、地下はひんやりです。
夏はいいのですが、春は着るものの調整が難しいです。


明日ももう一日暖かい日になりそうです。
でも、夜からは雨で、
火曜日からは寒いくらいになりそうです。


でも、もうこれからは夜の時間よりも昼間の時間の方が長い!


わくわくですね!


JOYJOYイースターまであと1週間!
一週間前時点での天気予報・・・雨か雪!ハハハ、どうなるか。
雪はともかくとして、とにかく金曜日からまた冷えてくるみたいです。


さて、Purpose Driven Lifeの20日目。
「壊れた関係を築きなおす」ということ。
これは本当に大きな課題です。


日本の文化の中では、アメリカにおけるよりも難しいのではないかと思います。
特に問題を指摘しても人格を否定しない、ということ。
頭でわかっていても、それが受け止められないケースがほんとにたくさんあると思います。
受け入れながら、問題を指摘する、
指摘している方は受け入れているから指摘しているわけで、
もう見捨てていたら指摘しないのでしょう。
でも、指摘されている方は、そんな風にはなかなか思えない。
問題と人格を分けてりかいするなんて、そんなできることではない。


んー、とうなりながら読んでしまいました。


一つでも、二つでも、そのような回復の御業を見ることができますようにと祈らされました。


さて、今日の聖書。
今日はマタイ25:1-13。


「油を少し私たちに分けてください」8節。

分けられるものと分けられないものがある。
分けたくても分けられないものがある。

人のふんどしで相撲が取れないものがある。

その厳粛さを語っているところだと思う。
一人一人が、神様の前に立って、神様の答えをもらって、
前に進んでいくこと。
誰も代わりはできない、
誰も代わりになることができない。

イエスは弟子たちに「あなたは私のことを何と呼ぶか?」と問いかけられた。

人の言葉ではなくて、
自分の言葉を求められた。

私も自分の答えを神様からもらおう。
神様が私をどのように導こうとされているのか、
主が私にどのようなことを使命として与えてくださっているのか。

主よ、
あなたに従う者とならせてください。
あなたとの関係の中に生かしてください。
借り物の信仰ではなくて、自分自身のあなたとの関係の中で、
答えを見いだして歩んでいくことができますように。

2010-03-19

毎日が金曜日。

今日も暖かかったですねえ。
火曜日からずっと春です。
そして、明日も20度を超えます。
一気に木々が芽吹いて、花粉も飛び始めています。


日曜日から、天気が崩れ始めて、
月曜日は雨みたいです。


そして、来週は現実に引き戻されるみたいです。


時計、買いました。
実は1月に日本でどこかにおいてきてしまって、
それからしばらく、礼拝メッセージの時も、iPhoneで時間を確認していたのですが、
さすがにそれもおかしいよなあ、ということで、今日、ちょっと時間を見つけて、買ってきました。






で、なかなかかっこいいのですが、
買ってみてわかったこと。


真ん中の3本の針以外はみんな飾り。
外側の数字のついた回転ベゼルみたいなものも、
文字盤にある3つの小さな針も、全部動きません!


さすがに、外側の回転ベゼルはすぐ、「ああ、これは飾りね」と思ったのですが、
文字盤の中にある3つの小さな針は動くと思いましたよ。
そして、曜日は金曜日であっているけど、日付は8日じゃないから、
直そう、と思っていろいろ触ってみるのですが、
どこを触っても動きません。


よく見たら、3つの針はそれぞれ右、下、左、ときれいに向いているんですね。


やられました。


まあ、文句が言える値段でもないので、全然OKですし、
(もし真ん中の3本が明日止まったら、絶対文句言います)
これが飾りに過ぎないことはほかの誰にもばれるものでもないでしょうから、
全く気にしていないのですが、そこまでやるか、とは思いましたね。


毎日が8日の金曜日です。
Thank God It's Fridayというわけですね。
わたしにとっては金曜日は週末に向けての準備の追い込みの時なので、
身が引き締まる思いです。


お店の人がレシートを見せながら、6月17日までは交換や返品はできるからね、
と言っていたので、まあ、しばらく使って、ゆっくり考えることにします。


さて、3月16日(火)から19日(金)の聖書。
マタイ24:15−51をまとめて。


「この天地は滅び去ります。しかし、わたしの言葉は決して滅びることはありません。」35節。


やはり、何に焦点を当てているかですよね。
どこにピントを合わせているか。
滅び去るものに焦点をあえた生き方をしているか、
変わることのない、神の言葉をしっかり握ってい歩んでいるか。
それが問われているのだと思います。

いつ来るかわからないイエスの再臨。
たとえ、それがすぐには来なくても、
いつ来るかわからない、わたしの人生の最後の日。

それなのに、「どうせすぐには来ないよ」なんて考えて、
好き勝手なことをしていることはないだろうか?

いつそれが来たとしても、
それを平安のうちに受け止めることができるだろうか?

そのために、決して滅びることのない聖書のみ言葉に生きる者とならせていただきたいと思います。

主よ、
どうか、あなたの御言葉によって生かしてください。
いつも、どんな時代にも変わることのない、
御言葉を信頼して、そこに堅く立っていくことができますように。

2010-03-18

感謝。

どこまで信憑性のある話かどうかわかりませんが、
6時間以上寝ないとホルモンの関係で、内臓脂肪がつく、という記事を読んで、
今日またぎりぎりになったので、もう休みますが、祈ってくださった方々のための報告。

朝の集会も午後のキッズクラブも本当に主が多くの方々を送ってくださいました。
特にキッズクラブは久しぶりの30名近くの子供たちが集まって、
どこまで伝わったか・・・とは思いますが、
イエスの十字架の話をしました。
みんな真剣に話を聞いてくれました。

感謝。ではでは。
皆さんも夜更かしはしないようにしましょう。
・・・「プロフェッショナル」とか見ていると、
なんか、睡眠3時間半とか、24時間以上手術をしていた外科医のせんせとか出てきますが、「無理をする勧め」みたいに感じてしまうこともあったりします。

ここ一番の踏ん張りは大切だろうと思いますが、
弓の弦の張りすぎは、よくないですよね。

はい、ほんとに、これで。

2010-03-17

一気に春。

今朝は氷点下に下がって、
朝教会に行くときにはフロントガラスが凍っていたのですが、
昼間は暖かくなって、一気に春です。


昨日、1輪だけ咲いたクロッカスですが、
今日はこんなに咲きました。




ぜひ数えてみてください。
20輪以上咲いていますよね。


今、11時過ぎですが、6度くらいまで下がってきています。
明日も朝は2度くらいまで下がりますが、昼間は20度近くまであがる予想が出ています。


この春の陽気は日曜日くらいまで続くみたいです。
その後のことは何も言いませんが・・・ハイ。
日曜日くらいまで、です。


さて、Purpose Driven Lifeの19日目。
small groupの話の続きです。


最初の言葉大切だと思いました。
というか、この本は毎日のセクションの最初の言葉、
よく考えられていますね。


「共同体は、献身を要求します。」


一つ一つの必要なこと挙げていくと、


・正直さ
・謙遜さ
・思いやり
・秘密を守ること
・頻繁に集まること


最後の「頻繁に集まること」の大切さを思います。


たぶん、神様のリズムなんだと思います。
神様が私たちの魂に刻み込んだリズムがあるんだと思います。


さて、3月15日(月)の聖書。
マタイ24:1−14


「あわてないようにしなさい」6節
「そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです」8節

戦争が起こったり、
飢饉や地震が起こったり、
人々の愛が冷えてしまったり、

そんなことがあったら、本当に慌てるだろうと思います。
ふるわれるだろうと思います。

でも、主は「慌てるな」「始まったばかりだ」と言われるのです。

このような世の終わりについての記述を読むと、
何のために書かれているのかと思いますが、
やはり、私たちが慌てないためでしょう。
混乱しないため、だまされないため、
堅く立っていくためでしょう。

自分の歩みの中で、どれだけ慌てることがあるだろうかと思います。
どれだけ、あたふたしていることがあるだろうかと思います。

主のみ言葉を信頼して、
堅く立つ者でありたいです。

主よ、
あなたを信頼します。
動じない者とならせてください。
動じない強さを与えてください。
あなたを信頼して動かない強さを与えてください。

2010-03-16

久しぶりの晴れ!

まだまだ、電気が戻らない方もおられるようですし、
ウチも今日プチ停電(1時間ほど)があったのですが、
今日は久しぶりにすかっと晴れて、暖かくなりました。
やっぱり晴れるって、元気になるんですね。


そして、晴れて元気になるのは人間だけじゃありません。




はい、この日を待っていたかのように、今年初めてクロッカスの花が咲きました。
でも、今年はなんだか、今までに比べて花芽が少ないような気がします。
肥料も何も与えていないので、何も文句は言えないのですが、
満開で、どれくらい咲くのか、これからどんどんつぼみが出てきてほしいものです。


Purpose Driven Lifeの18日目。
18日目と19日目はSmall Groupについてです。


うわべだけの交わりではなく、心を開いた交わりの場。
ここ数年、そのことを思わされていますが、
いよいよ神様が私たちをそこに導こうと
情熱を持って、働いてくださっていることを、
このところ思わされています。


19日目のところにもっと詳しく出てきますが、
そこには勇気が必要だったり、
時間を捧げることが必要だったりします。


主がそれを求めておられるならば、
Rick Warrenが言うように、
単なる方法論ではなく、教会として本質的なことならば、
それが私たちが生かされている「目的」だとまで言うならば、
勇気と知恵と慎重さと愛を与えていただきたいです。


とにかく主に従って行けますように。


3月14日日曜日の聖書。
日曜日はマタイ23:29−39。


「『私たちが、先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう』と言います。」30節。

これは、イエスが偽善者たちの愚かさを非難することばです。
自分たちだったら、そんな過ちを犯すわけがない、と言っている愚かさを指摘しているのです。

確かにそういう人たちいたなあ、と思います。
「自分が十字架の場面にいたら、自分は絶対にイエス様を守っていた」なんてことを言っていた人たちがいました。この偽善者たちと同じだったなあと。
そんなことを思い出しながら、気がつきました。

「自分は30節みたいな馬鹿なことは言わない」と思っているならば、
それはイエスに非難されていた人たちとどこが違うのか?と。

イエスを十字架にかけた人々を非難して、
自分はあんなことをしない、と言っている人々のことを、
「なんておろかなんだ」と言いながら、
「自分はそんなことをは言わない」なんて思っているならば、
やっぱり、同じ穴のムジナなんじゃないかと。

何て愚かなんでしょう。

救いようがないですね。
そんな者たちをも憐れんで救ってくださる主に目を向けて、
人のことをとやかく言うのではなくて、
主の憐れみによってやっと生かされている、受け入れられている、
そのことに目をとめて、感謝して歩んでいきたいです。

主よ、
自分は何て愚かなんだろうと思います。
気がつかせてくださってありがとうございます。
どうか、あなたの憐れみに、あなたの恵みに、目をとめて、
感謝しつつ歩む者としてください。

2010-03-15

大切なこと。

今日はまだまだ雨が時々降る、すっきりしない日でした。
そして、子供たちは休み、まだまだ電気がつかないところもあるみたいです。
水が出なかったり、ガスも出なかったり、ライフラインが全滅の地域もあるようです。




これはのんちの仕事場のあるショッピングセンターの駐車場。
一部、水没しています。
そして、よく見ると、左側の方に取り残された車があります。
手前のゴミのたまり方をみると、一番多かったときは今よりも数十センチ水位が高かったんだと思います。
話によると、土曜日、写真に写っていない左の方にあるテニスコートに来た人たちが、被害に遭ってしまったみたいです。
本当にすごい嵐だったんですね。
だんだん見えてきた被害の大きさです。


今日になって倒れたんじゃないか、という木が近所に何本もありました。
明日、サキは学校がありますが、ユキの高校はまだ停電中だそうで、
まだ明日あるか休みか決まっていないようです。


明日は天気は回復して、久しぶりに太陽が顔を出しそうです。


さて、久しぶりにPurpose Driven Lifeの話題ですが、
17日目。教会という家族が必要、という話です。


最初のポイントが大切だと思います。
「教会という家族は、あなたが自己中心的な孤立主義に陥るのを防ぐ」


教会は人の集まりですから、一人でいたら出会わないような、つらいことに出会うこともあります。もちろん、愛を感じたり、励まされたり、元気をもらったりするのですが、やはりそれだけではなくて、それと反対のこともあります。
教会に属していなかったら、経験しないですむような痛みを経験することがあります。
逃げ出したくなることもあります。投げ出したくなることもあります。


でも、それがまた私たちを整え、主を主とする信仰へと導いてくれるものなのです。


だから、そこで逃げてはいけない。
自分自身と向き合わないといけない。
人々の向き合わないといけない。


神様が与えてくださった家族だから。


さて、3月13日(土)の聖書。
土曜日はマタイ23:23−28。


「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。」23節。

子供の時から教会にいた自分にとっては、
十分の一を主に捧げるのはは当たり前以前の当たり前。
パリサイ人の気持ちわかっちゃいます。

スパイスみたいな細かいものでも、
きっちり十分の一を主に捧げないと気持ちが悪い。

だから、イエス様のこの言葉が本当に他人事には思えません。
だって、「正義とあわれみと誠実」をおろそかにしていないかというと、
そんなことはありません、なんて決して言えない。

最初の「正義」という言葉一つとっても、
口語訳では「公平」と訳されている。
(このとき、なぜか、2−3日、「日々のみことば」が見つからなくて、口語訳で読んでいました)
公平は単にみんなと同じように接することとは思えない。
そんなことは公平ではない。
イエスも十二弟子を選ばれた。
ほかにもたくさん弟子がいたのに、
その中の一部の弟子だけを特別扱いした。

それは一人一人への使命、賜物を見極めた上での決断。
自分はそこまでちゃんと考えて「正義」「公平」を行っているだろうか?
言い訳のように、「単純にみんな同じように」ということに逃げていることはないだろうか?

あわれみはどうだろうか、
誠実はどうだろうか。

本当に大切なことを大切にしていくこと。
今、それが自分の人生の中で問われていると思います。

主よ、
本当に大切なことを大切にさせてください。
本当に大切なことを見極め、
それが、たとえ人々に不評であっても、
大切なことを大切にしていくことができますように。

2010-03-14

嵐が去って、ハジも去る。

いやあ、すごい嵐でした。
たぶん、15年あまりのNJでの生活の中で一番怖かったと思います。
大雪とか、大雨とかありましたが、
今回は雨と風。特に風が怖かったです。
昨日の夜は夕方一度家に帰ったのですが、
教会にやり残したことがいくつかあったので、
教会に戻っていました。
そしたら、6時頃に家から携帯電話で、
「停電だから、全部仕事を終わらせてから帰った方がいい」と言われて、
電気の生きていた教会で10時頃まで仕事をして、
帰る途中、ものはいろいろ飛んでくるし、
木は電線に引っかかってぶらぶらしているし、
道路はあちらこちら冠水しているし、で、
嵐の中外に出るのが好きなお天気オヤジも、
さすがに、昨日はびくびくしながら、帰ってきました。


そして、今日も6時頃まで停電だったようです。
まだ、このBergen Countyで80000世帯が停電しているといいますから、
ウチはまだいい方だったのかもしれません。


でも、電気がついてほっとしました。
いかにいつも電気に頼って生きているか、思わされますねえ。
それから、ネット。
iPhoneでどうにか、メールのチェック等できるし、
通話もできるのですが、
これがなかったら・・・と不安になるのも、
いかにネットに依存した生活をしているのか、
考えさせられてしまいました。


1週間あまりのハジの春休みの里帰りも、
あっという間に終わって、
あんまりかまってやることもなく、
また、両親の結婚50周年のためのビデオレターを撮ろうとしていたのに、
停電で、その計画も流れてしまって、
今日の午後アトランタに帰っていきました。


っていうか、今、10時前ですが、Virginia上空です。
9時半頃にAtlantaの空港に着く予定が、
11時を過ぎることになりそうです。


でも、昨日の夜は停電のおかげで、
ハジとサキでいろいろ盛り上がっていたみたいです。
停電でもないと、それぞれテレビを見たり、PCに向かったり、
(今、明日学校が臨時休校になったので、娘たちはまさにそんな感じなんですが・・・)
それぞれに時間を過ごすことが多いのですが、
停電で、TVもPCも使えず、
なんだか、団らんしていたみたいです。


さて、一昨日金曜日の聖書。
マタイ23:13−22。


「見えのために長い祈りをする」14節。

木曜日のところにも「見せるため」という言葉がありましたが、
祈りさえも「見え」のためになる可能性があると言います。

そうなってくるのは、やはり、「祈り」も「信心深さ」の一つの現れと思われることがあるからでしょうか?最近、私は祈りは「神様、私はちょっと疲れたかなあ、休んでもいいですか?」とか、「神様、あの人に電話したいですけど、何時頃がいいと思います?」みたいな、「主に相談する」「ちょっとこぼす」と感じることが多いので、「信心深い」みたいなお祈りはできないんですよね。人に聞かせるようなもんじゃない。

でも、時と場合によっては、教会を代表して祈ったり、人々のために祈ったりするときに、「見え」が入ってくる、そんな誘惑もあるかもしれませんね。

弱い人間です。

そんな見栄を張ってもしょうがない、とわかっているのに、見栄が入り込むことがあるんですよね。気をつけていたい、そんなことは全然意識しないですむような歩みをしたいなあと思わされます。

主よ、
祈りにさえ、見栄が入り込むことがある。
そうなんですよね。
本当に弱いなあと思います。
弱いというか、おろか、というか・・・。
主よ、守ってください。
あなたと、こうやって、ゆっくり語り合う、幸いをもっともっと経験して、見栄なんかとは無縁な生き方がしたいです。できますかね。神様。