2010-04-11

心が燃えた!

今日はまた暖かい日でした。
でも、おかげで、花粉が飛びまくり。
車のフロントもまっ黄色になっています。
ここ2週間が花粉症のキツイところとなりそうです。


さて、今日は礼拝後、
JOYJOYキャンプのテーマ決め会議第1回。
今年もわくわくしてきました。
今年も楽しいですよー。
テーマはひみつです。


でも、日程だけは発表しておくと、
8月9日(月)−13日(金)。
申し込み受付はおそらく5月になると思います。


さて、心が燃えたのは、そのミーティングの話ではなくて、
朝読んだ聖書。
今日はエレミヤ29:1−14。


「わたしがあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。主の御告げ。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがに将来と希望を与えるためのものだ」11節。

教会ではよく開かれる言葉だけれども、
この言葉の背景を余り理解していなかった。
ただ、バビロンに捕囚に連れていかれるけれども、
やがて帰ってくるのだ、わたしはその計画を立てている、
そのような言葉だと単純に理解していました。

でも、今朝、聖書を読んでいる中で、
「バビロンで繁栄せよ!」という言葉が目に止まって、
それに続いて、「わたしは平安と将来と希望を与える計画を持っている」と語られているのです。

正直言って、その11節の言葉は知っていましたが、
今日、読んでいる中で、登場するとは考えてもいませんでした。

ですから、嬉しい驚きでした。

エルサレムに帰ろう、帰ろうという生き方よりも、
与えられたバビロンという場で、
そこに生きよ、といわれているように感じました。

そして、わたしが良い計画を持っているから、
与えられたところで生きなさい、心配しないで、
与えられた場所であゆみなさい、といわれているように思いました。

その中で「御言葉によって心が燃えた」という経験をさせていただいたのです。

その勢いで祈りも燃えましたが、
祈った後に「ああ、祈った」みたいな充実感を感じたときに、
「ん?これは違うぞ・・・主によってここのところ教えていただいてきた、主のもとに安らぐ、という平安とは違うぞ、主よ、『自分は祈った』みたいな充実感は違いますよね、自己満足ですよね。そうじゃなくて、あなたの許に安らぐことができますように」と祈るおまけ付き。

幸いな一時でした。

主よ、
あなたがわたしの心を御言葉で燃やして下さってありがとうございます。
どうか、あなたと共にいる喜び、あなたに支えられている平安でわたしを満たして下さい。
そして、もっともっと、御言葉で心が燃やされる経験を与えて下さい。

2010-04-10

人間関係の土台。

朝はぐっと冷えてちょうど5度。
昼間も15度止まりでした。
日差しは暖かいのですが、風があって、ひんやりとする場面も。


夜になっても、昨日ほどは冷えません。
明日は暖かくなりそうです。


朝の「Famous Brand」のフィルムですが、
後でまた教会に行ったときに確認したら、
なんと「Famous Brand 」って名前の会社!


そんなのいいんでしょうかねえ。


日本だったら、
「有名大学」とか「一流大学」「難関大学」って名前の大学を作ったり、
どこかの無名の会社が「有名ブランド」ってブランドでテレビ作っちゃうって感じですよね。
(そう考えると、やっぱり、ちょっと見ただけでいかにも怪しいし、ビジネスとして成功しないと思う・・・)


どうやら、この会社、タダでフィルムを配って、「現像はうちのラボじゃなきゃ綺麗にできないよ」とPR、普通より高めの設定の現像代を請求して、プリントした写真と一緒にまたタダのフィルムを送ってくる、という会社だったみたいです。


今から、15年くらい前まで、これってアメリカで普通にありましたよね。
ただでもらったフィルム、ラッキーと思って、普通に写真を撮って、普通のプリントやさんに持っていったら、「これはうちでは扱っていないんだよね、悪いね、お兄ちゃん」と言われて、でも、記念の写真だから・・・と諦めきれなくて、高いお金払って、ラボに送って、1週間くらいで帰ってきた写真を見ると、「んー・・・こんなもんかなあ・・・」って感じで、でも、またそこにタダのフィルムが入っているので、「タダで貰えるんだったら」ってついつい、また使ってしまって・・・と繰り返すんですよ。「タダ」って言葉につくづく弱いんだなあと思います。自分。


「自分はこの言葉に弱い」ってのをちゃんと自覚していないといけませんね。人生のいろんな側面で。


さて、今日の聖書。
今日はエレミヤ28:1−17。


「エレミヤに次のような主のことばがあった。」12節。

ハナヌヤという偽預言者は、
調子のいいことばかりを語っていた。
「勝利」「回復」「解放」

でも、それは主の語りかけではなかった。

それを見ていたエレミヤは彼に対してハッキリとモノを言った。
「あなたは神の言葉を語っていない」と。

人々とうまくやっていくためには
1)上手なコミュニケーション
2)事なかれ主義
そのどちらかがあればいい。

人々と対決するためには
1)神の御言葉が語られること
2)独善的な考え
そのどちらかがどうしても必要だ。
そして、1)には愛も必要になる。

どちらも1)が必要なのだけれど、
自分が、どちらも1)に生きていると思った瞬間に、
対決の2)の「独善」に支配される。

表面的にうまくやっていくことの虚しさを感じる。
そんなんじゃなくて、本当に真実に歩みたいと思う。

だから、いつもいつも神のことばを聞いて、
主の語りかけをいただいて、
それに応答するあゆみ、
そこに真実に従っていくあゆみ、
それが自分には必要だと思う。

主よ、
あなたの御言葉を求めます。
主よ、僕は聞きます。お語り下さい。
明日のためにもあなたの御言葉に感謝します。
あなたの私達へのメッセージをストレートに語る者とならせて下さい。

Rummage Sale は楽しい!

 昨日、今日と、お借りしている教会のRummage Saleです。
訳すと「がらくた市」ですね。

まあ、ガラクタですから、安いし、
「こんなのも出すの?」みたいなものも全然OKなのですが、
時々、「へえー?」というものもあります。

今朝、お祈りに教会に行ったときに、
まだ開店前、誰もいない会場に忍び込んで、
リサーチしてきました。




これは我らが富士フィルムのカラーフィルムです。
126枚撮り?と思ったら、
そういう規格みたいですね。
私と同い年。

今は生産中止なので、マニアの人に高く売れる?

Made in Tokyo 106, Japanと書かれていました。



こちらは写真が不鮮明でよく読めないかもしれませんが、
上のほうにFamous Blandと書かれています。

広告とかで、メーカーを伏せて「Famous Brand」とか,書いてあるのはありますが、
パッケージに「Famous Brand」って、どんだけ?って感じですよね。
Made in Germanyですが、英語の表記でわかるように、
アメリカで売られていたものみたいで、
写真をとった後、特別なラボに送ってプリントするヤツみたいです。

これもまさか、今では・・・と思いますが、
ネット上にはこのような質問も出ていますし、Ebayでは15ドルくらい出ていますので、マニアの人はいるんですね。

そして、極めつけはこちら。


すもうWaxなんて・・・。
これは怪しすぎると思って、ググッてみたら、
意外や意外、こちらは現役で、Amazonで売っている
それも27ドル!

Rummage Saleでいくらかわかりませんが、
これは、きっと超お買い得でしょう。

何かと思いましたが、「整髪料」です。
お相撲さんのまげが激しいぶつかり合いの中でも乱れないように、
しっかりと固めるためのワックスなんでしょうか?

小さな教会のRummage Saleにちょっと忍び込んでもこんなに楽しいのですから、
今年の春は、ちょっといろいろ探してみようかな。

2010-04-09

信仰的であることの意味。

今日は朝起きたら雨。
気温も昨日までとは打って変わって、
15度くらい。
でも過ごしやすい一日でした。


今は夜の11時過ぎですが、8.9度まで下がっています。
明日の朝は5度を切ると思います。


そして、明日も一日15度止まり。
爽やかな一日となりそうです。


さて、Purpose Driven Lifeの24日目ですが、
この日は「聖書のみ言葉によって成長する」ということです。
(書いてから気がつきましたが、1日飛ばしてしまいました)
頭でっかちになってはいけませんが、
やっぱり私達が成長させられるのは、
聖書のみ言葉によるのです。
今度の日曜日に開く、ルカの24章の後半でも、
何度も、「復活のイエスが聖書から、解き明かされた」と出てきています。


自分の考えよりも、御言葉に権威を認めて、そこに従うことです。
ただ、知識として知っていくことだけではなくて、
それを実行していくことです。従っていくことです。


もっともっと御言葉の権威を認め、
御言葉を愛して、貪るようにして、読む者でありたいです。


そして、今日の聖書。
エレミヤ書27:12-22。


「あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ。」12節。

「日々のみことば」の解説に、
「降伏にも信仰が必要だった」とあるのを見て、
ああ、そうか、と思いました。

私の中で、「信仰」は「勝利」みたいな図式があって、
神を信じないネブカデネザル王に降伏するのは、
信仰的ではないのではないかと思う気持ちがあったのです。

どこまでも神様が勝たせてくださる、と信じて戦うことこそ、
信仰者の姿なんではないかと思っていたのです。

でも、実際、降伏することも、
信仰がないとできないことなんですよね。

大切なのはやはり「戦うか、降伏するか」ではなくて、
神に聞くか、他のものに聞くか、なんですよね。

私自身もいくつかの決断をすべきことについて、
本当に謙遜に主に聞いていきたいと思います。
また思い通りに、また「神様がこのように導いてくださっているのでは」という方に進んでいかないときにも、主を信頼して、忍耐をもって、従って行こうと思いました。

この世の力に降伏することも、信仰的な決断であり得る。

いつでもいつでも主に聞いていく、主に聞いて、それに従っていく者でありたいです。

主よ、
どうか、あなたに謙虚に聞いていく者でありますように。
原理原則ではなくて、あなたの導きを見極めることができますように。
あなたを信頼して、あなたの時を信頼して、信じていくことできますように。

初収穫!

ここ数日の暖かさで、アスパラガスがニョキニョキ生えて来て、例年になく早く初収穫。

電子レンジで、チンして頂きます。




このアスパラガスという植物、
前の年の夏に受けた栄養を冬の間地下の茎に溜め込んでおいて、
翌年、ガンガン芽を出します。
ですから、これから1ヶ月半くらい、
もぐらたたきゲームのように、
出てくる芽を全部を食べてしまっても、
大丈夫です。

考えさせられます。

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2010-04-08

すべての造られたものに・・・。

今日も、暑かったです。
昨日ほどではなかったですが・・・。
夜11時になりましたが、まだ雷雨にはなっていません。
これからやってくるみたいです。


明日はぐっと下がります。
でも、15度くらいはありそうで、
寒い、というよりも「本来の春に戻った」という感じになりそうです。


先日のはちこさんのご質問でいろいろ考えさせられたのですが、
子どもたちのためのミニストリーの中で、
小さい子供も、小学生の男の子もみんな楽しめる、
そんなプログラムを考えるのは本当に難しいことです。


そんな中で一押し、まず外れないのが、
「空気砲」です。
2年前に紹介しているんですね。


でも、そのときのビデオが著作権の問題で削除されているので、
今回、ふつうサイズのビデオを紹介。





バリエーションとしては、
発射口を上にして、
そこにその口よりももう少し大きな紙コップでロケットを作って、
どこまで高く飛ぶか競争するっていうのも楽しいです。


こういう事を必死に考えているのは、理由があります。


自分が子どもの頃、教会で育ちましたが、
小学校高学年になってきたときに、
「おゆうぎ」とか「みことばいり写真立てづくり」とか、
勘弁して欲しいと思ったのです。


小学校高学年になると、
それまでは喜んできていた友達が、
「教会に行ってもなあ・・・」と言い出すのです。


私の問題意識は、「歌を歌う」「お話を聞く」ということが大切な要素を占める教会の子供プログラムは何も考えなければ、小学校低学年までか、おとなしい女の子向けになってしまう、ということです。だから、「どんな子どもにも開かれているプログラムをやっています、と口では言いながら、実際のところ、高学年の男の子を疎外している危険が沢山あるのです。


ですから、いつもいつも必死に「上級生の男の子でも来たくなるような教会」を考えてきました。でも、それでも、なかなか難しいです。サッカーチームや野球チームを持つ教会もあります。それは素晴らしいです。それなりの人材と場所が必要ですが・・・。


そして、この感覚は大人に対しても大切なんだろうと思います。


大学生の時に聞いたメッセージ、思い出します。
「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を伝えなさい」とイエスは言われた。私たちは「全世界へ」と聞いて、世界各地に出ていくことを考える、宣教師として出ていくことを考える。でも、この「全世界」とは世界のいろんな分野へ、ということも言える。「学問の世界」「商売の世界」「ビジネスマンの世界」「音楽の世界」「芸術の世界」「スポーツの世界」「政治の世界」・・・だから、この宣教命令に従うために、牧師や宣教師になる必要はない。かえって、クリスチャンがもっと社会に出ていくことが大切だ、と。


それと共に、教会自体も、そのような方々が来れる場になっていくということが大切なんですよね。


さて、今日の聖書。
今日はエレミヤ27:1-11。


「だから、あなたがたは、バビロンの王に仕えることはない、と言っているあなたがたの預言者、占い師、夢見る者、卜者、呪術者に聞くな。」9節。

派手なことを言う人がいます。
調子のいいことを言う人がいます。
大きなことを言う人がいます。
そして、それが「信仰的」に見えることがあります。

神様に従っているかのような・・・。

そして、エレミヤのように「上手くいかない」「降伏しなさい」なんていうのは信仰がないのではないか、みたいな見られ方もされます。

でも、大切なのは主に従っているかどうかです。

真実に、忠実に、主に聞いていくことです。
人気がない話であるかもしれません。
余り人に気付かれないような働きであるかもしれません。

それでも恐れないこと。
ただ、主に忠実に聞いていくこと、謙虚に聞いていくことです。

主よ、
あなたに聞き従います。
あなたの語れと言うことを語ることができますように。
派手なことや、調子のいいことが人々の注目を浴びます。
そういうことに振り回されない者でありますように。

2010-04-07

どこを目指して歩くか。

今日は予報通り、暑くなりました。
我が家の温度計での最高気温は34度。


モワッとしています。


明日は曇ってきますし、
気温も30度までいかないと思います。
そして、夜には雷雨。


そして、現実に戻ります。
「春らしい」三寒四温の日々が続くと思います。


イースターまでに終わる予定だった、
Purpose Driven Lifeですが、
細々と続いています。


25日まで進んでいますが、
今日は22日のところ。
「キリストのようになるために造られた」


「多くのクリスチャンは、主イエスが約束された『豊かな人生』を誤解しています。それは、いつも健康に恵まれ、快適に生活し、幸福感に満たされて、夢がすべて実現し、祈りと信仰によって問題は即座に解決するという誤解です。」


「主が最善をなされる」
「祈りが聞かれる」
ということを誤解している部分があったかと思います。


キリストのようになる、ためには、そんなにすべてが順調に行っていいわけではないですよね。


そして、もう一つ。


「力や確信が湧いてくるまで待っていてはいけません。恐れがあっても、感情が伴わなくても、正しいことを行ない、弱さを覚えながらでも、前進することです。」


うーん、考えさせられてしまいました。
やっぱり待っていることばかり多い自分。
「導かれる」のを待っていて、信仰を持って踏み出すことが少ないと思います。
「踏み出す時に開かれるヨルダン川」。
忘れないでいたいです。


さて、今日の聖書。
エレミヤ26:16-24。


「私たちの神、主の名によって、彼は私たちに語ったのだから。」16節。

一握りでも、伝わる人がいる。
真実に主の語りかけを伝えたときに、
伝わる人がいる。
かならずいる。

自分は時々、人々の反応を主に用いられたかどうかの物差しにすることがある。
でも、それは正反対のことだってある。
エレミヤは本当に人々に受け入れられなかった。
神のことばを語ったがゆえに受け入れられなかった。

本当に単純に、主に従っていきたい。
人の反応に振り回されるのではなく、
主のみことばに単純に従っていきたい。

主よ、
あなたに私の心の焦点がいつもあっていますように。
あなたのみ声を聞いて、語るものであり続けますように。
私の心をあなたの守り中に置いて下さい。

2010-04-06

自分の切り売りはできないから・・・。

夜になりました。
今日は暑くなりました。
最高気温は28.4度。


でも、明日はもっと暑くなります。
30度超えるでしょう。
はい、明日は「半袖に上着」が正解です。


4月から、どうしようか、考えていたことに、
このブログを「日々のみことば」「日々の祈り」に集中して、
その他の事はなしにするか、または別のページを立ち上げようか、ということがありました。


「『日々のみことば』を読みたいのに、そこにたどり着くまでが長過ぎ!」というご意見もあれば、「天気の話がありがたい」というありがたいお話もいただき、「しょうもない話はなくていいんじゃない?」という声がある一方で、「あのしょうもない話があるから、立ち寄れる」という貴重なサポートもあり(ま、いずれにせよ、本人はあんまり「しょうもない話」だと思っていないのですが・・・)、いろいろ考えてきたわけです。


でも、結局は今まで通り行こうかと思います。
一つは、単純に、ニュージャージー+「何か」で検索をすると、何でもいいから、このページが引っかかるとか、そんなことで、新しい出会いがあればいいかな、ということ。


もうひとつは、ま、これが「素のかきごおり」ということで、聖書を読んで祈っている自分と、家族のことで一喜一憂したり、天気の話でエキサイトしたり、ささやかな節約に喜びを感じたり、疲れ果てて沈没してしまったり、子どものためのプログラムに一生懸命になったり、「なんだかねえ」と弱音を吐いてしまったり、全部、同じ自分であって、全部のことが、存在の根本にある祈りにつながってくるわけで、それをバラバラにしてしまったり、その一部だけを特別に取り上げなくてもいいかな、と思ったわけです。


で、そんなかきごおりが「日々のみことば」誌に従って今日読んだ聖書は、
急にエレミヤ書に戻って、エレミヤ26章1−15節。


「わたしがあなたに語れと命じたことばを残らず語れ、一言も省くな」2節。

この厳しさですよね。
それを語ったときに、どうなるか、って見えているのに、
それを語る責任がある。

人の耳に心地よい言葉を語るのはできる。

でも、そこに厳しい言葉を語るのは、
感情的になっているか、
よほど傲慢だったり無神経であったりする場合を除いて、
本当に愛と勇気が必要なんですよね。

だから、単純に「愛と勇気」を与えていただきたいと思いました。
はい、アンパンマンと同じですが、
具体的に「愛と勇気」を頂きたいと思います。

主よ、
わたしに愛を与えてください。
あなたの愛を、わたしのためにすべてを与えてくださった愛を、
わたしの心に満たして下さい。
わたしに勇気を与えてください。
逃げない勇気を与えてください。
愛を持って語る勇気を与えてください。

ま、そこそこ。

日付が変わってしまいました。
昨日の出来事。


はい、格闘して焼きました。


昨日はのんちの誕生日。


女の子が2人もいるので、
そろそろ任せても・・・と思うのですが、
昨日はそれぞれに難しい事情があり、
焼くのは、年に1度でなかなか上達しない私めが、担当。
ちょうどお休みを頂いている日なのでちょうど良かったです。


子どもたちはデコレート担当。
いちごにアレルギーが出る私のために、
いちごショートは諦めて、桃缶ショート。
こーんな感じ。




ハジからも電話が入り、本人も喜んでおりました。


のんちをこの世に送ってくださった神様に心から感謝!


そしたら、
日本から、4月4日と、4月5日にそれぞれ元JCCNJの方々から、
女の子誕生のニュースが!


今年のはじめの日本訪問の時には、それぞれ「妻が安静なので・・・」ということで、
お会いできなかった二家族。本当によかったです。感謝。


昨日も暖かかったです。
今日はまたまたもっと暖かいようです。
そして、明日が最高で、30度オーバーも夢ではありません。


でも、読み返してみたら、去年も4月の後半には34度まで上がった日がありました。


今年はまだ上旬。アスパラも生えてきました。


春がものすごい勢いで攻めて来ています。


5日の聖書。
マタイの最後、28:11-20。


「あらゆる国の人々を弟子としなさい」19節。

イエスの弟子を作るのが私たちの使命。
教会は「病院」。
痛みや苦しみ、問題を抱えている人たちがいつでも来れるところ。
でも、それがまた「弟子」を生み出すところ。

この使命を十分に果たしているだろうか?
それが問われているように感じた。

その使命に生きているだろうか?

イエスの弟子を作る。

イエスの弟子となるように人々を招き、
イエスの弟子を育てる。

人々は弟子となっていく。

そのような空気が私の働きには溢れているだろうか?
問われているように感じた。

主よ、
私自身、あなたの弟子として生かしてください。
そして、あなたの弟子を生み出していく、働きをさせてください。
その方向性をもって働きを進めていけますように。

2010-04-04

夢、見た。地図を見て歩いた方がいい・・・のかなあ。

夢を見た。
お客さんを連れて、車で所沢の駅に送りに行くところ。
(たぶん、そのお客さんはボリビアに行っておられる宣教師の先生)
でも、あと少しのところで、電車がいってしまった。
「川越で乗り換えですよね、お送りしますよ」と
お送りすることになったのだが、
何故か、途中で自転車になっていた。


自転車でお送りしながら、途中で、狭い道に入ってしまって、
途中から階段になった。
「ああ、自転車で良かった、車だったら階段は降りれないもんね」と話をしながら、
階段を降りていったのだけれども、「本当にこの道でいいの?」といつの間にか、
一緒に歩いている青年。(実名出しますが、それは「しもりん」でした。)


「かきごおり先生、やっぱ、地図見た方がいいんじゃないですか?」と話しかけてくるのですが、頑固な自分はスタスタと行ってしまう。でも、しもりんの言うとおり、今度は上りの階段で、元の所に戻ってしまう。


「ああ、こんなことだったら、次の電車を待っていた方が良かったですね」なんて言いながら、iPhoneで道を確認。そして、「自転車で所沢から川越までどれくらいかかるだろうか?」「やばいじゃん」と思ったところで目が覚めた。


朝の4時だった。いくらイースターの朝でも、それは早すぎる。
おとなしくベッドの中で思いめぐらしていた。


なんだか、神様の語りかけみたいな気がしていた。
自分はほんとに地図を見ながら歩くのじゃなくて、直感で歩くのが好きな方だ。
迷っても人に道を聞く、というのはない。
でも、今までそれでもだいたいいつの間にか目的地についていることが多かった。
でも、それでいいのか、と問われているように感じた。


「あなたの人生も、いきあたりばったりみたいになっていないか、ちゃんと地図を見て歩きなさい」と。


どっちがいいのかわからない。


思い通りにいかない人生の中で、地図にこだわって生きるのがいいのか、置かれたその場その場で、神様に忠実に生きることがいいのか?ちょっと温めてみたいテーマだ。


今日のイースターも本当に幸いな一日でした。
愛餐会の様子はもう教会のHPにアップされています
新しい方、久しぶりの方、沢山の方と、喜びをともに分かち合うことができました。
感謝。


メジャーリーグも開幕ですね。今日現在、ヤンキースファンです。リードしていたのに、今さっき追いつかれました・・・。


さて、今日の聖書。
今日はマタイ28:1-10。


「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。」6節。

墓にはおられないイエス。
では、今はどこにおられるのだろうか?
弟子たちに40日間にわたって現れたという。
その後、天に昇られて、父なる神の右に座しておられる。

そして、聖霊様を送って、
その存在を通して、私達とともにいてくださる。

今日も聖霊様が、私を導いてくださるように、
御言葉を与え、御言葉によって生かしてくださいますように、
そのように祈らされた。

そう、今朝は駐車場で、祈らされた。

そこにも主がおられることを思いながら。

主よ、
今日もあなたがいてくださいますから、感謝します。
聖霊様によって共にいてくださるから感謝します。

イースターの朝。





「そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。」

今朝は朝方もやっていて、朝日の中で、という訳ではありませんでしたが、イースターの朝を覚えて、外で祈りのときをもちました。

小鳥たちや木々の花が、にぎやかに神を賛美していました。

その後、中に入って、一つ一つのベンチに座って、「この椅子に座る方の心にみ言葉が語られますように」との祈りに導かれました。

幸いな、朝のひとときに感謝。

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2010-04-03

感謝をメモる。

今日も暖かい穏やかな一日でした。
花が一気に咲いてきています。
桜も咲いているんでしょうね。
あんまりじっくり見るチャンスがなくて、
何の花が咲いているのか、わからなかったりするのですが、
とにかく街中の木々が花をつけているようです。


この暖かさは来週半ばまで続くようですね。
7日は30度近くまで上がる予報が出てきています。


でも、その後はぐんと下がって、15度くらいの日が多くなりそうです。
17日は遅霜の可能性も・・・。


一度暖かさに慣れてしまうと後がコワイかも。


今週の初めの立ち読みの日の話。
もう一つパラパラと立ち読みした本があって、
その本には、「感謝ノートを付けなさい」と書いてありました。


感謝なんて無理をしてするもんではありませんが、
でも、自然に湧いてくるのを待っていていいのか、というのもあります。
すぐに忘れてしまったり、意識しないですぎてしまうこともあります。


イエスに癒された10人の中で感謝を表したのがたったの1人だったという聖書の記事もあります。


ですから、私もやってみようかと思って、祈りのノート(ルーズリーフなので)の最初の頁に「感謝のページ」を足しました。


でも、実際書こうと思うと、常時20件というのは、結構チャレンジですね。


今日の感謝・・・明日のための備えを時間が与えられたこと。祈って支えてくださっている方々がおられること。今日お電話で話した方の中に、「明日、行きます!」と言われた方がおられたこと。


「感謝をメモる」ちょっとやってみようと思います。


今、のんちが、お米を計っていたのだけれども、途中で袋が空っぽになった。そこで、買ってきた新しいお米の袋を取りに何歩か歩いたら、「あれ、何杯まで入れたんだったっけ?」だって。あるよねえ、こういうこと。文字通り、三歩歩いたら忘れる、今日この頃の夫婦の会話。


さて、今日の聖書。
今日はマタイ27:57-66。


「そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。」66節。

石の蓋があって、
そこに封印がされて、
番兵が番をしていた。

これでもかってもんですよね。

ある本には、
「兵隊たちも、こんなに虚しい仕事はなかったんじゃないか」って書かれていました。

ですよね。

でも、その大きな石も、底に施された封印も、そして、番兵達も、イエスの復活の力の前には何の意味もなかった。

その復活の力が私達のうちに注がれている。
その復活の力によって生かされている。
その大きさを思わされています。

その祝福を100%戴いているだろうか?

主の復活の力をもっともっと経験させていただきたいです。
約束どおりに主がしてくださることを信頼して歩みます。

主よ、
あなたの復活の力に感謝します。
明日の礼拝をあなたが豊かに祝福してくださいますように。
集われる方々、ひとり残らず、その復活の力を知ることができますように。
イエスを蘇らせたあなたの力に触れることができますように。

2010-04-02

Good Fridayの夜。

今日の3時頃に一回アップしようと思ったのですが、
うまくいかなくて、書いたものが消えてしまったので、
「まあ、いいや、神様が『書かなくていい』と思われたんだな」と思っていました。


イエスが十字架にかかられた日。
いろいろなことに手を動かしながら、
ずっと夜の集会のための準備をかねて、
「ペテロがイエスを『知らない』と言ったのは今頃かな、
「ああ、今頃、十字架につけられたんだな」
「我が神、我が神、どうして・・・」と叫ばれたのは今頃だろうか?


そんなことを思いながら、過ごしていました。


イエスが罪の固まりになって、神に捨てられた者とされたこと、
その意味を思わされました。


今日の聖書はその十字架の箇所。
マタイ27:45ー56。
「神殿の幕が上から下まで真二つに避けた。」51節。


神の方から、救いの道を開いてくださった。
私たちのがんばりではなくて、
主の方から開いてくださった道。


神と人とを隔てる幕を裂いてくださった。


感謝。


主よ、
あなたに祈れるということが、
どれほど特別なことか、
どれほど大きな愛が注がれているのか、
思わされました。
感謝します。
祈る特権を無駄にすることがありませんように。

Good Fridayの11時。

Good Fridayの11時。
子供たちは学校が休み。
お仕事が休みの方々もちらほら。
2日続けてのぽかぽかの春の日です。

イエスが十字架にかけられたのは朝9時頃かという印象があったが、
今日改めて聖書を読んでいると、
ヨハネ19:14では、昼頃ピラトの許で裁判を受けている。

人々が「そいつを十字架につけろ!」と叫んだのは今頃だったのだろうか?

昨日、ある方が「クリスチャンにとって、イエスが十字架につけられた日は、暗い日ですか?」と聞かれて、「んー、あまり馬鹿騒ぎはしないですが、暗いと言うよりも感謝かな」とお答えしたのですが、今日、改めてイエスの十字架を思いながら過ごしている中で、「ホントのところ、イエスの苦しみの深いところまではわからない・・・」というところに、ぶち当たっているように思います。

私もあそこにいたら、「そいつを十字架につけろ!」と叫んでいた一員。

ただ、周りに流されて、そのように叫んでいただろう。

今夜の集会のために準備をしつつ。

2010-04-01

ことばをもとめる。

暖かくなりました。
朝はちょっと寒かったですが、
昼間は20度を超えて、本当に春本番です。
明日も晴れて、暖かくなります。


イースターの前ですが、今年の春は勢いがあります。


4月になって、日本では新しい年度が始まったんですね。
私も人生の6割日本でしたから、自然と4月は新しい気持ちになります。


ですから、このブログもいろいろ考えることもあり、
新しく歩み出そうと思っています。


その一つは、「日々のみことば」が毎日更新できなくてもとらわれない、ということです。
・・・昨日もそうしたのですが、何日かまとめて書く、または飛ばす日もあるかもしれません。


ほかにもいろいろあるのですが、
何よりも自分の中で大切だなあと思うのは、
「わくわくしないなら、更新しない」ということです。


楽しまないと、楽しくないですからね。


月曜日にMITSUWAで待ち合わせがあって、
早く着いていたので、本屋さんで、立ち読みをしていました。
というか、いすもあるんですよね、あそこ。


2冊、ぱらぱらとめくっていたのですが、
渡辺淳一さんの「鈍感力」
そして、香山リカさんの「しがみつかない生き方」


両方話題になった本ですよね。


で、「鈍感力」の方は、「こまかいことにとらわれないで、環境に適応した生き方が必要」ということを言っているみたいですし、「しがみつかない・・・」は、何にでも意味を求めたり、こだわったり、一生懸命になったりしない生き方を勧めているようです。


で、両方共感する部分が多かったのですが、
それよりも感心したのが、本の題の付け方。


「環境適応力」じゃあ、誰も買わないですよね。
それを「鈍感力」という言葉で表したから、
私みたいな、「鈍感コンプレックス」を持つ人たち・・・つまり、鈍感なんだけど、「自分が鈍感なことにも気がつかない」という筋金入りの鈍感になりきれなくて、自分が鈍感であることを気にしている人たち・・・に「ああ、鈍感でもいいんだ!」と一歩間違えば、とんでもない勘違いになりそうな勇気を与えてくれる本になったんですよね。


「しがみつかない・・・」も「こだわらない」とか「肩の力を抜いて」とかやったら、ダメなんでしょうね。「しがみつかない・・・」というちょっとアクの強い言葉だから、「これおもしろそうだな」と思わせる。「自分はしがみついているかなあ」という人も、「しがみつく生き方は嫌だよねえ・・・」と思っている脱力系の人も、ちょっと読んでみようかな、と思う。そして、最後の章が「『勝間和代』を目指さない」だから、こりゃまた痛快。本人が狙ったのか、編集者が狙ったのか、わかりませんが、話題作りになりましたね。


ああ、欲しいなあ、そういうビビッとくる言葉が沸いてくる頭。
ちょっと、この先、挑戦してみよう、っと。


でも、神様の言葉はそういう言葉ですね。
私たちの心をわしづかみにしてしまう言葉。
その言葉を預かっているんだから、その言葉の力を台無しにしないようにしないと。


さて、明日はGood Fridayで、イエスが十字架にかかった日。
今夜はイエスが最後の晩餐で、弟子たちの足を洗った晩であり、
またゲッセマネで血の汗を流して祈られた夜です。

今日の聖書は、マタイ27:27ー44。
「もし、神の子なら、自分を救ってみろ」40節
「イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか」42節
「もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい」43節

3つの「もし・・・なら、・・・しろ」というあざけりの言葉ですが、
驚くことに、その「・・・なら」の部分は全く当たっています。
・・・そしてその後の部分が的外れなのです。

ここに人の思いと神の思いとの違いを見ます。
人々は大きな思い違いをしてました。

ペテロがイエスの受難の預言を聞いて「先生、そんなことがあってはなりません」と言ったときに、イエスは「引き下がれ、サタン、あなたは神のこと思わずに人のことを思っている」と言われました。

神様の救いの計画と、人々の「救い」についての考えは違いすぎました。

私はどうだろうか?と思わされました。
神様の考え、神様の計画に気持ちを向けているだろうか、そこに集中しているだろうか?

神様はイザヤ書55章で、「御言葉」こそ、全く見当違いのことを考えている私たちに、神の思いを伝えるものであることを宣言されています。

私はどこに心を向けているだろうか?

神様の御声を聞かせていただきたい、聖書から語っていただきたい、そのように思います。もっともっと真剣にもっともっと飢え渇きをもって、「主よ語ってください」と求めていこうと思いました。

主よ、
私があなたの声を聞いていくことができますように。
あなたのみ思いに心を向けていくことができますように。
そして、私のうちにも、言葉を与えてください。

2010-03-31

パニック。

今朝までは、雨が残っていましたが、
次第に空は明るくなり、
夕方にはすっかりいい天気になりました。

明日からはしばらく晴れて暖かくなりそうです。
というか、汗ばむようなひもありそうです。

今週は受難週。
明後日はイエスが十字架にかかったGood Fridayです。
ですから、教会の皆さんには、「イエスの十字架を覚えながら、イエスがどんな思いで十字架に進んでいかれたのかを思いながら過ごしましょう」とアピールをしています。
でも、それはまた自分に対するメッセージでもあります。


一番弟子であったペテロがイエスのことを3回も知らないと言ってしまう。
もちろん、それは本意ではなかったわけです。
でも、彼は女中さんに「あなたはイエスの弟子でしょう」と言われて、
あわてて、イエスを否定するのです。
「何を言っているんだ?」と。
ある意味、不意をつかれたのだと思います。
パニックを起こした、と言ってもいいかもしれません。

今日も、自分も同じような弱さを持っていることを思い知らされています。
私も、とっさのときに、正しい答えができなくなることがある。
本当の気持ちとは裏腹な答えをするときがある。
もちろん、「どちらが本当の気持ちなのか?」と問われると、
またどちらなのか、本当に心許ないのだが、
どうにも気持ちが苛立ったり、慌てて逃げ腰になってしまったり、
そんなことがある。

十字架にかかられたイエスの弟子だなんて、恥ずかしくて言えやしない、そんな自分の姿に愕然とするのです。

ああ、また神様の憐れみしかない。

そんなことを思わされます。

さて、日曜日から今日の分までの「日々のみことば」の中で思わされたこと。
マタイ26:57ー27:26。
イエスの裁判の様子が出てきます。

27章の最初のところにはイエスを裏切ったユダが、
イエスを売った祭司たちのところに「私は間違っていた」と言いに行ったところ。
それに対して、彼らの答えは「知ったことか」でした。
「自分たちには関係ない」ということでした。

そして、その後に出てくる総督ピラトの態度も、
「私には責任がない」というものでした。
彼の妻は「関わらないでください」ということでした。

逃げたい気持ち、面倒なことに関わりあいたくない気持ち、
そんなところは、ないだろうか?
逃げてしまったことがどれほどあっただろうか?

それに対して、イエスは私たちのために、
面倒なことに関わってくださった。
面倒を面倒と思われないで、関わってくださった。

十字架まで行ってくださった。

感謝。

私も、そのような歩みをさせていただきたい。
主が歩まれた道に、一歩でも近づいて歩みたい。

主よ、
あなたが私に持ってくださった関心を、
私も人々に対して持つことができますように。
あなたの愛には到底届きませんが、
でも、あなたの愛を映す者とならせてください。

2010-03-30

自分と切り離せないものと切り離せるもの。

今日は朝になってから、がんがん降りました。
昼頃、ちょっと出かけるところがあったのですが、
道があちらこちらで冠水。
車高の低い車は水没するんじゃないか、というところもありました。
うちの近辺は前回の大雨、暴風の比ではなかったですが、
場所によっては、同じくらいひどかったみたいです。


明日は回復に向かい、明後日からは春本番になりそうです。


今日は、ある方と、私にとって、また相手にとって「牧師」という前提のないひとときを過ごしました。本当に幸いなひとときでした。親のこと、NJでの生活のこと、子供の教育のこと、自分の将来のこと、いろんなことを語り合いながら、また互いの言葉に耳を傾けながら、初めてお会いしたことを感じさせない時間でした。


そんなときを過ごしながら、「私」と「牧師」ということは、切り離しうることなんだなあと思いました。いえ、ずっと切り離していられるかはわかりません。神様の与えてくださった使命だと思っているので、たぶん、ずっと「牧師」でない自分を生きなさい、と言われると、無理かもしれません。でも、ひととき、「牧師」であることを置いておいて、一人の「人」として人と対することはできる。そして、それがまた喜びだったりする。でも、「クリスチャン」であることは、自分と切り離せない。それはひとときも。それは「自分」であることの一部なんでしょうね。


もしかしたら、やっぱり、ちょっと肩に力が入っているかもしれないな、と思います。もっともっと、自分であること、もっともっと、神様が造ってくださった自分であること、そこに平安をいただいて歩んでいきたいと思います。


今日のような時間、もっともっと造っていこうと思いました。


さて、27日(土)の聖書。
土曜日はマタイ26:47ー56。


「そのようなことをすれば、こうならねばならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」54節。

祈りの中で、「できればこの十字架を負わなくて済むように」と願われたイエスが、ここでは、「いや、私はこれを負わなければいけないのだ」とはっきりと十字架に進んで行かれていることがわかる。なんとしてもこの御言葉が成就されなければ・・・というところに立っておられた。

やはり、それは祈りの中での答えだろうと思う。
確信と平安がイエスの中にあった。

自分はどうだろうかと思う。
確信と平安が与えられるまで祈っているだろうか?

人の言葉や、周りの態度によって、
「それもそうだなあ」と変わってしまうような祈りの答えはないだろう。

状況や人の答えではなくて、
主の答えをいただいて歩んでいきたい。
主が導かれてるところに歩んでいきたいと思います。


主よ、
祈りの中に答えを与えてください。
あなたの与えてくださった答えに従って歩む者とならせてください。
あなたの答えをいただくまで、何度でも何度でも、祈らせてください。

2010-03-29

割れた9年ものの中身。

昨日、割れてしまった9年もののイースターエッグ。
その中はどうなっているんでしょう?
気になりますよね。


はい、ビデオを撮りました。
昨日と同じシャツですが、
2日続けて同じの着ているんじゃないですよ、
昨日撮ったビデオです。





中身は予想通りでしたが、
「乾燥ピータン」でしたね。


でも、思ったよりも透き通った琥珀色。


長い長い時間をかけて、ここまでなるんですよね。
見えないところで。


そういうとこ、何か、私たち人間と似ていますね。


雨は昨日の夜かなり降っていましたが、
今日は小康状態。
夜になってからまた降り始めるようですが、
どうでしょうか?


26日(金)の聖書。
マタイ26:36ー46。


「どうしても飲まずに済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」42節。

イエスはずっと十字架に向かって歩まれた。
十字架に向かって歩んでこられた。

でも、いざ、十字架を前にして、
やはり、戦いがあった、葛藤があった。
できれば十字架を避けたかった。

しかし、イエスの最後の結論は、
「父なる神のみこころに従う」ということだった。
祈って祈って、祈り抜いて、
こたえをもらって、まっすぐに歩み始めた。

自分もやはり葛藤を覚えることもある。
逃げたくなることもある。
投げ出したくなることもある。

自分も義務だから・・・とか、
乗りかかった船だから・・・とかではなく、
神様から答えをもらって、
神様からの納得をもらって、
歩み続ける者でありたい。

主よ、
なやむこと、まようこと、
あなたから、答えをもらって、
祈って答えをもらって、
歩み始めることができますように。
あなたの見声を聞くことができますように。

2010-03-28

9年もののイースターエッグ。

今日は寒さはぐっとゆるみましたが、
午後からは雨が降ってきました。
これから雨が本格的になって、
明後日、火曜日まで続きそうです。


2日間での雨量は75から150ミリと予想されていて、
2週間前に続いて、また洪水が起こりそうです。
ただ、今回は風はあまり強くないのでは、と思います。


大きな影響が出ないようにと祈ります。


さて、昨日も作った、イースターの卵。
毎年、JOYJOYイースターではエッグペイントをします。
そのたまご、私はなんとか割らないように気をつけます。


なんでかというと、
そのまま風通しのいいところに置いておくと、
中身が小さくなって、カラカラと音を立てるようになるからです。


今回初めての試みですが、
コンピューター内蔵のカメラで、
ビデオを撮って、YouTubeにアップしました。






あー痛い痛い。(3:17)9年ものが・・・。


皆さんももうやっておられるかもしれませんね。
もしも、9年もの以上のコレクション、それから、15グラム以下のコレクションがありましたら、是非、ご連絡ください。あ、ダチョウの卵とか、ワニの卵とか、蛇の卵とか、そんなので作ったイースターエッグも教えていただきたいですねえ。


さて、25日(木)の聖書。
マタイ26:26ー35。


「私は決してつまずきません。」33節。

前の日、水曜日のところとつながってくるのですが、
自分はけっしてつまずかない、
他の人がそういうことがあっても、
私はそういうことは絶対にない、と言いきったペテロ。

その必死さが伝わってきます。
「イエス様、そんなこと言わないでください」
「そんな風に、私のことを見ていたのですか?」
そんな気持ちだったと思います。

でも、彼は自分のことが全然わかっていなかった。

私もそうなんだと思います。
自分では自分が自分のことを一番よくわかっているつもりだけれども、
本当に自分のことをわかっておられる方は、神様。

神様の見ておられるように自分を見る。
自分自身で神様がどんな思いで見ておられるかを知る。

そのようになりたいなあ、と思います。

主よ、
あなたは私をどう見ておられますか?
人がどう見ているかではなくて、あなたはどう見ておられますか?
私はどのようにあなたに仕えるべきでしょうか?
あなたが見ておられるように、自分自身を、そして、人々を見ることができますように。