今日も暖かかったですねえ。
火曜日からずっと春です。
そして、明日も20度を超えます。
一気に木々が芽吹いて、花粉も飛び始めています。
日曜日から、天気が崩れ始めて、
月曜日は雨みたいです。
そして、来週は現実に引き戻されるみたいです。
時計、買いました。
実は1月に日本でどこかにおいてきてしまって、
それからしばらく、礼拝メッセージの時も、iPhoneで時間を確認していたのですが、
さすがにそれもおかしいよなあ、ということで、今日、ちょっと時間を見つけて、買ってきました。
で、なかなかかっこいいのですが、
買ってみてわかったこと。
真ん中の3本の針以外はみんな飾り。
外側の数字のついた回転ベゼルみたいなものも、
文字盤にある3つの小さな針も、全部動きません!
さすがに、外側の回転ベゼルはすぐ、「ああ、これは飾りね」と思ったのですが、
文字盤の中にある3つの小さな針は動くと思いましたよ。
そして、曜日は金曜日であっているけど、日付は8日じゃないから、
直そう、と思っていろいろ触ってみるのですが、
どこを触っても動きません。
よく見たら、3つの針はそれぞれ右、下、左、ときれいに向いているんですね。
やられました。
まあ、文句が言える値段でもないので、全然OKですし、
(もし真ん中の3本が明日止まったら、絶対文句言います)
これが飾りに過ぎないことはほかの誰にもばれるものでもないでしょうから、
全く気にしていないのですが、そこまでやるか、とは思いましたね。
毎日が8日の金曜日です。
Thank God It's Fridayというわけですね。
わたしにとっては金曜日は週末に向けての準備の追い込みの時なので、
身が引き締まる思いです。
お店の人がレシートを見せながら、6月17日までは交換や返品はできるからね、
と言っていたので、まあ、しばらく使って、ゆっくり考えることにします。
さて、3月16日(火)から19日(金)の聖書。
マタイ24:15−51をまとめて。
「この天地は滅び去ります。しかし、わたしの言葉は決して滅びることはありません。」35節。
やはり、何に焦点を当てているかですよね。
どこにピントを合わせているか。
滅び去るものに焦点をあえた生き方をしているか、
変わることのない、神の言葉をしっかり握ってい歩んでいるか。
それが問われているのだと思います。
いつ来るかわからないイエスの再臨。
たとえ、それがすぐには来なくても、
いつ来るかわからない、わたしの人生の最後の日。
それなのに、「どうせすぐには来ないよ」なんて考えて、
好き勝手なことをしていることはないだろうか?
いつそれが来たとしても、
それを平安のうちに受け止めることができるだろうか?
そのために、決して滅びることのない聖書のみ言葉に生きる者とならせていただきたいと思います。
主よ、
どうか、あなたの御言葉によって生かしてください。
いつも、どんな時代にも変わることのない、
御言葉を信頼して、そこに堅く立っていくことができますように。
2010-03-19
2010-03-18
感謝。
どこまで信憑性のある話かどうかわかりませんが、
6時間以上寝ないとホルモンの関係で、内臓脂肪がつく、という記事を読んで、
今日またぎりぎりになったので、もう休みますが、祈ってくださった方々のための報告。
朝の集会も午後のキッズクラブも本当に主が多くの方々を送ってくださいました。
特にキッズクラブは久しぶりの30名近くの子供たちが集まって、
どこまで伝わったか・・・とは思いますが、
イエスの十字架の話をしました。
みんな真剣に話を聞いてくれました。
感謝。ではでは。
皆さんも夜更かしはしないようにしましょう。
・・・「プロフェッショナル」とか見ていると、
なんか、睡眠3時間半とか、24時間以上手術をしていた外科医のせんせとか出てきますが、「無理をする勧め」みたいに感じてしまうこともあったりします。
ここ一番の踏ん張りは大切だろうと思いますが、
弓の弦の張りすぎは、よくないですよね。
はい、ほんとに、これで。
6時間以上寝ないとホルモンの関係で、内臓脂肪がつく、という記事を読んで、
今日またぎりぎりになったので、もう休みますが、祈ってくださった方々のための報告。
朝の集会も午後のキッズクラブも本当に主が多くの方々を送ってくださいました。
特にキッズクラブは久しぶりの30名近くの子供たちが集まって、
どこまで伝わったか・・・とは思いますが、
イエスの十字架の話をしました。
みんな真剣に話を聞いてくれました。
感謝。ではでは。
皆さんも夜更かしはしないようにしましょう。
・・・「プロフェッショナル」とか見ていると、
なんか、睡眠3時間半とか、24時間以上手術をしていた外科医のせんせとか出てきますが、「無理をする勧め」みたいに感じてしまうこともあったりします。
ここ一番の踏ん張りは大切だろうと思いますが、
弓の弦の張りすぎは、よくないですよね。
はい、ほんとに、これで。
2010-03-17
一気に春。
今朝は氷点下に下がって、
朝教会に行くときにはフロントガラスが凍っていたのですが、
昼間は暖かくなって、一気に春です。
昨日、1輪だけ咲いたクロッカスですが、
今日はこんなに咲きました。
ぜひ数えてみてください。
20輪以上咲いていますよね。
今、11時過ぎですが、6度くらいまで下がってきています。
明日も朝は2度くらいまで下がりますが、昼間は20度近くまであがる予想が出ています。
この春の陽気は日曜日くらいまで続くみたいです。
その後のことは何も言いませんが・・・ハイ。
日曜日くらいまで、です。
さて、Purpose Driven Lifeの19日目。
small groupの話の続きです。
最初の言葉大切だと思いました。
というか、この本は毎日のセクションの最初の言葉、
よく考えられていますね。
「共同体は、献身を要求します。」
一つ一つの必要なこと挙げていくと、
・正直さ
・謙遜さ
・思いやり
・秘密を守ること
・頻繁に集まること
最後の「頻繁に集まること」の大切さを思います。
たぶん、神様のリズムなんだと思います。
神様が私たちの魂に刻み込んだリズムがあるんだと思います。
さて、3月15日(月)の聖書。
マタイ24:1−14
「あわてないようにしなさい」6節
「そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです」8節
戦争が起こったり、
飢饉や地震が起こったり、
人々の愛が冷えてしまったり、
そんなことがあったら、本当に慌てるだろうと思います。
ふるわれるだろうと思います。
でも、主は「慌てるな」「始まったばかりだ」と言われるのです。
このような世の終わりについての記述を読むと、
何のために書かれているのかと思いますが、
やはり、私たちが慌てないためでしょう。
混乱しないため、だまされないため、
堅く立っていくためでしょう。
自分の歩みの中で、どれだけ慌てることがあるだろうかと思います。
どれだけ、あたふたしていることがあるだろうかと思います。
主のみ言葉を信頼して、
堅く立つ者でありたいです。
主よ、
あなたを信頼します。
動じない者とならせてください。
動じない強さを与えてください。
あなたを信頼して動かない強さを与えてください。
朝教会に行くときにはフロントガラスが凍っていたのですが、
昼間は暖かくなって、一気に春です。
昨日、1輪だけ咲いたクロッカスですが、
今日はこんなに咲きました。
ぜひ数えてみてください。
20輪以上咲いていますよね。
今、11時過ぎですが、6度くらいまで下がってきています。
明日も朝は2度くらいまで下がりますが、昼間は20度近くまであがる予想が出ています。
この春の陽気は日曜日くらいまで続くみたいです。
その後のことは何も言いませんが・・・ハイ。
日曜日くらいまで、です。
さて、Purpose Driven Lifeの19日目。
small groupの話の続きです。
最初の言葉大切だと思いました。
というか、この本は毎日のセクションの最初の言葉、
よく考えられていますね。
「共同体は、献身を要求します。」
一つ一つの必要なこと挙げていくと、
・正直さ
・謙遜さ
・思いやり
・秘密を守ること
・頻繁に集まること
最後の「頻繁に集まること」の大切さを思います。
たぶん、神様のリズムなんだと思います。
神様が私たちの魂に刻み込んだリズムがあるんだと思います。
さて、3月15日(月)の聖書。
マタイ24:1−14
「あわてないようにしなさい」6節
「そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです」8節
戦争が起こったり、
飢饉や地震が起こったり、
人々の愛が冷えてしまったり、
そんなことがあったら、本当に慌てるだろうと思います。
ふるわれるだろうと思います。
でも、主は「慌てるな」「始まったばかりだ」と言われるのです。
このような世の終わりについての記述を読むと、
何のために書かれているのかと思いますが、
やはり、私たちが慌てないためでしょう。
混乱しないため、だまされないため、
堅く立っていくためでしょう。
自分の歩みの中で、どれだけ慌てることがあるだろうかと思います。
どれだけ、あたふたしていることがあるだろうかと思います。
主のみ言葉を信頼して、
堅く立つ者でありたいです。
主よ、
あなたを信頼します。
動じない者とならせてください。
動じない強さを与えてください。
あなたを信頼して動かない強さを与えてください。
2010-03-16
久しぶりの晴れ!
まだまだ、電気が戻らない方もおられるようですし、
ウチも今日プチ停電(1時間ほど)があったのですが、
今日は久しぶりにすかっと晴れて、暖かくなりました。
やっぱり晴れるって、元気になるんですね。
そして、晴れて元気になるのは人間だけじゃありません。
はい、この日を待っていたかのように、今年初めてクロッカスの花が咲きました。
でも、今年はなんだか、今までに比べて花芽が少ないような気がします。
肥料も何も与えていないので、何も文句は言えないのですが、
満開で、どれくらい咲くのか、これからどんどんつぼみが出てきてほしいものです。
Purpose Driven Lifeの18日目。
18日目と19日目はSmall Groupについてです。
うわべだけの交わりではなく、心を開いた交わりの場。
ここ数年、そのことを思わされていますが、
いよいよ神様が私たちをそこに導こうと
情熱を持って、働いてくださっていることを、
このところ思わされています。
19日目のところにもっと詳しく出てきますが、
そこには勇気が必要だったり、
時間を捧げることが必要だったりします。
主がそれを求めておられるならば、
Rick Warrenが言うように、
単なる方法論ではなく、教会として本質的なことならば、
それが私たちが生かされている「目的」だとまで言うならば、
勇気と知恵と慎重さと愛を与えていただきたいです。
とにかく主に従って行けますように。
3月14日日曜日の聖書。
日曜日はマタイ23:29−39。
「『私たちが、先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう』と言います。」30節。
これは、イエスが偽善者たちの愚かさを非難することばです。
自分たちだったら、そんな過ちを犯すわけがない、と言っている愚かさを指摘しているのです。
確かにそういう人たちいたなあ、と思います。
「自分が十字架の場面にいたら、自分は絶対にイエス様を守っていた」なんてことを言っていた人たちがいました。この偽善者たちと同じだったなあと。
そんなことを思い出しながら、気がつきました。
「自分は30節みたいな馬鹿なことは言わない」と思っているならば、
それはイエスに非難されていた人たちとどこが違うのか?と。
イエスを十字架にかけた人々を非難して、
自分はあんなことをしない、と言っている人々のことを、
「なんておろかなんだ」と言いながら、
「自分はそんなことをは言わない」なんて思っているならば、
やっぱり、同じ穴のムジナなんじゃないかと。
何て愚かなんでしょう。
救いようがないですね。
そんな者たちをも憐れんで救ってくださる主に目を向けて、
人のことをとやかく言うのではなくて、
主の憐れみによってやっと生かされている、受け入れられている、
そのことに目をとめて、感謝して歩んでいきたいです。
主よ、
自分は何て愚かなんだろうと思います。
気がつかせてくださってありがとうございます。
どうか、あなたの憐れみに、あなたの恵みに、目をとめて、
感謝しつつ歩む者としてください。
ウチも今日プチ停電(1時間ほど)があったのですが、
今日は久しぶりにすかっと晴れて、暖かくなりました。
やっぱり晴れるって、元気になるんですね。
そして、晴れて元気になるのは人間だけじゃありません。
はい、この日を待っていたかのように、今年初めてクロッカスの花が咲きました。
でも、今年はなんだか、今までに比べて花芽が少ないような気がします。
肥料も何も与えていないので、何も文句は言えないのですが、
満開で、どれくらい咲くのか、これからどんどんつぼみが出てきてほしいものです。
Purpose Driven Lifeの18日目。
18日目と19日目はSmall Groupについてです。
うわべだけの交わりではなく、心を開いた交わりの場。
ここ数年、そのことを思わされていますが、
いよいよ神様が私たちをそこに導こうと
情熱を持って、働いてくださっていることを、
このところ思わされています。
19日目のところにもっと詳しく出てきますが、
そこには勇気が必要だったり、
時間を捧げることが必要だったりします。
主がそれを求めておられるならば、
Rick Warrenが言うように、
単なる方法論ではなく、教会として本質的なことならば、
それが私たちが生かされている「目的」だとまで言うならば、
勇気と知恵と慎重さと愛を与えていただきたいです。
とにかく主に従って行けますように。
3月14日日曜日の聖書。
日曜日はマタイ23:29−39。
「『私たちが、先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう』と言います。」30節。
これは、イエスが偽善者たちの愚かさを非難することばです。
自分たちだったら、そんな過ちを犯すわけがない、と言っている愚かさを指摘しているのです。
確かにそういう人たちいたなあ、と思います。
「自分が十字架の場面にいたら、自分は絶対にイエス様を守っていた」なんてことを言っていた人たちがいました。この偽善者たちと同じだったなあと。
そんなことを思い出しながら、気がつきました。
「自分は30節みたいな馬鹿なことは言わない」と思っているならば、
それはイエスに非難されていた人たちとどこが違うのか?と。
イエスを十字架にかけた人々を非難して、
自分はあんなことをしない、と言っている人々のことを、
「なんておろかなんだ」と言いながら、
「自分はそんなことをは言わない」なんて思っているならば、
やっぱり、同じ穴のムジナなんじゃないかと。
何て愚かなんでしょう。
救いようがないですね。
そんな者たちをも憐れんで救ってくださる主に目を向けて、
人のことをとやかく言うのではなくて、
主の憐れみによってやっと生かされている、受け入れられている、
そのことに目をとめて、感謝して歩んでいきたいです。
主よ、
自分は何て愚かなんだろうと思います。
気がつかせてくださってありがとうございます。
どうか、あなたの憐れみに、あなたの恵みに、目をとめて、
感謝しつつ歩む者としてください。
2010-03-15
大切なこと。
今日はまだまだ雨が時々降る、すっきりしない日でした。
そして、子供たちは休み、まだまだ電気がつかないところもあるみたいです。
水が出なかったり、ガスも出なかったり、ライフラインが全滅の地域もあるようです。
これはのんちの仕事場のあるショッピングセンターの駐車場。
一部、水没しています。
そして、よく見ると、左側の方に取り残された車があります。
手前のゴミのたまり方をみると、一番多かったときは今よりも数十センチ水位が高かったんだと思います。
話によると、土曜日、写真に写っていない左の方にあるテニスコートに来た人たちが、被害に遭ってしまったみたいです。
本当にすごい嵐だったんですね。
だんだん見えてきた被害の大きさです。
今日になって倒れたんじゃないか、という木が近所に何本もありました。
明日、サキは学校がありますが、ユキの高校はまだ停電中だそうで、
まだ明日あるか休みか決まっていないようです。
明日は天気は回復して、久しぶりに太陽が顔を出しそうです。
さて、久しぶりにPurpose Driven Lifeの話題ですが、
17日目。教会という家族が必要、という話です。
最初のポイントが大切だと思います。
「教会という家族は、あなたが自己中心的な孤立主義に陥るのを防ぐ」
教会は人の集まりですから、一人でいたら出会わないような、つらいことに出会うこともあります。もちろん、愛を感じたり、励まされたり、元気をもらったりするのですが、やはりそれだけではなくて、それと反対のこともあります。
教会に属していなかったら、経験しないですむような痛みを経験することがあります。
逃げ出したくなることもあります。投げ出したくなることもあります。
でも、それがまた私たちを整え、主を主とする信仰へと導いてくれるものなのです。
だから、そこで逃げてはいけない。
自分自身と向き合わないといけない。
人々の向き合わないといけない。
神様が与えてくださった家族だから。
さて、3月13日(土)の聖書。
土曜日はマタイ23:23−28。
「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。」23節。
子供の時から教会にいた自分にとっては、
十分の一を主に捧げるのはは当たり前以前の当たり前。
パリサイ人の気持ちわかっちゃいます。
スパイスみたいな細かいものでも、
きっちり十分の一を主に捧げないと気持ちが悪い。
だから、イエス様のこの言葉が本当に他人事には思えません。
だって、「正義とあわれみと誠実」をおろそかにしていないかというと、
そんなことはありません、なんて決して言えない。
最初の「正義」という言葉一つとっても、
口語訳では「公平」と訳されている。
(このとき、なぜか、2−3日、「日々のみことば」が見つからなくて、口語訳で読んでいました)
公平は単にみんなと同じように接することとは思えない。
そんなことは公平ではない。
イエスも十二弟子を選ばれた。
ほかにもたくさん弟子がいたのに、
その中の一部の弟子だけを特別扱いした。
それは一人一人への使命、賜物を見極めた上での決断。
自分はそこまでちゃんと考えて「正義」「公平」を行っているだろうか?
言い訳のように、「単純にみんな同じように」ということに逃げていることはないだろうか?
あわれみはどうだろうか、
誠実はどうだろうか。
本当に大切なことを大切にしていくこと。
今、それが自分の人生の中で問われていると思います。
主よ、
本当に大切なことを大切にさせてください。
本当に大切なことを見極め、
それが、たとえ人々に不評であっても、
大切なことを大切にしていくことができますように。
そして、子供たちは休み、まだまだ電気がつかないところもあるみたいです。
水が出なかったり、ガスも出なかったり、ライフラインが全滅の地域もあるようです。
これはのんちの仕事場のあるショッピングセンターの駐車場。
一部、水没しています。
そして、よく見ると、左側の方に取り残された車があります。
手前のゴミのたまり方をみると、一番多かったときは今よりも数十センチ水位が高かったんだと思います。
話によると、土曜日、写真に写っていない左の方にあるテニスコートに来た人たちが、被害に遭ってしまったみたいです。
本当にすごい嵐だったんですね。
だんだん見えてきた被害の大きさです。
今日になって倒れたんじゃないか、という木が近所に何本もありました。
明日、サキは学校がありますが、ユキの高校はまだ停電中だそうで、
まだ明日あるか休みか決まっていないようです。
明日は天気は回復して、久しぶりに太陽が顔を出しそうです。
さて、久しぶりにPurpose Driven Lifeの話題ですが、
17日目。教会という家族が必要、という話です。
最初のポイントが大切だと思います。
「教会という家族は、あなたが自己中心的な孤立主義に陥るのを防ぐ」
教会は人の集まりですから、一人でいたら出会わないような、つらいことに出会うこともあります。もちろん、愛を感じたり、励まされたり、元気をもらったりするのですが、やはりそれだけではなくて、それと反対のこともあります。
教会に属していなかったら、経験しないですむような痛みを経験することがあります。
逃げ出したくなることもあります。投げ出したくなることもあります。
でも、それがまた私たちを整え、主を主とする信仰へと導いてくれるものなのです。
だから、そこで逃げてはいけない。
自分自身と向き合わないといけない。
人々の向き合わないといけない。
神様が与えてくださった家族だから。
さて、3月13日(土)の聖書。
土曜日はマタイ23:23−28。
「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。」23節。
子供の時から教会にいた自分にとっては、
十分の一を主に捧げるのはは当たり前以前の当たり前。
パリサイ人の気持ちわかっちゃいます。
スパイスみたいな細かいものでも、
きっちり十分の一を主に捧げないと気持ちが悪い。
だから、イエス様のこの言葉が本当に他人事には思えません。
だって、「正義とあわれみと誠実」をおろそかにしていないかというと、
そんなことはありません、なんて決して言えない。
最初の「正義」という言葉一つとっても、
口語訳では「公平」と訳されている。
(このとき、なぜか、2−3日、「日々のみことば」が見つからなくて、口語訳で読んでいました)
公平は単にみんなと同じように接することとは思えない。
そんなことは公平ではない。
イエスも十二弟子を選ばれた。
ほかにもたくさん弟子がいたのに、
その中の一部の弟子だけを特別扱いした。
それは一人一人への使命、賜物を見極めた上での決断。
自分はそこまでちゃんと考えて「正義」「公平」を行っているだろうか?
言い訳のように、「単純にみんな同じように」ということに逃げていることはないだろうか?
あわれみはどうだろうか、
誠実はどうだろうか。
本当に大切なことを大切にしていくこと。
今、それが自分の人生の中で問われていると思います。
主よ、
本当に大切なことを大切にさせてください。
本当に大切なことを見極め、
それが、たとえ人々に不評であっても、
大切なことを大切にしていくことができますように。
2010-03-14
嵐が去って、ハジも去る。
いやあ、すごい嵐でした。
たぶん、15年あまりのNJでの生活の中で一番怖かったと思います。
大雪とか、大雨とかありましたが、
今回は雨と風。特に風が怖かったです。
昨日の夜は夕方一度家に帰ったのですが、
教会にやり残したことがいくつかあったので、
教会に戻っていました。
そしたら、6時頃に家から携帯電話で、
「停電だから、全部仕事を終わらせてから帰った方がいい」と言われて、
電気の生きていた教会で10時頃まで仕事をして、
帰る途中、ものはいろいろ飛んでくるし、
木は電線に引っかかってぶらぶらしているし、
道路はあちらこちら冠水しているし、で、
嵐の中外に出るのが好きなお天気オヤジも、
さすがに、昨日はびくびくしながら、帰ってきました。
そして、今日も6時頃まで停電だったようです。
まだ、このBergen Countyで80000世帯が停電しているといいますから、
ウチはまだいい方だったのかもしれません。
でも、電気がついてほっとしました。
いかにいつも電気に頼って生きているか、思わされますねえ。
それから、ネット。
iPhoneでどうにか、メールのチェック等できるし、
通話もできるのですが、
これがなかったら・・・と不安になるのも、
いかにネットに依存した生活をしているのか、
考えさせられてしまいました。
1週間あまりのハジの春休みの里帰りも、
あっという間に終わって、
あんまりかまってやることもなく、
また、両親の結婚50周年のためのビデオレターを撮ろうとしていたのに、
停電で、その計画も流れてしまって、
今日の午後アトランタに帰っていきました。
っていうか、今、10時前ですが、Virginia上空です。
9時半頃にAtlantaの空港に着く予定が、
11時を過ぎることになりそうです。
でも、昨日の夜は停電のおかげで、
ハジとサキでいろいろ盛り上がっていたみたいです。
停電でもないと、それぞれテレビを見たり、PCに向かったり、
(今、明日学校が臨時休校になったので、娘たちはまさにそんな感じなんですが・・・)
それぞれに時間を過ごすことが多いのですが、
停電で、TVもPCも使えず、
なんだか、団らんしていたみたいです。
さて、一昨日金曜日の聖書。
マタイ23:13−22。
「見えのために長い祈りをする」14節。
木曜日のところにも「見せるため」という言葉がありましたが、
祈りさえも「見え」のためになる可能性があると言います。
そうなってくるのは、やはり、「祈り」も「信心深さ」の一つの現れと思われることがあるからでしょうか?最近、私は祈りは「神様、私はちょっと疲れたかなあ、休んでもいいですか?」とか、「神様、あの人に電話したいですけど、何時頃がいいと思います?」みたいな、「主に相談する」「ちょっとこぼす」と感じることが多いので、「信心深い」みたいなお祈りはできないんですよね。人に聞かせるようなもんじゃない。
でも、時と場合によっては、教会を代表して祈ったり、人々のために祈ったりするときに、「見え」が入ってくる、そんな誘惑もあるかもしれませんね。
弱い人間です。
そんな見栄を張ってもしょうがない、とわかっているのに、見栄が入り込むことがあるんですよね。気をつけていたい、そんなことは全然意識しないですむような歩みをしたいなあと思わされます。
主よ、
祈りにさえ、見栄が入り込むことがある。
そうなんですよね。
本当に弱いなあと思います。
弱いというか、おろか、というか・・・。
主よ、守ってください。
あなたと、こうやって、ゆっくり語り合う、幸いをもっともっと経験して、見栄なんかとは無縁な生き方がしたいです。できますかね。神様。
たぶん、15年あまりのNJでの生活の中で一番怖かったと思います。
大雪とか、大雨とかありましたが、
今回は雨と風。特に風が怖かったです。
昨日の夜は夕方一度家に帰ったのですが、
教会にやり残したことがいくつかあったので、
教会に戻っていました。
そしたら、6時頃に家から携帯電話で、
「停電だから、全部仕事を終わらせてから帰った方がいい」と言われて、
電気の生きていた教会で10時頃まで仕事をして、
帰る途中、ものはいろいろ飛んでくるし、
木は電線に引っかかってぶらぶらしているし、
道路はあちらこちら冠水しているし、で、
嵐の中外に出るのが好きなお天気オヤジも、
さすがに、昨日はびくびくしながら、帰ってきました。
そして、今日も6時頃まで停電だったようです。
まだ、このBergen Countyで80000世帯が停電しているといいますから、
ウチはまだいい方だったのかもしれません。
でも、電気がついてほっとしました。
いかにいつも電気に頼って生きているか、思わされますねえ。
それから、ネット。
iPhoneでどうにか、メールのチェック等できるし、
通話もできるのですが、
これがなかったら・・・と不安になるのも、
いかにネットに依存した生活をしているのか、
考えさせられてしまいました。
1週間あまりのハジの春休みの里帰りも、
あっという間に終わって、
あんまりかまってやることもなく、
また、両親の結婚50周年のためのビデオレターを撮ろうとしていたのに、
停電で、その計画も流れてしまって、
今日の午後アトランタに帰っていきました。
っていうか、今、10時前ですが、Virginia上空です。
9時半頃にAtlantaの空港に着く予定が、
11時を過ぎることになりそうです。
でも、昨日の夜は停電のおかげで、
ハジとサキでいろいろ盛り上がっていたみたいです。
停電でもないと、それぞれテレビを見たり、PCに向かったり、
(今、明日学校が臨時休校になったので、娘たちはまさにそんな感じなんですが・・・)
それぞれに時間を過ごすことが多いのですが、
停電で、TVもPCも使えず、
なんだか、団らんしていたみたいです。
さて、一昨日金曜日の聖書。
マタイ23:13−22。
「見えのために長い祈りをする」14節。
木曜日のところにも「見せるため」という言葉がありましたが、
祈りさえも「見え」のためになる可能性があると言います。
そうなってくるのは、やはり、「祈り」も「信心深さ」の一つの現れと思われることがあるからでしょうか?最近、私は祈りは「神様、私はちょっと疲れたかなあ、休んでもいいですか?」とか、「神様、あの人に電話したいですけど、何時頃がいいと思います?」みたいな、「主に相談する」「ちょっとこぼす」と感じることが多いので、「信心深い」みたいなお祈りはできないんですよね。人に聞かせるようなもんじゃない。
でも、時と場合によっては、教会を代表して祈ったり、人々のために祈ったりするときに、「見え」が入ってくる、そんな誘惑もあるかもしれませんね。
弱い人間です。
そんな見栄を張ってもしょうがない、とわかっているのに、見栄が入り込むことがあるんですよね。気をつけていたい、そんなことは全然意識しないですむような歩みをしたいなあと思わされます。
主よ、
祈りにさえ、見栄が入り込むことがある。
そうなんですよね。
本当に弱いなあと思います。
弱いというか、おろか、というか・・・。
主よ、守ってください。
あなたと、こうやって、ゆっくり語り合う、幸いをもっともっと経験して、見栄なんかとは無縁な生き方がしたいです。できますかね。神様。
2010-03-13
2010-03-12
休む。
はい、メールとかもフォローし切れていないのですが、とにかく、今夜はもう、やすみます。
明日、気持ちよく起きれますように。
- Posted using BlogPress from my iPhone
明日、気持ちよく起きれますように。
- Posted using BlogPress from my iPhone
2010-03-11
神の言葉に本気になる。
昨日、今日と、それまでよりもちょっと肌寒い、
どよーんとした天気です。
で、今夜からこれが泣き出します。
月曜日くらいまでずーっと泣いているみたいです。
こっちも泣きたくなるような天気です。
そして、一回暖かいのを経験してしまうと、
ちょっとどんよりするだけで、肌寒く感じます。
来週は暖かくなるみたいです。
また楽しみです。
今日の祈り会もよかったです。
先週の土曜日は12人でしたが、
今日の午前中は5人。
まあ、BTとか行くと、3000人とかですが、
祈り会はやっぱり人数じゃあありません。
真実な交わりと、聖書の言葉に対する真摯な姿勢。
従おうという思い。そして、祈ろう、という思い。
でも、その祈ろう、というのも、
お勤めみたいじゃあもったいない。
主の許に安らぐ祈りです。
主の許にほっとして、ともに語り合うひととき。
もちろん、格闘するような祈りもあるでしょう。
でも、基本は主の許に憩うひととき。
そんなとき、心から感じます。「ぼかあ、しあわせだなあ」と。
今日の祈り会はまさにそんな祈り会でした。
そして、今日は神の言葉に自分の存在をかけていくリベカの姿から学びました。
神の言葉よりも世の常識や自分の好みを優先して
エサウを祝福しようとした夫イサク。
その頑固な夫に対して、自分が聞いた神の言葉を堅く握って、
ヤコブが祝福されるために、自分が呪われることさえも厭いませんでした。
自分も本当にそれほど、神の言葉に対して、真剣でありたいと思います。
さて、今日の聖書。
今日はマタイ23:1−12。
「彼らのしていることはみな、人に見せるためです。」5節。
人がどう思うかではなく、
自分が神様との関係をしっかり結んでいく。
神様との関係の中に自分の喜びを見いだして、
神様との関係の中に歩んでいく。
それが私たちの幸せであり、
私たちの祝福だと思いました。
人が見ているからとか、
人がどう思うかに振り回されることなく、
堅く立っていきたいと思います。
主よ、
パリサイ人のことを責めることは簡単です。
でも、自分も同じような弱さを持っていることを思わされます。
どうか、わたしも人の目を気にするのではない、
あなたと共に歩む喜びの中に生きる者とならせてください。
どよーんとした天気です。
で、今夜からこれが泣き出します。
月曜日くらいまでずーっと泣いているみたいです。
こっちも泣きたくなるような天気です。
そして、一回暖かいのを経験してしまうと、
ちょっとどんよりするだけで、肌寒く感じます。
来週は暖かくなるみたいです。
また楽しみです。
今日の祈り会もよかったです。
先週の土曜日は12人でしたが、
今日の午前中は5人。
まあ、BTとか行くと、3000人とかですが、
祈り会はやっぱり人数じゃあありません。
真実な交わりと、聖書の言葉に対する真摯な姿勢。
従おうという思い。そして、祈ろう、という思い。
でも、その祈ろう、というのも、
お勤めみたいじゃあもったいない。
主の許に安らぐ祈りです。
主の許にほっとして、ともに語り合うひととき。
もちろん、格闘するような祈りもあるでしょう。
でも、基本は主の許に憩うひととき。
そんなとき、心から感じます。「ぼかあ、しあわせだなあ」と。
今日の祈り会はまさにそんな祈り会でした。
そして、今日は神の言葉に自分の存在をかけていくリベカの姿から学びました。
神の言葉よりも世の常識や自分の好みを優先して
エサウを祝福しようとした夫イサク。
その頑固な夫に対して、自分が聞いた神の言葉を堅く握って、
ヤコブが祝福されるために、自分が呪われることさえも厭いませんでした。
自分も本当にそれほど、神の言葉に対して、真剣でありたいと思います。
さて、今日の聖書。
今日はマタイ23:1−12。
「彼らのしていることはみな、人に見せるためです。」5節。
人がどう思うかではなく、
自分が神様との関係をしっかり結んでいく。
神様との関係の中に自分の喜びを見いだして、
神様との関係の中に歩んでいく。
それが私たちの幸せであり、
私たちの祝福だと思いました。
人が見ているからとか、
人がどう思うかに振り回されることなく、
堅く立っていきたいと思います。
主よ、
パリサイ人のことを責めることは簡単です。
でも、自分も同じような弱さを持っていることを思わされます。
どうか、わたしも人の目を気にするのではない、
あなたと共に歩む喜びの中に生きる者とならせてください。
2010-03-10
お腹をこわしやすい血液型?
まだ5時ですが、夜帰ってから更新するパワーが無いこともあり得るので、
ちょっと時間ができた、今のうちに・・・。
うちの夫婦ですが、私は割合お腹をこわしやすい方です。
2007年の新年は上へ下への大騒ぎの中で新年を迎えました。
そして、その年は5月までの間に3回もお腹をこわしました。
でも、のんちの方は「ちょっと調子が悪いかな・・・」くらいのもんです。
(その代わり喉は私が強くてのんちが弱い、とかありますが)
まあ、体質なんだろうなあ、と思っていました。
でも、先日、冬の腹下しの原因NO. 1の「ノロウィルス」のことを調べようと、Wikiを調べていたら、
「O型は罹患しやすくB型は罹患しにくい」だって。
えー?やっぱり?はい、私はO型で、のんちはB型。
他にも「あんまりお腹こわさない・・・」と言っておられたB型の方もおられたり、
「へえ、そうだったんだ!だからかあ。」と思い切り納得してしまいました。
「まあ、Wikiはよく不正確な情報があるからねえ」と思いつつ、
いろいろ調べてみましたら、要は、そんなセンセーショナルな調査報告があって、
いろんな研究がなされているようですが、
確かに小腸の腸壁にウィルスがとどまるための血液型抗原がある、というみたいですね。
つまり、ある特定の血液型の人にだけ感染するウィルスの型がある。
しかし、それはノロウィルスの主要な型の一つの話で、沢山ある型の中にはいろんなパターンがあるので、一概に言えない、ということみたいです。
沢山ある資料の中でわかりやすいのはこれかな。ラジオ用の原稿のようです。
でも、その資料とか読むと、研究のために、ボランティアの人たちにノロウィルスを飲んでもらう、ってすごいですよね。研究者の方々には申し訳ないですが、これだけは私はかんべんして欲しいです。とてもじゃないけどできません。研究のため、人々が助かるため、と言われても、できません。その苦しさをほんとに嫌というほど知っていますから。
同じレベルではないですが、イエスが十字架にかかったとき、
それはどんなに痛みであるか、どんなに苦しいことであるか、
どんなに深い孤独であるか、イエスは知っておられたことでしょう。
イエスはその苦しみを「杯を飲む」という言葉で表しています。
どんな思いをされたんだろうか、
そして、その杯を私達のために飲み干されたイエスの愛を思わされます。
さて、日、月と休んで、昨日、火曜日に読んだPurpose Driven Life。
16日目は「神の家族として愛しあうこと」がテーマでした。
心に残ったのは、「愛することは時間を使うこと、時間を共有すること」。
本当にそうだなあと思います。
与えられた限らた時間、どのようにそのために使うのか、
そのために犠牲にすべきものはなにか、
「広く薄く」か「狭く深く」か、
いろんなことを思わされます。
でも、時間を共有し、言葉に耳をかたむけること、
本当に大切な事だと思います。
さて、今日の聖書。
今日はマタイ22:34−46。
「ダビデはキリストを主と呼んでいる。」45節。
人々はキリストを「ダビデの子」と読んでいました。
ダビデのような救い主、ダビデのような力ある王、
彼らはそれを待ち望んでいました。
でも、イエスはダビデの子であるとともに、ダビデの主なのです。
ダビデのイメージに縛られることがない、
大きなお方なのです。自由なお方なのです。
イエスはいつもいつも私達の考えるイメージを超えておられる方です。
わたしを驚かせてくださる方です。
本当に自分がイエスを一つの型の中に、枠の中に
閉じ込めてしまうことがないように、
本当にイエスを主として、主と崇めて、
主として、従って歩んで行きたいと思います。
主よ、
あなたの力に感謝します。
あなたの見せてくださる奇蹟に感謝します。
あなたのことをわたしのちっぽけな頭の中の
イメージに閉じ込めてしまうことがありませんように。
えー?やっぱり?はい、私はO型で、のんちはB型。
他にも「あんまりお腹こわさない・・・」と言っておられたB型の方もおられたり、
「へえ、そうだったんだ!だからかあ。」と思い切り納得してしまいました。
「まあ、Wikiはよく不正確な情報があるからねえ」と思いつつ、
いろいろ調べてみましたら、要は、そんなセンセーショナルな調査報告があって、
いろんな研究がなされているようですが、
確かに小腸の腸壁にウィルスがとどまるための血液型抗原がある、というみたいですね。
つまり、ある特定の血液型の人にだけ感染するウィルスの型がある。
しかし、それはノロウィルスの主要な型の一つの話で、沢山ある型の中にはいろんなパターンがあるので、一概に言えない、ということみたいです。
沢山ある資料の中でわかりやすいのはこれかな。ラジオ用の原稿のようです。
でも、その資料とか読むと、研究のために、ボランティアの人たちにノロウィルスを飲んでもらう、ってすごいですよね。研究者の方々には申し訳ないですが、これだけは私はかんべんして欲しいです。とてもじゃないけどできません。研究のため、人々が助かるため、と言われても、できません。その苦しさをほんとに嫌というほど知っていますから。
同じレベルではないですが、イエスが十字架にかかったとき、
それはどんなに痛みであるか、どんなに苦しいことであるか、
どんなに深い孤独であるか、イエスは知っておられたことでしょう。
イエスはその苦しみを「杯を飲む」という言葉で表しています。
どんな思いをされたんだろうか、
そして、その杯を私達のために飲み干されたイエスの愛を思わされます。
さて、日、月と休んで、昨日、火曜日に読んだPurpose Driven Life。
16日目は「神の家族として愛しあうこと」がテーマでした。
心に残ったのは、「愛することは時間を使うこと、時間を共有すること」。
本当にそうだなあと思います。
与えられた限らた時間、どのようにそのために使うのか、
そのために犠牲にすべきものはなにか、
「広く薄く」か「狭く深く」か、
いろんなことを思わされます。
でも、時間を共有し、言葉に耳をかたむけること、
本当に大切な事だと思います。
さて、今日の聖書。
今日はマタイ22:34−46。
「ダビデはキリストを主と呼んでいる。」45節。
人々はキリストを「ダビデの子」と読んでいました。
ダビデのような救い主、ダビデのような力ある王、
彼らはそれを待ち望んでいました。
でも、イエスはダビデの子であるとともに、ダビデの主なのです。
ダビデのイメージに縛られることがない、
大きなお方なのです。自由なお方なのです。
イエスはいつもいつも私達の考えるイメージを超えておられる方です。
わたしを驚かせてくださる方です。
本当に自分がイエスを一つの型の中に、枠の中に
閉じ込めてしまうことがないように、
本当にイエスを主として、主と崇めて、
主として、従って歩んで行きたいと思います。
主よ、
あなたの力に感謝します。
あなたの見せてくださる奇蹟に感謝します。
あなたのことをわたしのちっぽけな頭の中の
イメージに閉じ込めてしまうことがありませんように。
マクドナルドの無線。
アイスは機械が壊れていたり、高かったり(ま、1ドルでも十分安いですが)、
いろんなトラブルのある、最近のマクドナルドですが、
NYにオフィスを持たない私にとって、ここでの無線LANがタダになったのはものすごいgood newsでした。
確か、今年の1月からですが、全米のマクドナルドで、今まで有料だった無線LAN接続が無料になりました。
今まで、図書館で無料で無線LANにつないでいましたが、
そこでは静かにしていなければならない(携帯に電話がかかってきたら、階段に出て話す)、昼寝ができない(うとっとしてただけで注意されたこともあり)、など、いろいろ不自由がありました。
あと、何よりも接続が不安定で、スピードも遅かったです。
もちろん、マクドナルドでも昼寝や携帯での通話がOKだとは思わないのですが、余り神経質になる必要はありません。
そして、接続もずっと安定しています。
これも、マクドナルドで祈祷会を持った後、そのままそこでつないでいます。
これからはJCCNJのNYOfficeはLex. Aveの45th Stにあるマクドナルド2Fになります。ヨロシク。
さて、ちょっと休んでいたPurpose Driven Lifeですが、先週の土曜日は15日目、「神の家族」について読みました。そう、2週目は神の家族であるクリスチャン同士の関係や教会のことがテーマになります。
「血縁関係の家族よりも、神の家族のほうが大切」
これはかなりセンセーショナル、というか、衝撃的な言葉ですね。
聖書の中でも、家族よりも神様を第一に、とイエスは言われています。
でも、また家族も大切。
でも、どちらかと言うと、私自身、「神の家族」の大切さをどれくらい伝えてきたか、
そのように生きてきたか、問われているように感じました。
そこら辺のこと、これからすこしずつ学んでいければと思います。
さて、昨日の聖書。
昨日はマタイ22:23−33。
「聖書も神も力も知らないからです。」29節。
自分は知っているだろうか?
聖書も神の力も。
教会の人々に伝えているだろうか、
聖書を知ることの大切さ、
そして、神の力を知ることの大切さ。
神の力を知る。
これは本当に尊いことだと思います。
また、本当に謙虚にさせられることだと思います。
「神の力を知った」と言いながら傲慢な香りを放っている方がおられます。
正直、そのような言葉は信じられません。
神の力の前に、私たちは謙虚にならないではいられないのです。
砕かれないではいられないのです。
もっともっと聖書を知らせていただきたい、
そして、もっともっと神の力を知らせていただきたい、
そのように思わされました。
主よ、
どうか、あなたの力を教えてください。
どうか、あなたのみ言葉を教えてください。
そして、その前に砕かれた者となりますように。
いろんなトラブルのある、最近のマクドナルドですが、
NYにオフィスを持たない私にとって、ここでの無線LANがタダになったのはものすごいgood newsでした。
確か、今年の1月からですが、全米のマクドナルドで、今まで有料だった無線LAN接続が無料になりました。
今まで、図書館で無料で無線LANにつないでいましたが、
そこでは静かにしていなければならない(携帯に電話がかかってきたら、階段に出て話す)、昼寝ができない(うとっとしてただけで注意されたこともあり)、など、いろいろ不自由がありました。
あと、何よりも接続が不安定で、スピードも遅かったです。
もちろん、マクドナルドでも昼寝や携帯での通話がOKだとは思わないのですが、余り神経質になる必要はありません。
そして、接続もずっと安定しています。
これも、マクドナルドで祈祷会を持った後、そのままそこでつないでいます。
これからはJCCNJのNYOfficeはLex. Aveの45th Stにあるマクドナルド2Fになります。ヨロシク。
さて、ちょっと休んでいたPurpose Driven Lifeですが、先週の土曜日は15日目、「神の家族」について読みました。そう、2週目は神の家族であるクリスチャン同士の関係や教会のことがテーマになります。
「血縁関係の家族よりも、神の家族のほうが大切」
これはかなりセンセーショナル、というか、衝撃的な言葉ですね。
聖書の中でも、家族よりも神様を第一に、とイエスは言われています。
でも、また家族も大切。
でも、どちらかと言うと、私自身、「神の家族」の大切さをどれくらい伝えてきたか、
そのように生きてきたか、問われているように感じました。
そこら辺のこと、これからすこしずつ学んでいければと思います。
さて、昨日の聖書。
昨日はマタイ22:23−33。
「聖書も神も力も知らないからです。」29節。
自分は知っているだろうか?
聖書も神の力も。
教会の人々に伝えているだろうか、
聖書を知ることの大切さ、
そして、神の力を知ることの大切さ。
神の力を知る。
これは本当に尊いことだと思います。
また、本当に謙虚にさせられることだと思います。
「神の力を知った」と言いながら傲慢な香りを放っている方がおられます。
正直、そのような言葉は信じられません。
神の力の前に、私たちは謙虚にならないではいられないのです。
砕かれないではいられないのです。
もっともっと聖書を知らせていただきたい、
そして、もっともっと神の力を知らせていただきたい、
そのように思わされました。
主よ、
どうか、あなたの力を教えてください。
どうか、あなたのみ言葉を教えてください。
そして、その前に砕かれた者となりますように。
2010-03-09
今どきの・・・かな?
足の写真なんて失礼しますが、
これはウチの末っ子の昨日の靴下のコーディネート。
今日なんてもっとハッキリ違うのを履いていましたが、
今、こいつは、毎日、靴下左右で違うのを履いています。
ちょっと前までは、
「暗いところで履いたら、違ってた、恥ずかしい!」って感じだったんでしょうが、
今は、結構そういうのがあるみたいです。
ちなみに、ウチの兄貴は、むかーしから、これをやっていました。
「間違い」じゃなく、「必ず片方だけ先に穴が開くけど、両方捨てるのは勿体無いから・・・」と言っていました。
時代の40年くらい先を走っている人でした。
すごい人だと思います。(色んな意味で・・・)
だけど、ウチの末っ子、上の二人とはちょと違ったものを持っています。
イマ風の子になるのでは・・・と楽しみと不安と。
神様がこの子に与えて下さった賜物が生かされますように、
親が親の考えた枠の中に閉じ込めてしまうことがありませんように。
昨日も、今日も暖かいです。
助かります。
日本はすごい大荒れみたいですが。
こちらの穏やかな天気も明日までで、
木曜日から月曜日くらいまで、またぐずついた天気が続きそうです。
さて、昨日の聖書。
昨日はマタイ22:15−22。
「神のものは神に返しなさい」21節。
日曜日に「神様の準備したカスタムメイドの使命に生きよう」とメッセージで語ってから、
ずっと、自分の使命を思わされることが続いています。
主が私のために準備した使命。
主がわたしが生まれる前から、わたしのために備えておられる使命。
何だろうかと思います。
最近買った靴。
サイズもお店で測ってもらって、
「このサイズがいい」と言われたもの、
「この靴が今までよりも、『もっと歩きたい』という気持ちにならなかったら、30日以内だったら返品OK、全額返金保証」という靴。
本当に楽ですし、本当に「もっと歩きたい」と思います。
そのように、わたしにぴったり来る、
カスタムメイドの使命に生かしていただきたいと思いました。
神様のものだから、神様の願うような歩みをさせてただきたい。
それが自分にとっても最高の歩みだから。
主よ、
他の人のための使命ではなく、
他の人の真似ではなく、
ただ、あなたがわたしのために準備された使命に生かして下さい。
それを見極める目を与えて下さい。
人の言葉ではなく、あなたのみ言葉に聞いていく者とならせて下さい。
2010-03-07
マクドナルドのアイス。
今日の夕食は久々のマクドナルド。
ハジは遊びに行っちゃうし、
のんちはもう早く休んでしまったので、
ユキとサキを連れてDollar Menu狙いで行ってきました。
で、食後はアイスを食べるのが楽しみです。
元々、1個25セントだったと思うのですが、
いつからか、29セントになり、そして、今は39セント。
じゃあ、3人で1ドルちょっとだね、ということで、
今日も食べることにしました。
でも、悪いことに、
機械が壊れている・・・という返事。
しょうがない、と諦めたのですが、
どうしても諦められない末っ子がごねて、
もうひとつのマクドナルドへ。
私たちの町の周囲には、
ショッピングモールを別として、
17号線の北のほうに1軒あって、そこで食べたのですが、
4号線の教会のそばにも1軒あります。
そこに回ることに・・・。
でも、行ってみて、固まりました。
なんと、その店ではアイスが1ドル。
片方の店で39セントのアイスが、もう1軒では、1ドルですよ。
あり得ませんよね。
1ドルしかなかったら、「安いじゃん」と思うでしょうが、
25セントから始まって、39セントでも高い、と思っているんですから、
1ドルはないですよね。
みなさんだったら、どうします?
もう、ここまで来たら諦めきれなくて、
「一杯のかけそば」ならぬ、「一個のアイスクリーム」をしてしまいました。
はい、1ドル+TAXで1つのアイスを買って、
3人で回し食いしました。うーん、やっぱり一人1個食べたかったかな。
今日の礼拝も幸いな礼拝でした。
久しぶりに大学生も何人か帰ってきていて、
良かったです。
スペイン語しか話せない方も来られて、
ほんとに英語が通じない、
「ああ、もっといろいろな言葉が話せるようになりたい」と思いました。
でも、そんな中でも、同じ主を礼拝できるのは、不思議ですね。
スペイン語が話せる方々が何人かおられること、
本当に感謝しました。
さて、今日の聖書。
マタイ22章1−14節。
「そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。」11節。
礼服の話です。
何週間か前の礼拝でお話しました。
たしか、日本から戻って最初の礼拝。
2月14日だったかな。
礼服は入り口に用意されていた、
でも、この人は敢えてその礼服を身に付けなかった。
どうしてだろうかと思います。
おそらく自分の準備してきた服で十分だったと思ったのでしょう。
自分のコーディネートに自信があったのでしょう。
準備された礼服を身につけなかった。
この「準備された礼服」はイエスの十字架による神の義。
それよりも、自分の義の方がいい、
自分の義で大丈夫、と思った人がいた。
でも、駄目だったんですよね。
主の与えてくださる義、
主が認めてくださること、
そこに感謝して、そこに生きて行きたいと思いました。
今日の礼拝でもそうでした。
ただただ、主の憐れみ、主の恵みの中で、
歩まされる幸いを感謝します。
主よ、
どうか、あなたの恵みの中に歩ませて下さい。
自分のコーティネートにではなくて、
あなたの準備された礼服を着て、
あなたのところに行くことができますように。
2010-03-06
自分の考えではなく。
さて、今日の聖書。
やっと追いつきました。
なかなか追いつけないことが、ずうーっとストレスでした。
でも、ストレスを感じてるようじゃ、つまらないなあ、と思って、
もう、「日々のみことば」の「毎日」の部分を諦めて、特別に思わされたことだけを分かち合うべきか、とも思いました。でも、何とか追いつけたので、もうしばらくは、「毎日」にこだわってみようかと思います。
マタイ21:33−46。
「家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。」42節。
神様は、常識を超えたことをなさる方。
私たちの考えとは違った考えを持った方。
だから、いつもいつも神様のお考えを求め、
いつもいつも神様の導きを待ち望みながら、歩んで行きたいと思いました。
神様を信頼して行こう。
わたしの考えを遥かに超えて賢いお方、
わたしの見えないものも全部見えていて、
導いてくださるお方。
だから、安心して、信頼していこう。
一生懸命にならなくてもいい。
主の導きに安心してついていこう。
本当に、そんな気持ちになった朝だった。
主よ、
わたしの考えと、あなたの考えが全然ちがうんですね。
どうか、あなたの考えを教えてください。
そして、あなたに従って行くことができますように、
あなたの導きに単純に信頼して従って行くことができますように。
あなたの平安に感謝します。
やっと追いつきました。
なかなか追いつけないことが、ずうーっとストレスでした。
でも、ストレスを感じてるようじゃ、つまらないなあ、と思って、
もう、「日々のみことば」の「毎日」の部分を諦めて、特別に思わされたことだけを分かち合うべきか、とも思いました。でも、何とか追いつけたので、もうしばらくは、「毎日」にこだわってみようかと思います。
マタイ21:33−46。
「家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。」42節。
神様は、常識を超えたことをなさる方。
私たちの考えとは違った考えを持った方。
だから、いつもいつも神様のお考えを求め、
いつもいつも神様の導きを待ち望みながら、歩んで行きたいと思いました。
神様を信頼して行こう。
わたしの考えを遥かに超えて賢いお方、
わたしの見えないものも全部見えていて、
導いてくださるお方。
だから、安心して、信頼していこう。
一生懸命にならなくてもいい。
主の導きに安心してついていこう。
本当に、そんな気持ちになった朝だった。
主よ、
わたしの考えと、あなたの考えが全然ちがうんですね。
どうか、あなたの考えを教えてください。
そして、あなたに従って行くことができますように、
あなたの導きに単純に信頼して従って行くことができますように。
あなたの平安に感謝します。
素直な心。
今朝は本当に空が綺麗だった。
ラジオでも言っていたけれども、
今日はとても空気が乾いて、澄んでいたそうだ。
朝、6時前、もう空は朝焼けで明るくなっていた。
でも、あと1週間でDaylight Saving Timeが始まる。
この6時が、1週間後には7時になるかと思うと、ちょっと寂しい。
今日も昼間は10度を超えたけれども、
明日はもっと暖かくなる。
朝は氷点下だろうけれども、昼間は12度くらいまで上がるだろう。
今日は教会での祈り会。
いつもは6時半から持っていたのですが、今日は9時半。
土曜日、補習校に送りにいかなければいけない人達のこともあり、
試しに時間を変えてみて、多くの方々が来ることができたのですが、
それを超えて、本当に主が語って下さった集まりでした。
「私たちがお互いに主が与えて下さった召し、使命を重んじることの大切さ」を思わされました。
自分自身、主から与えられた召し(Calling)に誠実に歩んで行きたいと思います。
さて、昨日の聖書。
昨日はマタイ21:23−32。
「しかし、あなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」32節。
プライドの問題なんだろうか?
彼らが正しい、自分が間違っていたとわかっていても、
悔い改めることができない。
でも、この気持ちもわかるような気がする。
本当に彼らの方が正しいと思いながら、
取税人や罪人、遊女たちが悔い改めた後に、
今まで指導的な立場にいた彼らが悔い改めることができるだろうか?
でも、そこでできたなら、本当の悔い改めなのだと思う。
自分の立場とか、自分の経験とか、
そんなことにこだわっていないで、悔い改めるのは、
本ものだと思う。
自分が今まで「彼らは問題だ」と思っていた人たちが、
信仰の目んで自分よりも先に進んでいる、と思っても、
それをなかなか素直に認めることは難しいと思う。
やはり、ここでも、どこまで行っても、
主と自分との関係なんですよね。
そこで、本当に砕かれて、子どものようになって、
主の前に出る、そんな素直な心を持ちたいと思います。
主よ、
どうか、わたしのプライドを砕き、
幼子のような心であなたの前に出ることができるようにして下さい。
あなたとの関係の中に歩むことができますように。
ラジオでも言っていたけれども、
今日はとても空気が乾いて、澄んでいたそうだ。
朝、6時前、もう空は朝焼けで明るくなっていた。
でも、あと1週間でDaylight Saving Timeが始まる。
この6時が、1週間後には7時になるかと思うと、ちょっと寂しい。
今日も昼間は10度を超えたけれども、
明日はもっと暖かくなる。
朝は氷点下だろうけれども、昼間は12度くらいまで上がるだろう。
今日は教会での祈り会。
いつもは6時半から持っていたのですが、今日は9時半。
土曜日、補習校に送りにいかなければいけない人達のこともあり、
試しに時間を変えてみて、多くの方々が来ることができたのですが、
それを超えて、本当に主が語って下さった集まりでした。
「私たちがお互いに主が与えて下さった召し、使命を重んじることの大切さ」を思わされました。
自分自身、主から与えられた召し(Calling)に誠実に歩んで行きたいと思います。
さて、昨日の聖書。
昨日はマタイ21:23−32。
「しかし、あなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」32節。
プライドの問題なんだろうか?
彼らが正しい、自分が間違っていたとわかっていても、
悔い改めることができない。
でも、この気持ちもわかるような気がする。
本当に彼らの方が正しいと思いながら、
取税人や罪人、遊女たちが悔い改めた後に、
今まで指導的な立場にいた彼らが悔い改めることができるだろうか?
でも、そこでできたなら、本当の悔い改めなのだと思う。
自分の立場とか、自分の経験とか、
そんなことにこだわっていないで、悔い改めるのは、
本ものだと思う。
自分が今まで「彼らは問題だ」と思っていた人たちが、
信仰の目んで自分よりも先に進んでいる、と思っても、
それをなかなか素直に認めることは難しいと思う。
やはり、ここでも、どこまで行っても、
主と自分との関係なんですよね。
そこで、本当に砕かれて、子どものようになって、
主の前に出る、そんな素直な心を持ちたいと思います。
主よ、
どうか、わたしのプライドを砕き、
幼子のような心であなたの前に出ることができるようにして下さい。
あなたとの関係の中に歩むことができますように。
2010-03-05
感じることよりも信頼すること。
今日のPurpose Driven Life。
14日目「神が遠く感じられる時」。
これはほんと、キモですね。
聖書の言葉、イザヤ書8章17節。
「主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、主を望みまつる。」
Rick Warrenは言います。
「神はあなたが神を感じることよりも、信頼することの方に関心を持っておられます。神を喜ばせるものは感情ではなく、信仰なのです。」
「あなたが信仰を持ってまだ間もない頃には、神はあなたに多くの確証を与えて下さったり、非常に未熟で自己中心的な祈りにも答えてくださることがあります。しかし、あなたの信仰が成長するにつれて、神はあなたをこうした依存状態から自立へ向けて乳離れさせられます。」
14日目「神が遠く感じられる時」。
これはほんと、キモですね。
聖書の言葉、イザヤ書8章17節。
「主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、主を望みまつる。」
Rick Warrenは言います。
「神はあなたが神を感じることよりも、信頼することの方に関心を持っておられます。神を喜ばせるものは感情ではなく、信仰なのです。」
「あなたが信仰を持ってまだ間もない頃には、神はあなたに多くの確証を与えて下さったり、非常に未熟で自己中心的な祈りにも答えてくださることがあります。しかし、あなたの信仰が成長するにつれて、神はあなたをこうした依存状態から自立へ向けて乳離れさせられます。」
感じ、感覚に振り回されるのではなく、
み言葉を信頼すること、み言葉に立つこと。
その大切さを思わされます。
今日の夜の集会で、一人の高校生が証をして下さいましたが、
本当に心を開いて、大切なことを分かち合って下さいました。
そこに、世代を超えて、通じるものを感じていました。
真実な証しは、心に触れます。
主の素晴らしさをあらわします。
さて、昨日、3月4日の聖書。
マタイ21:12−22。
「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」13節。
主は私たちに祈りを求めておられる。
つまり、それは、私たちと語り合おうとしておられるのだ。
だいたい、祈りがお勤めや義務になってしまったら、
つまらない。つまらないというか、苦痛だ。
でも、本当は、それは恋人たちが語り合うようなものなんだ。
私たちが主との時を過ごすのは、楽しい一時、甘美な時間なのだ。
だから、一生懸命になるんじゃなくて、
主と共に時間を過ごすことを楽しみたい。
主と共に時間を過ごすことを喜びとしたい。
そこに私たちは招かれている。
主よ、
祈りの時を喜んでくださること、
あなたが祈りに招いていてくださることに感謝します。
明日の祈り会も、そのような楽しいひとときとして下さい。
あなたと時を過ごすこと、あなたの元でやすらぐこと、
それを味わうことが出きますように。
春休みだって。
今日も朝、チラチラ雪が降ってたけど、
昼間はまた暖かくなりました。
明日明後日共に、朝晩はちょっと冷えますが、
昼間は10度か、それ以上に暖かくなりそうです。
ハジが帰ってきました。
春休みだそうで。
14日まで10日間ウチにいます。
他の家族は休みじゃないんで、なんにも計画はないんですが、
まあ、とにかく、2ヶ月ぶりの帰宅なんで、歓迎です。
でも、春なんですよね。ほんとに。
南部にいると。
何度も書いているんですが、
自分がエモリーの学生の頃、
春休みにフロリダに行って、
帰ってくる時、アトランタは猛吹雪で帰れなかったんですね。
今から17年前、1993年のSuperstormの時でした。
アトランタを出るときは20度を超えていて、
レンギョウの黄色い花が咲き誇っていました。
もちろん半袖。
でも、4日後の帰りはフロリダ州内で氷点下。
春は時々、嵐が来ます。
さて、今年はどうなるでしょうか。
さて、3月3日(水)の聖書。
マタイ21:1−11。
「見よ、あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ロバの背に乗って。」5節。
平和の王として来られたイエス。
しもべとしてこられたイエス。
私も平和が必要だ、と思わされた。
まずは内的な平和。そして、周りの人々との平和。
イエスはわたしに平和を与えてくださる方。
本当に内なる平和を与えていただきたい。
そして、平和を周りの人々との間に与えていただきたい。
イエスはしもべとして来られた。
だから、私自身もしもべとならせていただこう。
自分自身、主からの平和をいただいて、
平和のしもべとして、仕えて行こう。
主よ、
あなたが与えてくださる平和について、
思いめぐらされました。
本当に私は内なる平和が必要です。
自分の魂の中に平和が必要です。
どうか、あなたの平和をいただいて、
また人々のところに平和を運ぶ者とならせてください。
平和の王として来られたイエス。
しもべとしてこられたイエス。
私も平和が必要だ、と思わされた。
まずは内的な平和。そして、周りの人々との平和。
イエスはわたしに平和を与えてくださる方。
本当に内なる平和を与えていただきたい。
そして、平和を周りの人々との間に与えていただきたい。
イエスはしもべとして来られた。
だから、私自身もしもべとならせていただこう。
自分自身、主からの平和をいただいて、
平和のしもべとして、仕えて行こう。
主よ、
あなたが与えてくださる平和について、
思いめぐらされました。
本当に私は内なる平和が必要です。
自分の魂の中に平和が必要です。
どうか、あなたの平和をいただいて、
また人々のところに平和を運ぶ者とならせてください。
2010-03-04
The Heart of Worship
たぶん、これが今日の最後の更新。
今日のPurpose Driven Life.
今日のもパワフルでした。
最初からいきなり先制パンチ。
英語だと、
God wants all of you.
God doesn't want part of your life.
...
God is not interested in... the leftovers of your time and money.
最後のleftoverって「食べ残し」って感じですよね。
ま、「残りもの」の方がいいかな。
私たちはどこかで、時間やお金の、残り物を主に持ってくる、そんな気持ちのところがあるかもしれません。
違うんですよね。私たちの人生のすべてが神様のもの。
そして、極めつけが、最後の、The Heart of Worshipという歌が作られた、その由来について。
英語では、ここに詳しく書かれています。英語の分かる人は是非、読んでください。
http://www.crosswalk.com/1253122/
日本語で説明しているサイトを探したのですが、
見つからないので、ちょっと説明しますが、
ある時、この曲の作者であるMatt Redmanの属していたイギリスの教会のMike Pilavachiという牧師が、礼拝の行き詰まりを感じて、自分たちの方法をすべて止めて、礼拝の本質に戻ろうと一時期、バンドや音響システムをすべてストップして、礼拝を守る、と宣言したそうです。(Rick Warrenは歌うこともすべてやめたと書いていますが、実際はアカペラの歌が始まったようです)
教会の人々に対して、あなたがたは、礼拝の「消費者」ではなくて、「作り上げる者」です、そして、みなさんがどんな捧げ物を神様に持って来るか、よく考えてきて下さい。とお願いしたそうです。
最初は戸惑いと、沈黙があったそうですが、人々は心からの礼拝を捧げるようになってきました。そして、その中でMattの心の中に生まれたのが、この歌だったというのです。
すごい勇気ですね。そして、この名曲はそんな中から生まれたんだと知って、すごい納得です。
いつの間にか、音楽に酔いしれてしまったり、歌っている自分に満足していることはないだろうか、本当に礼拝をしているだろうか、本当の礼拝を捧げさせていただきたい、そんなふうに思わされました。
さて、3月2日(火)の聖書。
マタイ20:17-34。
「わたしが飲もうとしてる杯を飲むことはできますか。」22節。
主が負われた苦しみ。
自分は苦しみを敢えて自分で負うことがあるだろうか。
主に従って、苦しみを負うことをしているだろうか?
祝福はいただいている。
祝福に満たされている。
でも、主の苦しみと同じ苦しみを負うことをしてきているだろうか、
それを願っているだろうか?
それを逃げないで負ってきただろうか?
まっすぐな気持ちと、
まっすぐな態度を与えていただきたいです。
主よ、
どうか、あなたの通られたみ苦しみを、
私も通ることがあったときには、
どうか、あなたのみ苦しみを覚えて、まっすぐに逃げないで、進んで行く者とならせて下さい。あなたの助けを与えて下さい。
今日のPurpose Driven Life.
今日のもパワフルでした。
最初からいきなり先制パンチ。
英語だと、
God wants all of you.
God doesn't want part of your life.
...
God is not interested in... the leftovers of your time and money.
最後のleftoverって「食べ残し」って感じですよね。
ま、「残りもの」の方がいいかな。
私たちはどこかで、時間やお金の、残り物を主に持ってくる、そんな気持ちのところがあるかもしれません。
違うんですよね。私たちの人生のすべてが神様のもの。
そして、極めつけが、最後の、The Heart of Worshipという歌が作られた、その由来について。
英語では、ここに詳しく書かれています。英語の分かる人は是非、読んでください。
http://www.crosswalk.com/1253122/
日本語で説明しているサイトを探したのですが、
見つからないので、ちょっと説明しますが、
ある時、この曲の作者であるMatt Redmanの属していたイギリスの教会のMike Pilavachiという牧師が、礼拝の行き詰まりを感じて、自分たちの方法をすべて止めて、礼拝の本質に戻ろうと一時期、バンドや音響システムをすべてストップして、礼拝を守る、と宣言したそうです。(Rick Warrenは歌うこともすべてやめたと書いていますが、実際はアカペラの歌が始まったようです)
教会の人々に対して、あなたがたは、礼拝の「消費者」ではなくて、「作り上げる者」です、そして、みなさんがどんな捧げ物を神様に持って来るか、よく考えてきて下さい。とお願いしたそうです。
最初は戸惑いと、沈黙があったそうですが、人々は心からの礼拝を捧げるようになってきました。そして、その中でMattの心の中に生まれたのが、この歌だったというのです。
すごい勇気ですね。そして、この名曲はそんな中から生まれたんだと知って、すごい納得です。
いつの間にか、音楽に酔いしれてしまったり、歌っている自分に満足していることはないだろうか、本当に礼拝をしているだろうか、本当の礼拝を捧げさせていただきたい、そんなふうに思わされました。
さて、3月2日(火)の聖書。
マタイ20:17-34。
「わたしが飲もうとしてる杯を飲むことはできますか。」22節。
主が負われた苦しみ。
自分は苦しみを敢えて自分で負うことがあるだろうか。
主に従って、苦しみを負うことをしているだろうか?
祝福はいただいている。
祝福に満たされている。
でも、主の苦しみと同じ苦しみを負うことをしてきているだろうか、
それを願っているだろうか?
それを逃げないで負ってきただろうか?
まっすぐな気持ちと、
まっすぐな態度を与えていただきたいです。
主よ、
どうか、あなたの通られたみ苦しみを、
私も通ることがあったときには、
どうか、あなたのみ苦しみを覚えて、まっすぐに逃げないで、進んで行く者とならせて下さい。あなたの助けを与えて下さい。
導かれたこと。
今日の午前中は、我が家での家庭集会。
ご都合の悪い方や、体調を崩された方などおられて、
小さな集まりでしたが、
クリスチャン以外の方々が3人来られました。
嬉しいです。
みなさん、「私のようなクリスチャンじゃない者が行っていいのでしょうか?」そう言われるのですが、私は、いつもいつも新しい方々が出入する集まりを持ちたいと思っています。いえ、私だけではなくて、教会はいつもそうですよね。
その中のお一人が言われました。
「私は何も知らないで、ただ、いくつかの候補の中で、名前がいい、ということで、今の町に引越してきた。でも、それはあなた達夫婦に会うためだったんだと思う」と。
一つ一つの出会いが主に導かれたものなのだと思います。
そして、私たちは神様の祝福を流す器なんだと。
この出会いにも本当に感謝しています。
そして、いつの日にか、「あ、でも、もっと言うと、神様に出会うためだったんですね」という言葉を聞ける日が来ることを祈りつつ。
さて、3月1日(月)の聖書。
マタイ20:1−16。
「ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。」14節。
私は確かに夕方来て、1時間だけ働いた者だ。
1時間だけ働いて1デナリ受け取った者だ。
そのことを本当にわかっているんだろうか?
いつの間にか、私は朝から働いている、
1デナリを受け取って当然だ、みたいなつもりになっていないだろうか?
とんでもない。
私は1時間だけ、働いて、
いや、主のお役に立つことなんか何も出来ないでいる者だ。
でも、主は豊かに与えてくださる。
そのことを、心の底から、ENJOYすることのできる者でありますように。
恵みを恵みとして、喜ぶ者でありますように。
主よ、
あなたの恵みに感謝します。
あなたの気前のよさに感謝します。
あなたが与えてくださる豊かさに感謝します。
どうか、それを心の底から、本当に底から、
感謝する者でありますように。
ご都合の悪い方や、体調を崩された方などおられて、
小さな集まりでしたが、
クリスチャン以外の方々が3人来られました。
嬉しいです。
みなさん、「私のようなクリスチャンじゃない者が行っていいのでしょうか?」そう言われるのですが、私は、いつもいつも新しい方々が出入する集まりを持ちたいと思っています。いえ、私だけではなくて、教会はいつもそうですよね。
その中のお一人が言われました。
「私は何も知らないで、ただ、いくつかの候補の中で、名前がいい、ということで、今の町に引越してきた。でも、それはあなた達夫婦に会うためだったんだと思う」と。
一つ一つの出会いが主に導かれたものなのだと思います。
そして、私たちは神様の祝福を流す器なんだと。
この出会いにも本当に感謝しています。
そして、いつの日にか、「あ、でも、もっと言うと、神様に出会うためだったんですね」という言葉を聞ける日が来ることを祈りつつ。
さて、3月1日(月)の聖書。
マタイ20:1−16。
「ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。」14節。
私は確かに夕方来て、1時間だけ働いた者だ。
1時間だけ働いて1デナリ受け取った者だ。
そのことを本当にわかっているんだろうか?
いつの間にか、私は朝から働いている、
1デナリを受け取って当然だ、みたいなつもりになっていないだろうか?
とんでもない。
私は1時間だけ、働いて、
いや、主のお役に立つことなんか何も出来ないでいる者だ。
でも、主は豊かに与えてくださる。
そのことを、心の底から、ENJOYすることのできる者でありますように。
恵みを恵みとして、喜ぶ者でありますように。
主よ、
あなたの恵みに感謝します。
あなたの気前のよさに感謝します。
あなたが与えてくださる豊かさに感謝します。
どうか、それを心の底から、本当に底から、
感謝する者でありますように。
日進月歩だけど。
雪が融けて顔をのぞかせたのは、クロッカスだけではなくて、チューリップも。
そばにはリスがきれいに食べたどんぐりの殻が落ちていました。
でも、よく見ると、ピントがチューリップの芽にドンピシャじゃなくて、
後ろの木くずにあっています。
マニュアルでピントを合わせることのできるようなカメラではないので、
こういうのは難しいです。
ちょうど、ピントを合わせたいところに紙でも置いて、ピントを合わせるために半押しをして、そこでシャッターを押せばいい、というのを読んだこともありますが、今日はそんなゆとりもありませんでした。また今度試してみようと思います。
で、このカメラ、買ってからどれくらい経ったんだろうか、と思って、
調べてみました。
そしたら、4年半前。
もっともっと前かと思っていたのですが、
そんなもんなんですね。
最近は新製品の出るサイクルがとても短いので、
4年半前に買ったモデルがとても古く感じます。
今では、顔認識とか、笑顔認識とか、あるみたいですが、
もちろん、そんなのはありません。
ホント日進月歩ですよね。
どんどん新しい機種が出て、
安い値段で、ずっと性能のいいのがでているようでして、
「買え買え」光線を浴びまくっておりますが、
それに負けないように、と思いながら、でも、そのうち・・・と思いながら、
神様にお祈りしております。
2月28日(日)の聖書。
詩篇の86:8−17でした。
「主よ、あなたの道をわたしに教えてください。」11節。
日曜日は、「主への降伏としての礼拝」に心が向いていました。
礼拝は主に降伏するものなんだ、自分の好み、自分の趣味、自分の気持ちの良さ、そういうものを礼拝に求めるのではない、主に降伏するんだと。
ですから、主の道を求めます。
主が与えられる道、私たちを遥かに超えた、知恵に満ちた道、
それを求めます。
主よ、
あなたの道を教えてください。
わたしの道ではなく、人々の求める道でもなく、
あなたの道を教えてください。
そこに降伏して、従って行く者でありますように。
ほらね。
今日も日中は気温が10度くらいまで上がって、暖かくなりました。
雪もどんどん融けてきています。
そして、庭の片隅で目を凝らすと、
毎年最初に花を咲かせるクロッカスが芽を出していました。
「クロッカス」でブログ内検索をかけてみると、
毎年、話題に出していますね。
だいたい、3月の中旬頃咲き始めて、下旬に満開になるようです。
さて、今年はどうなるでしょうか?
勢いで過去記事を読んでいたら、
2007年は3月16日に大雪。
まだまだ今年もわかりませんね。
はい、2週間予報では、ちょうど16-17日あたりに可能性があります。
さて、何とか追いつこうと思っていますが、
2月27日(土)の聖書。
詩篇86:1−7
「私は苦難の日にあなたを呼び求めます。あなたが答えてくださるからです。」7節。
苦しみの中で、主に目を向ける。
順調なときもだろうけれども、
苦しみの中にあるから、
戦いの中にあるから、
私は主に目を向けないではいられない。
だから、苦しみも、わたしが主に目をむけるためだったら、
それはまた祝福だ。
かつて、中国のクリスチャンが言っていた、という言葉を思い出す。
「私たちへの迫害がなくなるように祈らないで下さい。私たちが迫害の中で、信仰を堅く立っていくことができるように祈って下さい。」
本当にそのとおりだと思う。
私もそうだ。
確かに苦しみの中で、「苦しみを取り除いて下さい」と祈らないではいられない。
でも、その中で、主を見上げることが出来るように、それを何よりも願っている。
教会の一人ひとりも苦しみが取り除かれるよりも、
その中で、神様の恵み深さをもっともっと味わうことができますように。
主よ、
苦しみの中で、あなたに目をむけることができますように。
そして、苦しみが取り除かれることよりも、
その中で、あなたとの関係がさらに深くされることを求めて行くことができますように。
2010-03-03
苦々しさを感じたとき。
もう一つ行きます。
昨日は帰ってきて、バダンキューだったので、
Purpose Driven Lifeはお休みしました。
今日もきつかったですが、何とか、読みました。
12日目「神との友情を育む」というテーマです。
4つの秘訣が出てきます。
「正直になること」「従うこと」「神が大切にしているものを大切にすること」「神と親しくなることを求めること」
だそうです。
最初の神に対して正直になること、の中に、
「苦々しい思いを抱いたとき」というのがありました。
神への不信感を持ってしまうことがあるというのです。
そのようなときに、正直にその気持をもっていくこと、
ありのままを申し上げること、が大切だそうです。
自分はそうなりましたね。
元々は良い子でしたが・・・。
ありのままの気持ちを主に持っていく、
他の誰かになってしまうのではなくて、
自分のまま、主の前に出る。
人は「あなたはあなたのままであってはならない」というメッセージを送ってくることがあります。そういうメッセージばかりを受けていると、そして、それに応えようとしていると、それは本当に疲れます。ちょっとはがんばれるのですが、そのうち本当に疲れてしまいます。
でも、主は正直であるように、わたしのまま行くようにと招いていてくださるのです。
本当にありのまま、主の前に出る者でありたいと思います。
さて、2月26日(金)の聖書。
詩篇85:1−13。
わっ、急に詩篇、と思いました。
なんだったんでしょう?
イースターに向けた調整でしょうか?
「あなたはいつまでも、私たちに対して怒っておられるのですか。」5節。
ちょうど、今日のPDLとシンクしていますが、
神様に対してもストレートに気持ちをぶつけることができるって、すごいですよね。
それはやはり信頼しているから。
納得いかないときに、納得いかない、と言える。
それは、いつの日か、納得させていただけると信じているから。
主に対して、ストレートに語ろう。
主に対して、何でも祈ろう。
主はわたしの思いをわかってくださるから。
主よ、
あなたに求めます。
あなたがわたしの祈りを聞き、答え、納得させてくださることと信じて求めます。
また、あなたは最善の御業をなしてくださる方であると信じます。
どうか、わたしの目が開かれて、そのことがハッキリと分かりますように。
昨日は帰ってきて、バダンキューだったので、
Purpose Driven Lifeはお休みしました。
今日もきつかったですが、何とか、読みました。
12日目「神との友情を育む」というテーマです。
4つの秘訣が出てきます。
「正直になること」「従うこと」「神が大切にしているものを大切にすること」「神と親しくなることを求めること」
だそうです。
最初の神に対して正直になること、の中に、
「苦々しい思いを抱いたとき」というのがありました。
神への不信感を持ってしまうことがあるというのです。
そのようなときに、正直にその気持をもっていくこと、
ありのままを申し上げること、が大切だそうです。
自分はそうなりましたね。
元々は良い子でしたが・・・。
ありのままの気持ちを主に持っていく、
他の誰かになってしまうのではなくて、
自分のまま、主の前に出る。
人は「あなたはあなたのままであってはならない」というメッセージを送ってくることがあります。そういうメッセージばかりを受けていると、そして、それに応えようとしていると、それは本当に疲れます。ちょっとはがんばれるのですが、そのうち本当に疲れてしまいます。
でも、主は正直であるように、わたしのまま行くようにと招いていてくださるのです。
本当にありのまま、主の前に出る者でありたいと思います。
さて、2月26日(金)の聖書。
詩篇85:1−13。
わっ、急に詩篇、と思いました。
なんだったんでしょう?
イースターに向けた調整でしょうか?
「あなたはいつまでも、私たちに対して怒っておられるのですか。」5節。
ちょうど、今日のPDLとシンクしていますが、
神様に対してもストレートに気持ちをぶつけることができるって、すごいですよね。
それはやはり信頼しているから。
納得いかないときに、納得いかない、と言える。
それは、いつの日か、納得させていただけると信じているから。
主に対して、ストレートに語ろう。
主に対して、何でも祈ろう。
主はわたしの思いをわかってくださるから。
主よ、
あなたに求めます。
あなたがわたしの祈りを聞き、答え、納得させてくださることと信じて求めます。
また、あなたは最善の御業をなしてくださる方であると信じます。
どうか、わたしの目が開かれて、そのことがハッキリと分かりますように。
水漏れ。
今日、朝起きたら、まだ雨でしたが、
7時頃、教会から帰る道は雪になっていました。
でも、その後は大したことはなく、
今日も雪がグーンと減りました。
これで、この週末には雪がなくなるでしょう。
いよいよ、春へまっしぐらです。
きっと、たぶん・・・。
下の写真ですが、余りきれいではありませんが、
何かと言うと、キッチンの蛇口の一部です。
今回、日本から帰ってきて気がついたのですが、
蛇口の途中から水が漏れている・・・。
それも日毎に大きくなってきている。
見えます?
まだ、何とかシンクの中に水が入っているから、
そんなに気にならないのですが、
この先どうなるかわかりません。
意を決して、蛇口全交換。
シンクの下にもぐりこんで・・・
そのシンクは、ウチにおいでになったことのある方はおわかりでしょうが、
コーナーにあります。
シンクの下のスペースが本当に狭い。
それで真ん中には太い下水のパイプが走っている。
今日ほど、もっと体が小さかったらいいのに、と思う日はありませんでした。
十分小さいのですが・・・。
これ、普通の人はどうやって作業するんでしょうか。
買ってきた蛇口が不良品で、思いがけず時間がかかってしまいました。
簡単な作業なんですが、やっぱりプロのようには行きません。
何枚もシャツをビショビショにする悪戦苦闘の末、無事開通。
でも、無事に水がジャーっと出てきた時には、感動。
でも、明日の集会の前に無事修理が終わってよかったです。
明日の午前中の我が家での集会が、豊かに祝福されますように。
さて、2月25日の聖書。
マタイ19:23−30。
「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」26節。
人が救われること、
それは人の業ではない、神の業。
でも、しばしば私たちはそれを自分の力だとか、
熱心さだとか、勘違いすることがある。
主の業なんだ、
そこに私たちが同席させていただいているんだ、
主が一人の型を救いへと導かれるときに、
そこに一緒にいることができる、特権を与えられただけなんだ。
主の見方で問題を見、
主の願われることを願う者でありますように。
これからも、人々が主によって救いへと導かれて行く、
その場に居合わせる祝福を経験できますように。
主よ、
人の力ではどうにもなりません。
人が救われるのは、あなたの御業です。
どうか、あなたの御業を見る特権、
その場に居合わせる特権をお与え下さい。
7時頃、教会から帰る道は雪になっていました。
でも、その後は大したことはなく、
今日も雪がグーンと減りました。
これで、この週末には雪がなくなるでしょう。
いよいよ、春へまっしぐらです。
きっと、たぶん・・・。
下の写真ですが、余りきれいではありませんが、
何かと言うと、キッチンの蛇口の一部です。
今回、日本から帰ってきて気がついたのですが、
蛇口の途中から水が漏れている・・・。
それも日毎に大きくなってきている。
見えます?
まだ、何とかシンクの中に水が入っているから、
そんなに気にならないのですが、
この先どうなるかわかりません。
意を決して、蛇口全交換。
シンクの下にもぐりこんで・・・
そのシンクは、ウチにおいでになったことのある方はおわかりでしょうが、
コーナーにあります。
シンクの下のスペースが本当に狭い。
それで真ん中には太い下水のパイプが走っている。
今日ほど、もっと体が小さかったらいいのに、と思う日はありませんでした。
十分小さいのですが・・・。
これ、普通の人はどうやって作業するんでしょうか。
買ってきた蛇口が不良品で、思いがけず時間がかかってしまいました。
簡単な作業なんですが、やっぱりプロのようには行きません。
何枚もシャツをビショビショにする悪戦苦闘の末、無事開通。
でも、無事に水がジャーっと出てきた時には、感動。
でも、明日の集会の前に無事修理が終わってよかったです。
明日の午前中の我が家での集会が、豊かに祝福されますように。
さて、2月25日の聖書。
マタイ19:23−30。
「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」26節。
人が救われること、
それは人の業ではない、神の業。
でも、しばしば私たちはそれを自分の力だとか、
熱心さだとか、勘違いすることがある。
主の業なんだ、
そこに私たちが同席させていただいているんだ、
主が一人の型を救いへと導かれるときに、
そこに一緒にいることができる、特権を与えられただけなんだ。
主の見方で問題を見、
主の願われることを願う者でありますように。
これからも、人々が主によって救いへと導かれて行く、
その場に居合わせる祝福を経験できますように。
主よ、
人の力ではどうにもなりません。
人が救われるのは、あなたの御業です。
どうか、あなたの御業を見る特権、
その場に居合わせる特権をお与え下さい。
2010-03-02
あれえ、また雪?
今日も昼間は10度くらいまで上がって
昨日は東にそれる、って言っていたのに、
暖かかったのですが、
夜になってちょっと冷えて、今11時過ぎですが、
3.6度。さっき、車で帰ってきたのですが、
雨もパラパラふってきました。
そして、天気予報は以下の通り。
昨日は東にそれる、って言っていたのに、
「雪の心配は殆どない」とここで宣言してしまったのに、
今日は一転、やっぱり雪、だって。
まあそれほど積もる雪ではないようですが、
それだってどうなることか。
これで大雪なんかになったら、もう誰も信じられません!
10年くらい前のことでしたが、
「夜の間に雪が降るけど、大したことない」と言っていたイースターの朝、
起きたら15センチくらい積もっていたことがありました。
ですから、まだまだ何があるか分かりません。
さて、日曜日は休んだので、
昨日のPurpose Driven Life。
11日目。「神の親友となる」というテーマでした。
これは、御言葉と祈りの生活を勧めているところです。
この間の日曜日あたりに気がついたのですが、
この本って結局「信仰生活の心得」みたいな本ですね。
でも、それじゃあ、一部の人しか買ってくれないから、
人生の目的、というキーワードで信仰生活の心得をまとめてみた、
ということなのでしょうか。
でも、私などは、「信仰生活の心得」って言ってもらった方が、
すごく、すとんときますね。
「なんだ、この本は『信仰生活の心得』じゃないか」と思ったら、
いろんなことが「ストン」「ストン」と心に入ってきます。
でも、「ということは、自分の中で、『信仰生活を送る』ということが、『すべての人の存在の目的』と一つのことだ、ということが、ちゃんと消化されていないのかもしれない。」と思わされています。
これは、ちょっと課題です。
で、昨日のところなんですが、
座って、時間を決めて、祈っている、聖書を読んでいる時だけが、「祈りの時」ではない、ということ、これまた大切なことだと思わされました。
一瞬一瞬が御言葉を思いめぐらし、神に祈る、神とつながっているその時、そして、それは友達と時間を過ごすようなことだと。
本当にそのような一瞬一瞬となりますように。
特にパニックを起こすような出来事の中で、
神といつもつながっている者でありますように。
さて、2月24日(水)の聖書。
マタイ19:13-22。
「財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。」21節。
手放すことですよね。
私も自分の教会のためには、思い切って捧げるけれども、
それはどこかでやはり自分の働きの一部、みたいなところがある。
でも、ここでは、「貧しい人に与えなさい」と言われている。
だから、本当に手放してしまうこと。
もちろん、自分が捧げたものが、正しく使われているかどうか、
それを確認したい、見ていたい、という気持ちもわかる。
でも、それでも、どこまでも手放してしまうことが大切なのだ。
自分の手の届かないところにも、喜んで捧げることが出来るか、
自分がその恩恵を受けないところにも、喜んで捧げることが出来るか、
私自身、まだまだ訓練を受けていないような気がする。
もちろん、今、自分が属している教会のために捧げるのが、
今のわたしの使命だと思う。
でも、その中でも、自分が大切にしているものを、
自分の手の届かないところに捧げてしまう、
そういうことを経験して、その中で、本当に恵みに感謝をして、
ひとつひとつのことを手放して行くことを学ばせていただきたい。
主よ、
私の人生はあなたのものです。
どうか、わたしのこだわりをきよめ、
あなたの自由な導きに従っていく者とならせて下さい。
2010-03-01
降伏する礼拝。
今日は久しぶりに昼間の気温が10度くらいにまで上がりました。
まだまだ一面の銀世界なのですが、もう3月、春ですね。
一気に雪が融けたようです。
明後日の雪は殆ど心配ないので、
この勢いで行くと、週末にはもう雪がなくなっているかもしれません。
さて、土曜日というか、土曜日は二人で話をしないで、寝てしまったので、
日曜日にもう一度読んで話をしたところですが、
40日のPurpose Driven Lifeの10日目。
この日のポイントは、礼拝は「降伏」である、ということ。
2日前のポイントと似ているのですが、
自分の考え、自分のこだわりではなくて、
すべてを主の前に投げ出して、主を主とすること、
それが、礼拝の本質。
今、教会の礼拝について時間やプログラムを変えようとしている最中なので、いろいろ反省させられました。
そして、日曜日は降伏の礼拝を守りました。
そこに主の祝福がありました。
感謝。
さて、3月23日の聖書。
マタイ19:1-12。
「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しない方がましです。」しかし、イエスは言われた。「そのことばは誰でも受け入れることができるわけではありません。」10-11節。
結婚って何だろう?
特にクリスチャンにとって結婚て何だろう?
体の関係を結婚の中だけに厳しく制限している聖書の鉄則に従って生きている中で、
「体の関係を持つために結婚する」という感覚に陥っていることに気がついた。
でも、それは結婚のすべてではない。
あまりに「結婚までは待つ」を大切にし、強調する中で、
(それは今でも間違いではないと思いますし、これからも次の世代に伝えて行くメッセージだと思っていますが)
特にクリスチャン男性にとって、
結婚の目的が「正々堂々と体の関係を持つ」事になってしまっているのではないかと。
だから、女性の気持ちが分からない。
妻を愛することがどういう事か、
結婚して何年も経ってから学ぶことが多い。
このイエスと話をしている弟子たちの感覚を笑うことなんかできない。
この時代はなんてひどい時代だったんだろう、ということなんかできない。
共に生きていく、神が結びあわせて下さった存在と共に生きていく、
それがどういう事なのか、もっともっと学ばせていただきたいと思いました。
主よ、
どうか、あなたが与えて下さった伴侶と、共に歩むことの意味を教えてください。
あなたの与えて下さった使命に生かして下さい。
まだまだ一面の銀世界なのですが、もう3月、春ですね。
一気に雪が融けたようです。
明後日の雪は殆ど心配ないので、
この勢いで行くと、週末にはもう雪がなくなっているかもしれません。
さて、土曜日というか、土曜日は二人で話をしないで、寝てしまったので、
日曜日にもう一度読んで話をしたところですが、
40日のPurpose Driven Lifeの10日目。
この日のポイントは、礼拝は「降伏」である、ということ。
2日前のポイントと似ているのですが、
自分の考え、自分のこだわりではなくて、
すべてを主の前に投げ出して、主を主とすること、
それが、礼拝の本質。
今、教会の礼拝について時間やプログラムを変えようとしている最中なので、いろいろ反省させられました。
そして、日曜日は降伏の礼拝を守りました。
そこに主の祝福がありました。
感謝。
さて、3月23日の聖書。
マタイ19:1-12。
「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しない方がましです。」しかし、イエスは言われた。「そのことばは誰でも受け入れることができるわけではありません。」10-11節。
結婚って何だろう?
特にクリスチャンにとって結婚て何だろう?
体の関係を結婚の中だけに厳しく制限している聖書の鉄則に従って生きている中で、
「体の関係を持つために結婚する」という感覚に陥っていることに気がついた。
でも、それは結婚のすべてではない。
あまりに「結婚までは待つ」を大切にし、強調する中で、
(それは今でも間違いではないと思いますし、これからも次の世代に伝えて行くメッセージだと思っていますが)
特にクリスチャン男性にとって、
結婚の目的が「正々堂々と体の関係を持つ」事になってしまっているのではないかと。
だから、女性の気持ちが分からない。
妻を愛することがどういう事か、
結婚して何年も経ってから学ぶことが多い。
このイエスと話をしている弟子たちの感覚を笑うことなんかできない。
この時代はなんてひどい時代だったんだろう、ということなんかできない。
共に生きていく、神が結びあわせて下さった存在と共に生きていく、
それがどういう事なのか、もっともっと学ばせていただきたいと思いました。
主よ、
どうか、あなたが与えて下さった伴侶と、共に歩むことの意味を教えてください。
あなたの与えて下さった使命に生かして下さい。
2010-02-28
眠るのも礼拝。
結局、その後余り雪はふらず、
毎日、すこしずつ減ってきています。
でも、さすがに50センチ近く降ると、
時間がかかるだろうなあと思います。
春はまだ、もうちょっと先かな、と思います。
水曜日にまた雪の可能性もありますが、
今回は東海上にそれて行く、ということで終わりそうです。
えっと、一昨日のPurpose Driven Lifeは、9日目。
礼拝ということについて、もうちょっと掘り下げていました。
その中で、目が開かれたというか、
知っていたけれども、いつの間にか忘れてしまっていたこと。
「眠っている私たちも神様は喜んでくださる」
そう、遊んでいる時も、趣味に興じている時も、
オリンピックやフットボール、野球を見ている時も、
すべてが神への礼拝の時であって、
神様は、私たちが教会に座っていたり、
家族や友人に、聖書の話をしている時だけではなくて、
どんな時にも、喜んでいてくださる、ということ。
ちょっと最近、眠ることをちゃんと心から喜んでいませんでしたね。
神様が与えられた体、神様が与えられた時間、
喜んで、感謝して、歩ませていただきたいと思います。
さて、2月22日月曜日の聖書。
マタイ18:21-35
「7度を70倍にするまで」22節。
おお、2月22日に22節。
そんなことはどうでもいいですが、
イエスは「どこまでも赦しなさい」と言われたんですよね。
損だなあと思わないわけでもないですし、
反省しないじゃないか・・・と思わないわけでもないです。
そして、自分はどこまでも赦すことはできないなあと思います。
赦されたことを忘れているからでしょうか?
たぶん、自分のほうがましな人間だと思っているんでしょうね。
自分だったら、そんなことはしないと。
でも、結構やっているのかもしれない。
自分のことが見えていないのかもしれない。
自分がどれだけ主に赦されたのか、
それを忘れないでいたいです。
世の中の最悪のタイプの罪人だったのに、
赦されたことを、忘れないで感謝して歩んで行きたいと思います。
自分が傷付いたことさえ忘れてしまうほど、
主の素晴らしさを、主の愛を、主の恵みを、
味わいながら、歩んで行きたいと思います。
主よ、
あなたが赦して下さったことに感謝します。
人の事が見えなくなるくらい、
自分の傷に気がつかなくなるくらい、
あなたの愛に満たして下さい。
毎日、すこしずつ減ってきています。
でも、さすがに50センチ近く降ると、
時間がかかるだろうなあと思います。
春はまだ、もうちょっと先かな、と思います。
水曜日にまた雪の可能性もありますが、
今回は東海上にそれて行く、ということで終わりそうです。
えっと、一昨日のPurpose Driven Lifeは、9日目。
礼拝ということについて、もうちょっと掘り下げていました。
その中で、目が開かれたというか、
知っていたけれども、いつの間にか忘れてしまっていたこと。
「眠っている私たちも神様は喜んでくださる」
そう、遊んでいる時も、趣味に興じている時も、
オリンピックやフットボール、野球を見ている時も、
すべてが神への礼拝の時であって、
神様は、私たちが教会に座っていたり、
家族や友人に、聖書の話をしている時だけではなくて、
どんな時にも、喜んでいてくださる、ということ。
ちょっと最近、眠ることをちゃんと心から喜んでいませんでしたね。
神様が与えられた体、神様が与えられた時間、
喜んで、感謝して、歩ませていただきたいと思います。
さて、2月22日月曜日の聖書。
マタイ18:21-35
「7度を70倍にするまで」22節。
おお、2月22日に22節。
そんなことはどうでもいいですが、
イエスは「どこまでも赦しなさい」と言われたんですよね。
損だなあと思わないわけでもないですし、
反省しないじゃないか・・・と思わないわけでもないです。
そして、自分はどこまでも赦すことはできないなあと思います。
赦されたことを忘れているからでしょうか?
たぶん、自分のほうがましな人間だと思っているんでしょうね。
自分だったら、そんなことはしないと。
でも、結構やっているのかもしれない。
自分のことが見えていないのかもしれない。
自分がどれだけ主に赦されたのか、
それを忘れないでいたいです。
世の中の最悪のタイプの罪人だったのに、
赦されたことを、忘れないで感謝して歩んで行きたいと思います。
自分が傷付いたことさえ忘れてしまうほど、
主の素晴らしさを、主の愛を、主の恵みを、
味わいながら、歩んで行きたいと思います。
主よ、
あなたが赦して下さったことに感謝します。
人の事が見えなくなるくらい、
自分の傷に気がつかなくなるくらい、
あなたの愛に満たして下さい。
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