2006-06-20

主のために生きる

今日は昨日よりずっと過ごしやすい一日でした。
朝は20度くらいありましたが、
最高気温は31度。
そして雨がパラパラっと降って、
夕方からはぐっと湿度が下がったように感じました。
そして、今は22度まで下がっています。
明日の明け方はひんやりするでしょう。

明日の最高も30度を超えますが、
今日までに比べればカラッとしているでしょう。
予報が変わったのがこの週末。
蒸し暑いのではなくて、
涼しいくらいで雨が降る、梅雨みたいな空になりそうです。

この週末はプールはダメですね。

今朝キュウリ2本収穫。
このあとちょっとお休みで、
週末あたりから、本格的に穫れるかな。
サヤインゲンもこの週末あたりからどんどん穫れそうです。

今日の朝は教会での祈りの一時。
また一人での祈りの時となりました。
今回は皆さんのためにも祈ったのですが、
それよりも前に、「自分のために」祈ることの大切さを思わされました。
教会の牧師として自分が立てられている。
それは、自分がどう考えようと、
人がどう考えようと、
牧師の霊的なレベルが守られていないと、
支えられていないと、
それが教会全体に影響する、一人一人の霊的な状態に影響するのだ、と思わされたのです。
それで、主が私の心を守りささえて下さるようにと祈りました。
そして、教会の一人一人の今日の一日のために祈りました。

午後はお母さん達が集まっておられる集会。
「聞く」と言うことを学んでいます。
今日は「心の触れ合うような時を大切にする」という話。
表面的な人間関係、当たり障りのない会話。
それを超えて、深いところで触れ合うような関係は、
夫婦でも、友人との関係でも、
なかなか持てないねえ、という感じです。
受け入れることの大切さ、それができないジレンマ。
そんなことも語り合い、神様の助けを祈りました。
いい集まりです。

夜は個人的に学びをする方が来られて、
また幸いなときが持てました。
一人の人がイエスを救い主として受け入れて、歩み始められるのは、
本当に大きな喜びです。
感謝。

実は先週の水曜日も、
ある方がキリストと共に新しく歩み始められました。
そのときに共にそこにいることができたこと、とても、うれしい経験でした。
感謝。

明日はNJで面談日で、夜はNYで集会です。
すばらしい一日となりますように。

今日の聖書。
今日はローマ人への手紙9-16章を読みました。
その中で心に留った御言葉。
「私たちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」
14章8節の言葉です。

今日の朝、教会で祈るときに、テレビ番組で、金曜日の朝、フジテレビの日本語放送に続いて8時から放映されているハーベストタイムのニュースレターを読んでいました。
その中に紹介されていた、南米エクアドルで今から50年前に現地の人に殺された宣教師の話が心に残りました。
その宣教師たちは銃を持っていたのにそれを使わないことに決めていたそうです。
それは「私たちには天国に行く準備ができているが、彼らにはまだその準備ができていないから」という理由だったそうです。
考えてみればそうです。
自分の身を守ろうとして現地の人を撃ってしまったら、
自分はその人々に神の愛を語ろうとしているのに、
その人々が神の話を聞く前に殺してしまうことになる。
自分たちは殺されても、天国に行く準備はできている、だから、いい。
だから、殺されても、殺すことはすまい、
そう決めたのでしょう。
でも、自分だったらそう出来るだろうかと思いました。
自分を守るために、家族を守るために、襲ってくる人を殺すことはないだろうかと、
考えてしまいました。
でも、そうなんですね。何か、とても素直に納得してしまいました。
私たちは天国があるから、大丈夫なんですよね。

その話には続きがあって、殺された宣教師の家族が、その現地の人々を赦し、
神の愛を伝える働きを続けて、その人々にキリストを紹介し、彼らもクリスチャンになったそうです。

生きることも、死ぬことも主のため。
そのような歩みが自分にはできるだろうか?
させて頂きたい、と思いました。

主よ、
あなたの愛を感謝します。
でも、私はあなたの愛を表すことができるでしょうか?
私が生きていることはあなたの愛を表しているでしょうか?
私がこの世を去るときに、あなたの愛を表せるでしょうか?
どうか助けてください。
そのように生かしてください。
そのように用いてください。


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