2020-03-13

2020レント第3回「ペテロのための祈り」ルカによる福音書22:31-34

今年は「イエスの苦難の中での祈り」というテーマで学びの時を持っています。

 1回目と2回目の学びの中では、十字架に向かって歩まれるイエスが、父なる神との関係の中で、祈りの中で力を受けて歩まれた姿を読みました。「父なる神」「子なる神」「聖霊なる神」である三位一体の神は永遠の交わりの中におられるのですが、その「子なる神」がイエス・キリストとしてこの地上を歩まれた時に、「父なる神」「聖霊なる神」との交わりは、「祈り」という形で私たちの前に表されました。イエス様にとっては、その祈りこそがまさに命綱だったのです。
 日曜日の礼拝(http://jccofnj.org/202038-『神の子の特権』/)でお話をさせていただいたように、「神の子である」「父なる神との信頼関係の中に生きる」ということはイエスにとって、本質的なことでした。アイデンティティーに深く関わることでした。そして、イエスによって「神の子」とされた私たちも、同じように父なる神との交わりに招かれており、「三位一体の神」の交わりの中に招かれているのです。

 3回目の今回と、4回目の次回は、イエスの弟子たちのための祈りに焦点をあてます。

今日は特にペテロのための祈りです。

1)サタンの策略
 22節に「サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された」と書かれています。それは「麦を殻とをふるいにかけて分けるように、イエスと弟子たちとを別れさせる」ことでした。サタンの元々の策略はイエスを十字架にかからせないことでした。イエスの生涯の中で、何度「十字架なんてやめておけ」と語りかけてきたことでしょうか。しかし、それをことごとく退けて、十字架への道を歩み続けられたイエスの姿に、サタンは弟子たちを攻撃することにしたのです。
 たとえ、イエスが十字架にかかられようとも、弟子たちがイエスから引き離されるならば、弟子たちがつまずいて去っていってしまうならば、それを伝える人々がいなければ、イエスの十字架は無駄になってしまうだろうと思ったのでしょう。

2)イエスの祈り
 イエスはサタンが弟子たちをふるいにかけることを知られた時に、たとえそういう事があっても、彼らの信仰がなくならないようにと、父なる神に、執り成しの祈りをささげられたのです。イエスと弟子たちとが物理的に引き離されてしまっても、信仰がなくならないならば、大丈夫だと知っておられたのです。
 イエスは弟子たちとずっと一緒に歩んでこられました。ですから、弟子たちのことをどれほど愛しておられたであろうかと思います。それとともに、弟子たちの弱さや、愚かさもよくご存知だったことでしょう。そのイエスは、たとえ、自分と彼らが引き離されても、彼らがイエスを信頼し、神を信頼して歩んでいれば大丈夫だと、「信仰がなくならない」ことを祈り求められました。
 その祈りは、弟子たちへの励ましの言葉にも現れています。

「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネ14:1-3

「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。 もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。」(ヨハネ14:18-19

「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」(ヨハネ14:27

「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33

 今の私たちの置かれている状況も、本当に厳しいものです。共に集まって、礼拝を捧げ、祈り合い、励まし合うことができないことが、どれほど大きなことかと思わされます。しかし、今日も、主は私たちの信仰がなくならないように祈ってくださっています。

 また、反対に、教会に毎週行っているから、安心、ということは言えないこともわかります。大切なのは「信仰がなくならないこと」です。主への信頼の中で歩んでいるかどうかです。放蕩息子の兄息子がお父さんのそばにいたのに、そのお父さんの思いがわからず、お父さんに信頼を寄せることができなかったように、私たちが「神様に近くいる」生き方をしているように見えても、信仰がなくなっていることはないでしょうか?

 今も、私たちのために、私たちの信仰がなくならないように祈ってくだっている、とりなしてくださっている、イエスに感謝しましょう。



3)ペテロの応答
 ペテロは「イエス様、これからどんな事が起こるかわかりませんが、私のために祈ってくださってありがとうございます。これからも私がそのように生きることができるように祈ってください」と言うことができませんでした。彼は、そんなことはありえない、と思いました。そして、「イエス様、わたしは、獄までも、死に至るまでも、どこまでもあなた従っていきます。」と答えました。しかし、そんな彼にイエスは言われるのです。「ペテロよ、今日、鶏が鳴く前に、あなたは、私のことを3回知らないと言うだろう」と。

 このやり取りの中で浮かび上がってくるのが、ペテロの「わたしは大丈夫」という思いです。彼は自分の弱さを知らなかったのです。わかっていなかったのです。

 第1回目の学びの中で書いたとおり、イエスの十字架への歩みの始まりは、ペテロ自身の信仰告白です。「あなたこそ、生ける神の子キリストです」とペテロが信仰告白をしたところから、イエスはご自分が苦しみに遭われることを弟子たちに分かち合い始められました。

 それからのペテロの言葉を拾ってみます。

マタイ16:22-24
22この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。 22すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。23イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。

・・・ここでは、ペテロはイエスの言われたことをはっきり否定して、自分の考えを押し付けようとしています。

マタイ17:4-5
 4ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。 5彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。

・・・ここでは、ペテロはイエスに対して「もっとここにいましょう」と提案してますが、天からの声が、「あなたはイエスに聞くのだ」と命じられます。

マタイ18:21-22
21そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。 22イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。

・・・これは、普通は3回までと言われていた、赦しを、頑張って「7回まで」、と言ってみたのですが、イエスは「どこまでも赦すのだよ」と言われるのです。

マタイ19:27
27そのとき、ペテロがイエスに答えて言った、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。

・・・ここでは、自分がイエスのために「ここまでした」ということをアピールしています。

ヨハネ13:8
8ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。

・・・ここで、ペテロは、自分はイエスに足を洗ってもらうべき者ではなく、自分がイエスのためにすることのほうが大切だ、言いたかったのでしょう。

 ペテロはずっと、イエスのために何かをすることに一生懸命でした。それ自体が間違いではないでしょう。しかし、それと共に、それ以上に、それ以前に、彼は、イエスが自分のためにしてくださることに注目する必要があったのです。「わたしはあなたのために祈った」と言われた時に、自分が祈られなければならない存在であることを彼は知らなければならなかったのです。

 実際、ペテロはこのあとイエスのことを3回「知らない」と言ってしまう経験を通して、自分の弱さを徹底的に知らされます。それによって、神に用いられる存在となっていくのです。

 あなたはどうでしょうか?どうしようもなく「祈ってもらわなければならない存在」であることを知っているでしょうか?

 主は今日もあなたのために祈っていてくださいます。信仰がなくならいように祈っていてくださいます。感謝しましょう。そして、あなたのために愛と恵みを注いでくださる主に感謝して歩んでいきましょう。

2020-03-06

2020レント集会第2回「神の栄光を求める祈り」ヨハネによる福音書12:20-36


今年は「イエスの苦難の中での祈り」というテーマで学びの時を持っています。

先週は「変貌の山での祈り」を学びました。その中で、「ペテロの信仰告白を境にして、イエスは十字架への道を歩み始めた」と書きました。その時から、イエスはご自分が苦しみに遭われること、十字架にかけられること、そして、3日目によみがえることを弟子たちに話し始められましたのです。

<背景:弟子たちの無理解・人々の熱狂とイエスの思い>
しかし、その歩みは、孤独な歩みでした。イエスは十字架に向かって歩んでおられ、またそのことを弟子たちにもお話になって来られたのですが、弟子たちにはそのことが全くわかっていませんでした。最初にイエスがご自分の苦難を預言された時に、ペテロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」(マタイ16:22)と、イエスを諌め、イエスは「引き下がれ、サタン!」とその言葉にサタンの働きを見ています。また、イエスが3回目に受難預言をされたときにも、その直後に、ヤコブとヨハネのお母さんが自分の子どもたちに、イエスの王国の第2、第3の地位を与えてやってくれ、と懇願するのです。(マタイ20:20-28)

イエスはそんな孤独の中におられました。十字架への道を歩みながら、一番自分のことをわかってくれているはずの弟子たちに、全く理解されずに、一人で歩んでおられたのです。その歩みの中で、いつもイエスを支えていたのは父なる神との交わりでした。

そして、いよいよ受難週に入ります。イエスはエルサレムに入りました。人々は熱狂的にイエスを迎えました。罪人とともに歩み、当時の宗教的指導者たちの姿を批判していたイエスの働きに対して、怒りを覚えていた人々は、その人々の熱狂ぶりを前にこのように言っています。

「もしこのままにしておけば、みんなが彼を信じるようになるだろう。」(ヨハネ11:48)
「何をしてもむだだった。世をあげて彼のあとを追って行ったではないか。」(ヨハネ12:19)

そのような状況の中での出来事です。

1)イエスが栄光を表される時が来た
数人のギリシャ人たちがイエスに会いたい、と言ってきました。当時の世界の中で、ギリシャは文化・学問の中心でした。地方のガリラヤ出身の者たちがほとんどの弟子たちにとって、ギリシャの人々が自分たちの先生に会いたいと言ってくる事自体、色めき立つことでした。エルサレミの人々の熱狂を見て、またギリシャの人々から、声がかかって、いよいよ、先生の時代がやってくる、私たちの先生の働きが世界に認められるのだ、そんな思いだったことでしょう。彼らはワクワクしながら、イエスに言ったことでしょう。「ギリシャの人々が会いたいと言っていますよ」と。

それに対して、イエスは言われました。「人の子が栄光を受ける時がやってきた」と。

そこまでは、弟子たちも「そうだ!」と思ったことでしょう。しかし、イエスの言葉が続きます。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」

イエスにとって、栄光を受けるということは、一粒の麦として地に落ちる、ということだったのです。それによって、人々が救われる、ということだったのです。

私たちはイエスが注目されたこと、人々がイエスに従っていったこと、イエスがエルサレムの町に入る時に、人々が熱狂的に迎えたことを見て、神様はすごい!と思うかもしれません。しかし、その中で、イエス様の思いは違いました。イエス様は違うものを見ておられたのです。それは、自分が一粒の麦として地に落ちる時に豊かに実る麦の穂であり、私たちが救われて、喜びにあふれて歩む姿だったのです。

2)イエスの心のざわめき
ヨハネはその時、イエスの心が一瞬ざわめいたことをしるしています。27節には「今わたしは心が騒いでいる。わたしは何と言おうか。」と言われたことが記されています。これは、イエスが「ゲッセマネの祈り」の時にも、経験されたことでした。マルコは「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」(14:38)とイエスが弟子たちに言われたことを記しています。私たちの救いのために十字架にかかられるイエスにとって、私たちが救われる、ということは喜びであり、栄光であったのですが、それとともに、私たちの罪を背負って、罪の塊となって罪の呪いを身に受けること(ガラテヤ3:13)は、本当に大きな恐れでした。ですから、イエスは心が騒ぐのを経験されたのです。

イエスの十字架への道は、簡単な道ではありませんでした。イエスは最初からその使命を負ってこの世に来られたのですが、イエスに十字架を避けさせようとするサタンとの闘いでもあり、この罪を負うことの重さとの闘いでもありました。

その時に、イエスは「父よ、この時からわたしをお救い下さい。」と一瞬のうちに神に目を向けました。その時に、イエスは力を与えられて、このように祈られたのでした。「しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。 父よ、み名があがめられますように。」そして、それに対して、神は語りかけられました。「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」と。神ご自身「私は栄光を表す」と約束してくださったのです。そして、イエスはもう一度十字架の道へ目を真っ直ぐに向けました。

このイエスの祈りの姿は、また私たちが学ぶべきものです。日々の生活の中で、人々と語り合っているときも、問題にぶつかって困っているときも、一瞬、神様に目を向けて「主よ」と祈るのです。焦点がずれているかもしれません。チューニングがずれているかもしれません。そんな時に、「主よ、お助けください」と祈るのです。神は、私たちの焦点を、チューニングを直してくださり、行くべき道を示してくださるのです。

2020-02-28

2020レント集会第1回「変貌の山での祈り」ルカによる福音書9:28-36


今年は「イエスの苦難の中での祈り」というテーマで学びの時を持ちますが、まず、この聖書の箇所がどうしてイエスの苦しみと関係あるのか、と思われる方もおられるかもしれません。

ルカによる福音書は24章までありますが、ここはまだ9章です。また、「イエスの苦しみ」というと、「受難週」つまり、エルサレムで過ごされた最後の週、を思い浮かべる方もおられるでしょう。その最初の日、イエスがロバに乗ってエルサレムに入られたのは、ルカによる福音書では19章に出てきます。ですから、ここはまだまだ、そこまでいかないのでは、と思われるかもしれません。

しかし、イエスの生涯の中で、転換期になった出来事はじつは9章のこの記事の直前の出来事でした。イエスは弟子たちに「私のことを誰というか?」と尋ねられました。その時、ペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えたのです。その時から、イエスはご自分が苦しみに遭われること、十字架にかけられること、そして、3日目によみがえることを弟子たちに話し始められました(22節)。ですから、イエスの生涯は最初から十字架に向かって歩んでいたとも言えるのですが、明確に、このペテロの信仰告白を境にして、イエスは十字架への道を歩み始めたと言っていいと思います。

その直後に出てくるのがこの変貌の山の出来事です。

1)栄光に輝くイエスの祈りの姿
イエスがペテロ、ヨハネ、ヤコブの3人を連れて山に登られて祈っている時に、イエスの姿が変わって、真っ白に輝いていたというのです。これは、イエスの本来の姿、神の御子としての栄光の姿です。ペテロは、その第2の手紙11618節にこの時のことを書いています。

16わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。 17イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。 18わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。

イエスの姿は本来このような姿だったのです。しかし、イエスは人となられて、この地上を歩まれる時に、その栄光の姿を隠して、低くなってくださったのです。

そして、イエスは祈りを大切にしました。父なる神との交わりです。イエスご自身が神であられるのに、父なる神との交わりを大切にされたのはどうしてでしょうか?それは、それがイエスの喜びであり、力の源だったからです。三位一体の神は、永遠の交わりをもっておられる神です。父と子と聖霊は永遠の昔から、交わりをもっておられました。そして、それを喜んでおられました。子なる神が人となってくださったときにも、その交わりは続きました。この地上に来られたイエスにとって、この交わりがどれほど大切なものだっただろうかと思います。

その交わりに私たちは招かれています。

「それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。」(第一ヨハネ1:3

私たちも、イエスが父なる神とともに歩まれたように、三位一体の神の交わりの中に招き入れられているのです。「神との一対一の祈り」という言葉が使われることがあります。それは間違いではありません。しかし、私たちの祈りは、三位一体の神と共に過ごすひとときなのです。

2)イエスが語り合っていたこと。
その栄光に輝くイエスと共にいたのがモーセとエリヤでした。モーセは旧約聖書の中で、律法を神から受けて、民に与えた人です。そして、エリヤは預言者でした。旧約聖書の2つの大きな要素、「律法」と「預言書」、その代表としての2人がここで現れて、イエスと話をしていたことは、イエスの働きが旧約聖書と連続的につながっているのだということを表しています。イエスの働きは旧約聖書の否定ではなく、旧約聖書の成就であり、完成なのだということを表しているのです。
そして、その話をしている内容は「エルサレムで遂げようとしている最後」のことでした。これは原語を見ると、「エクソドン」・・・「でること」つまり聖書の文脈では「出エジプト」を意味する言葉が使われています。イエスが十字架にかかられることを新しい「出エジプト」として表し、それによって、私たちが罪から解放されるのだ、ということがここで表されています。

そして、祈りについて考えるならば、イエスがモーセやエリヤと語り合っていたことも祈りの一部でした。イエスは最初は一人で祈っていたのでしょう。そこにモーセとエリヤが現れて、イエスと語り合っていたのです。ここでモーセやエリヤは苦しみへの道を歩んでいくイエスと語り合い、神の前に共に出て、イエスのことを支えていたのではないでしょうか?私たちにも共に祈る仲間が与えられています。困難の中で、神は私達に共に祈る仲間を与えてくださっています。一人で祈ることも大切です。でも、イエスもモーセやエリヤと共に祈られました。私たちも周りの誰かに「私のために祈ってください」と出るべきです。

3)天からの声
輝くイエスの姿、またモーセとエリヤの姿を見て、ペテロは「ここに小屋を建てましょう」と言います。ずっとここにいたい、山を降りるのはもったいない、このままいましょう、というのです。それに対して、天から声がします。「これはわたしの子、わたしが選んだ者である。これに聞け。」自分からいろんな事を言いたいのが私たちです。でも、神は私たちに「イエスに聞け」と言われます。

祈りの中で、大切なことは聞くことです。神の語りかけを、聞くことです。神が心に触れてくださることを、聖霊様が触れてくださることを待ち望むことです。静まりましょう。今、心が乱れていないでしょうか?騒いでいないでしょうか?心を静めて、主を待ち望みましょう。

2017-03-02

レント(Lent)と一緒に春が来てしまった!?

今年は本当に暖かい冬で・・・と思っていましたが、
春一番に庭に咲くクロッカスの写真をいつ撮ったか、振り返ってみました。

2010年は3月17日。




2011年は3月16日。



2012年は3月8日。



2013年はなぜか花の写真がなく、3月20日に雪の中のつぼみ。



2014年、ぐっと花の数が減って、3月31日。



2015年、なんでかわからないけど、写真が見当たらない。
2016年、確か咲かなかった。栄養が足りなかったんでしょうね。

確か、2015年もかなり雪が多かったので、多分咲いても遅かったでしょうね。
去年はわからないけど。

そして、今年はこちら。20度Cくらいまで気温が上がった昨日、3月1日の開花でした。




何れにせよ、やっぱり今年は特別に早い!

春の訪れは早いですが、
イースターは、今年はとても遅くて、4月16日。
普通は春を待ち望む思いと、イースターを待ち望む思いが重なるのですが、
今年はレントに入るのと、春になるのが同じくらいの感じ。
お陰でレント(Lent)に入るのとクロッカスの開花が同じ日、という普通はありえない年となりました。

「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません。」
マタイ福音書16:22

レントの期間の始まりに、毎年のようにこの聖書の言葉に引き寄せられます。
今年も、毎週金曜日の夜に教会で持たれるレント集会の準備をしながら、この聖書の箇所に導かれました。
「イエスこそ神の子キリスト・救い主だ」との信仰を持つようになった弟子たちに対して、イエスがご自分のこれから出会う苦難について話を始められた時に、ペテロがイエスに対して諌めるように語った言葉です。
「あなたは救い主なんだから、そんな苦しみなんかに合うわけがない」「そんな弱気なことでは困ります。あなたは私たちの希望なんですから」というような思いだったのでしょうか。

人々のイエスに対する期待と、十字架に向かっていくイエスの思いのすれ違い。人々の無理解の中で、一人十字架に向かっていくイエス。

では、私はイエスに対して何を期待しているのだろうか、そんなことも思わされています。「勝利」って何?「救い」って何?「祈りが聞かれる」って何?

あ、天気の話に戻ると、でも、今夜からぐっと冷え込んで、明日、明後日と冬に逆戻りしそうです。土曜日は一日中氷点下の「真冬日」かも。

やっぱり春が待ち遠しいですね。

2017-02-08

この冬、初めての本格的な雪、の予報。

久しぶりのお天気ネタです。

明後日、木曜日は雪になりそうです。
前にも思ったのですが、TV Japanで、日本の天気予報は丁寧にやるのですが、
NY・NJの天気予報を日本語で見ることはできないなあ、ということで、ビデオを作ってみました。

明日、暖かくなるので、「ほんとに雪がふるんだろうか?」と思われる方もおられると思うのですが、はい、降ります。

はい、こちら。



2017-02-02

嵐の中でも


 アメリカに新しい大統領が就任して10日間。「まさかそこまで・・・」と思われていた選挙公約が次々と大統領令として打ち出されて、危機感を覚えています。また、あの大統領選挙の後、あちらこちらの宗教団体に対する脅迫や嫌がらせが頻発していることに心を痛めています。日系のコミュニティーだから、キリスト教会だから、自分たちは直接影響を受けないから良かったとか、彼らの問題だ、と無関心でいてはならないと思います。聖書に聞きつつ、祈りつつ、ここに生きるものとして、なすべきことを見極めていこうと思っています。
 その一方で、社会がどのように変わっても、どのような時代がやってきたとしても立っていく土台を持つことの大切さを思わされます。振り回されない強さを持ちたいと思います。聖書が書かれた時代、権力者は横暴で、政治は信頼できず、権力者と民衆の両方からの迫害が厳しかったのです。その中で、どんな厳しい状況の中でも、堅く立っていくことのできる土台を聖書は示しました。私たちもこれからどんな時代がやってくるか想像もできませんが、どんな嵐が待っていようとも大丈夫、という土台をもって歩まなければ、そう思わされています。

「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。」マタイ7:24-25

2017-01-24

「わが神、わが神、どうして」

先日、「沈黙」について感じたことを分かち合ってから、いろんなことを思わされてきた。一番感じているのは、「わたしはあのヨブの友人たちのようなこと言っていないか」ということ。ヨブは旧約聖書の中に出てくる、正しい人でありながら、苦しみの中を通る人です。彼は最初は「神が与え、神が取られるのだ、神は素晴らしい方だ!」と賛美をしているのですが、悲しみ、痛みの中で、「わたしは何も悪いことをしていないのに、どうしてこんなに苦しまなければならないのだろう」という思いが溢れてきます。その中で、友人たちは最初は黙って、彼に寄り添おうとするのですが、彼の余りの言葉に、因果応報の考えにとらわれていた友人たちは「神は何も悪くない、あなたがなにか悪いことをしたのじゃないか?」とヨブを責め始めるのです。

今痛みや悲しみの中にいて「どうして神は沈黙をしているのか?」と叫ばないでいられない人々に対して、わたしの書いたようなことはやかましい建前論になってしまっているのではないか。ヨブの友人たちのような間違ったことは言っていなかったとしても、単なる知的な議論が人を救えないことは何度も経験してきている。


そんな中で、私達の教会のウェブページに出てくる「証し」の一つをもう一度読む機会があった。


「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになるのですか」という言葉。イエスはこの言葉を十字架の上で叫ばれた。新約聖書の中の福音書にはイエスは自分が十字架にかけられ、その後、三日目に復活することを知っていて、預言している言葉がある。イエスは自分の使命を知っていた。十字架で苦しむけれども、三日目によみがえることも知っていた。でも、それでも、イエスは「わが神、わが神、どうして・・・」と祈られたのだ。復活があるからOKではなく、「大丈夫、復活するんだから」というのでもなく、復活があっても、「どうして・・・」と叫ばれたのだ。

私たちもそのように叫ばないではいられないことがある。復活がある。神の勝利がある。それを信じている。それでも、私たちの歩みの中には「どうして・・・」と叫ばないで入られないことがある。つぶやかないで入られないことがある。それを人は不信仰というかも知れない。しかし、イエスはそれをわかってくださるのだ。共に行ってくださるのだ。いや、先に行ってくださっていたのだ。そのイエスと共に歩むのが、私たちの人生なのではないか、今日はそんなことを思わされている。

2017-01-19

「沈黙(Silence)」について。

最近、あちらこちらで話に出る「Silence」が近所の映画館でやっていたので見てきた。
責任のある立場にある者として、やはり思わされていることを分かち合ったほうがいいと思うので、8ヶ月ぶりにこのテーマについて更新。


 火曜日に「沈黙」を見た。そして、それを挟んで原作も読んだ。久しぶりに遠藤周作の本を読んだ。「沈黙」も何年ぶりだろうか?映画の方はそれほど心には響かなかった。この監督は遠藤周作が言おうと思ったことをわかっているのだろうかと思った。いや、わかっているからこそ、「これを日本の牧師たちにささげる」と出てくるのか?しかし、もし、わかっていたとしても、それは彼がこの作品をささげた日本の牧師の一人である私の心には届かなかった。ロドリゴの苦悩の描き方が納得行かなかったのだろうと思う。フェレイラの苦悩も。2時間40分という時間の限界なのかもしれない。
 その一方で、久しぶりに読んだ原作にはやはり心に響くものがあった。ロドリゴの心の揺れについての記述が、自分の心を見透かされているかのようだ。弱い者を見下すところ、自分は大丈夫だと思うところ、「自分は苦しむのはかまわないけれども、人々が苦しむのは耐えられない」と思いながら、実は「自分を派遣した本部はどう思うか」「宣教史の汚点になるのではないか」ということを考えているところ・・・。強く見えるロドリゴ、自分が強いと思っているロドリゴ、しかし、彼もやはり、自分が軽蔑しているキチジローと同じ弱い存在だということが見えてくる。「私はこの取税人のような罪人ではないことを感謝します」と祈っているパリサイ人の隣で「私はこのパリサイ人のような偽善者ではないことを感謝します」と祈っている自分を見るようだ。「私は遠藤周作のような半端なクリスチャンではないことを感謝します」と祈っているようだ。そして、ロドリゴが踏み絵を踏むときに、その踏み絵のイエスが「私はあなたの足の痛みがわかるから」と語りかける場面は、何度読んでわかっていても心に触れるものがある。それこそ、西洋のイエスと違う、日本のイエスだという、遠藤周作の主張にはある程度共感できる。というよりも、「西洋の切支丹の教え」が「デウスにすがるだけのものではなく、信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わなければならぬ」というものであることが問題なのだと思う。それは遠藤周作が感じた欧米のキリスト教であって、本当はそうではない、ということもできるかもしれない。しかし、私も、あのアメリカに来たばかりのとき、イエスが飼い葉桶の中に生まれたクリスマスの劇の最後に「勝利のキリスト」が出てきて、本当に戸惑ったことがある。神学校の授業で「日本に福音を伝えるためには、日本の文化をまず、キリスト教を受け入れやすいものに変えていかなければいけない」と言い放った自称「福音派」の学生もいた。そんな経験を思い出しながら読んでいると、この遠藤周作の描くイエス像、罪人の私達、弱い私たちを受け入れ、赦し、共に歩まれるイエスの姿は、本当に大きな慰めだ。「神は沈黙しておられる」と思っているときにも、実はいつも一緒におられる、私たちの苦しみをご存じで、まさにその苦しみの只中におられる、というメッセージは私たちに勇気を与えてくれる。私たちは、どこまでも私たちの痛みや弱さを知っていてくださるイエスに、もっと深く思いを巡らせるべきなのではないか思う。
 しかし、彼が描くイエス像に全く同意できるかというと決してそうではない。
 自分は今から30年以上前、大学生の頃、「悲しみの歌」に描かれている人々の姿に心震われた。ちょうど、正義感だけでは生きていけないことを思い知らされていた頃。そして、悲しい歩みをしている私たちを愛し受け入れてくださる遠藤周作が描くイエス像に魅力を感じて、彼の書いたものを読み漁った。しかし、あるときにやはり限界を感じて、パタリと読むのを止めてしまった。聖書が書いているイエスと遠藤周作が書いているイエスはやはり違うのだと。彼が描くイエスは私たちと一緒に泣き、痛みをわかってくださるが、それ以上何もできない、一緒にいてくださる存在でしかなかった。しかし、聖書のイエスはそこでは終わらない。イエスは復活して、今も生きておられるのだ。私たちに聖霊によって力を与え、立ち上がらせてくださるのだ。イエスを裏切ったペテロをイエスのために命を捨てる人へと造り替えたのだ。その復活理解が「イエスは弟子たちの心の中に復活した」という遠藤周作と私はぜんぜん違う。超越者でありながら、私たちとともにいてくださる神、その神を私は信じている。永遠の神であり、私たちのためにこの世界に飛び込んできて下さり、私たちの罪を背負い、しかし、死に打ち勝ち、今も生きておられるイエスを信じている。
 自分が同じようなところに置かれたらどうだろうか?そういうことも思わされる。最後の晩餐のとき「私はどこまでも着いていきます」と言い張りながら、いざという時にイエスを3度知らないと言ったペテロのように、自分の弱さを忘れないでいたいと思う。弱さをわかって受け入れてくださる主に感謝しようと思う。しかし、それとともに、私を超えた神の力を忘れないでいたいと思う。自分は弱い、しかし、神は必要な力を必要な時に与えてくださるのだ。
「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」ローマ8:38-39
 死の恐れを感じていた幼い日のコーリー・テン・ブーンに父親が言った言葉を思い出す。

「お父さんが、列車に乗る直前にお前に切符を渡すように、神さまは必要なときに勇気と平安を与えてくださるんだよ。だから、その時までは、今から起こっていないことについて、何も恐れる必要はないんだよ」

2016-05-09

神による勇気。

先週一週間はずっと肌寒い雨。
本当に土曜日の夕方まで、太陽を見ませんでした。
そして、昨日は眩しいほどの青空。

日曜日だったので、写真撮る余裕もありませんでしたが・・・。

今週は木曜日までは大丈夫みたいです。

先週末、私の人生に本当に大きな意味を持った一言を言ってくださった方が、天に召されていきました。

多分、その方ご本人は、ご自分の言葉が、その若者にどれほど大きなインパクトがあったのか、ご存じなかったのでは、と思います。直接、そのお話をさせていただいたことはないのでは・・・と思います。

もう何年も前にシリーズで書いたのですが、その時の原稿を、ちょっと長いですが、心からの感謝を込めて、まとめてここに紹介。

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20歳になりました。
いろいろ悩みながらではありましたが、
まあ、真面目に神様を信じて生きていました。

そしていつの間にか、自分の信仰の姿勢に誇りを持つようになっていました。
それが「傲慢」になっていったのです。

聖書も(ほぼ)毎日読んでいました。
お祈りもしていました。
教会も休みませんでした。
友達も誘いました。
献金も思いっきりささげていました。

そんな自分のクリスチャンとしての歩みが自慢でした。
そして、そうできない友人を見下げていました。

高校時代は桶に入っていた、ん?オケに入っていたのですが、
合宿とかが日曜日に重なると悩んでいましたねえ。
オケと合唱で合わせて音楽部(オペラとかやっていましたからねえ)だったのですが、
一回は合宿に行って、日曜日にその場で、人を集めて「日曜礼拝」までやっていましたねえ。
結構集まりましたよ。60人くらいのうち、20人か30人か・・・。

また大学受験の時は
意地でも日曜日にある模擬試験は受けませんでした。
今考えるとなんて嫌なヤツなんだろうと思うのですが、
日曜日に模擬試験に行っていた教会の友人には、
「そこまでして大学行きたいか?」とか毒づいていました。

20歳になった夏、そんな自分の傲慢な気持ちが打ち砕かれるときがやってきました。

私にとっての大きなターニングポイントです。

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それで、20歳の時。
夏でした。
私は時々伊豆大島にあるホーリネス教団のキャンプ場に
ワーカーとして奉仕に行っていました。
大島泉の家
私はここで育てられました。
船に乗っていかなければ行けないというところがまたいいんですよね。
一度行ったらもう終わるまで帰れないし、
他に周りに何もない、真っ暗なところ、
停電したときなんかなーんにも見えませんでした。
それから星がきれい、
海がきれい、
クワガタがたくさんいる・・・

まあいろいろあったのですが、
何よりも良かったのは、そこで持たれたキャンプが、毎回毎回良かった。
教会の規模は今のJCCNJと同じくらいなんですが、
中高生はうちの兄弟とちょこちょこ・・・。
で、このキャンプ場に来て、50人とか、100人とかの仲間の中に入って、
中高生向けのメッセージを聞いて、
共に歌って、共に祈って、
悔い改めに導かれたり、
友達のために祈ったり、
新しくされて帰ってきたものでした。

行き帰りの船の中では前の方に集まって、
みんなで賛美をしました。

そのキャンプ場で大学生になってからは
時々ワーカーをしていたわけです。

ワーカーをしているときには、
一生懸命陰の奉仕をします。
朝は5時半とか5時とかから朝ご飯の準備、
みんなが海に遊びに行っているときにはキャンプファイアーの準備とか、
夕食の準備とか、
汗だくになりながら、泥だらけになりながら、奉仕をしていました。

そんな陰の奉仕に気がついて、
声をかけて下さる方々もおられました。
「君のような人がいるからキャンプができるんだよ、ありがとう」

そして、キャンプが終わって家に帰ったとき、
自分が一人でいるときに、キャンプの裏方で奉仕をしていたときの自分と
まるで違う、心の中に醜いものがたくさん渦巻いている自分に気がついたのです。


その時、私は自分が「偽善者」だということに気がついてしまったのです・・・

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自分が偽善者だと気がついたとき、
ほんとうに落ち込みました。
自分をののしり、「おまえは偽善者だ!」と日記に書き殴りました。

子供の時から聖書を読んでいる中で、
こういうタイプの人間にはなりたくないと思っている種類の人々がいました。
それは「律法学者」であり、「パリサイ人」でした。
規則を細かく守りながら、
でも心の中は醜いものでいっぱい、
傲慢で、人を見下げている人々。
イエスも「おまえ達は白く塗った墓だ」と彼らを厳しく非難しました。

「ほんとうに嫌な連中だ!」と私は聖書を読むたびに思っていました。
でも、気がついたら自分がその偽善者になっていた。

すべてがバカらしくなりました。
聖書を読むことも、
お祈りをすることも、
奉仕をすること、
教会に行くこと、
伝道をすること
すべてがバカらしくなりました。
子供の頃から一生懸命やってきて、
それで自分が一番なりたくないような種類の人間になっていたわけですから。

そして、最後は生きていることさえもバカらしくなりました。
この後どうして生きていったらいいか?
「人間なんてみんな偽善者だ」と割り切って生きていくか、
このまま偽善を通して生きるか?

いろんな人に相談しました。
あまり相手にして頂けませんでした。
「若いっていいね」「そんなこと気にしていてはダメだよ」「君は立派だよ」

最後の期待を持って、
あの大島のキャンプ場で、自分の父親くらいの先生に話しました。
先生は私の話をしっかり聞いてくださいました。
そして、言われました。「君はほんとうに傲慢な人間だね」

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「君はほんとうに傲慢な人間だね」と言われて、
どういう意味か分りませんでした。
自分のような、自分の愚かさ、醜さ、偽善性に落ち込んでいる人間は
「傲慢」なんかじゃない、砕かれているんだ、
と思いました。

でも、そんな気持ちを知っておられたのかどうか分りませんが、
先生は続けました。
「君はまだ自分に期待しているのかね。君はもう、あのキリストの十字架に共につけられているんだよ」と。

その時に、私は初めて分りました。
自分が一生懸命がんばっても、
せいぜい偽善者止まり。
外側を繕うことくらいしかできないからこそ、
そんな人間だからこそ、
イエスは十字架にかからなければならなかった。

自分でがんばって立派な人間になれるなら、
イエスは十字架にかからなくてもよかった。

自分がそんな立派な人間ではないから、
イエスは自分を投げ出されたのだ。

そして、その時に、子供の頃から耳にたこができるくらい何度も何度も聞いていた、
「神の愛」「十字架の愛」が自分に注がれていることが頭ではなく心で分りました。
こんな偽善者にしかなれないような人間のために、
命を投げ出して下さった方がいる。
そこまでして下さった方がいた。
その事実に、ほんとうに愛されている喜びを感じました。

大げさではなくて、
今もその愛が自分を生かしている。自分を動かしている。
そう感じます。

それまでは、人がどう思うかが私を動かしていました。
人の期待に応えるのが自分にとって一番大切なことでした。
こう期待されているから、こうしたい、(逆に、したくない、と意固地になったこともありました)
そのように生きてきました。
でも、この時からは、「ありがたい」「私には何ができるだろうか」という思いが、
私を動かすようになりました。


ここから、「伝道」が楽しくなりました。

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証しはここまで。

今、自分がその時のその方の年齢に近づいてきています。
私が、今、20歳の若者に、同じような相談を受けたら、「君は本当に傲慢だね」なんて、そんなこと言えるだろうか?それが言えるほどの、神様との生きた関係に生きているだろうかと思わされています。

心からの感謝を込めて。