2017-02-08

この冬、初めての本格的な雪、の予報。

久しぶりのお天気ネタです。

明後日、木曜日は雪になりそうです。
前にも思ったのですが、TV Japanで、日本の天気予報は丁寧にやるのですが、
NY・NJの天気予報を日本語で見ることはできないなあ、ということで、ビデオを作ってみました。

明日、暖かくなるので、「ほんとに雪がふるんだろうか?」と思われる方もおられると思うのですが、はい、降ります。

はい、こちら。



2017-02-02

嵐の中でも


 アメリカに新しい大統領が就任して10日間。「まさかそこまで・・・」と思われていた選挙公約が次々と大統領令として打ち出されて、危機感を覚えています。また、あの大統領選挙の後、あちらこちらの宗教団体に対する脅迫や嫌がらせが頻発していることに心を痛めています。日系のコミュニティーだから、キリスト教会だから、自分たちは直接影響を受けないから良かったとか、彼らの問題だ、と無関心でいてはならないと思います。聖書に聞きつつ、祈りつつ、ここに生きるものとして、なすべきことを見極めていこうと思っています。
 その一方で、社会がどのように変わっても、どのような時代がやってきたとしても立っていく土台を持つことの大切さを思わされます。振り回されない強さを持ちたいと思います。聖書が書かれた時代、権力者は横暴で、政治は信頼できず、権力者と民衆の両方からの迫害が厳しかったのです。その中で、どんな厳しい状況の中でも、堅く立っていくことのできる土台を聖書は示しました。私たちもこれからどんな時代がやってくるか想像もできませんが、どんな嵐が待っていようとも大丈夫、という土台をもって歩まなければ、そう思わされています。

「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。」マタイ7:24-25

2017-01-24

「わが神、わが神、どうして」

先日、「沈黙」について感じたことを分かち合ってから、いろんなことを思わされてきた。一番感じているのは、「わたしはあのヨブの友人たちのようなこと言っていないか」ということ。ヨブは旧約聖書の中に出てくる、正しい人でありながら、苦しみの中を通る人です。彼は最初は「神が与え、神が取られるのだ、神は素晴らしい方だ!」と賛美をしているのですが、悲しみ、痛みの中で、「わたしは何も悪いことをしていないのに、どうしてこんなに苦しまなければならないのだろう」という思いが溢れてきます。その中で、友人たちは最初は黙って、彼に寄り添おうとするのですが、彼の余りの言葉に、因果応報の考えにとらわれていた友人たちは「神は何も悪くない、あなたがなにか悪いことをしたのじゃないか?」とヨブを責め始めるのです。

今痛みや悲しみの中にいて「どうして神は沈黙をしているのか?」と叫ばないでいられない人々に対して、わたしの書いたようなことはやかましい建前論になってしまっているのではないか。ヨブの友人たちのような間違ったことは言っていなかったとしても、単なる知的な議論が人を救えないことは何度も経験してきている。


そんな中で、私達の教会のウェブページに出てくる「証し」の一つをもう一度読む機会があった。


「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになるのですか」という言葉。イエスはこの言葉を十字架の上で叫ばれた。新約聖書の中の福音書にはイエスは自分が十字架にかけられ、その後、三日目に復活することを知っていて、預言している言葉がある。イエスは自分の使命を知っていた。十字架で苦しむけれども、三日目によみがえることも知っていた。でも、それでも、イエスは「わが神、わが神、どうして・・・」と祈られたのだ。復活があるからOKではなく、「大丈夫、復活するんだから」というのでもなく、復活があっても、「どうして・・・」と叫ばれたのだ。

私たちもそのように叫ばないではいられないことがある。復活がある。神の勝利がある。それを信じている。それでも、私たちの歩みの中には「どうして・・・」と叫ばないで入られないことがある。つぶやかないで入られないことがある。それを人は不信仰というかも知れない。しかし、イエスはそれをわかってくださるのだ。共に行ってくださるのだ。いや、先に行ってくださっていたのだ。そのイエスと共に歩むのが、私たちの人生なのではないか、今日はそんなことを思わされている。

2017-01-19

「沈黙(Silence)」について。

最近、あちらこちらで話に出る「Silence」が近所の映画館でやっていたので見てきた。
責任のある立場にある者として、やはり思わされていることを分かち合ったほうがいいと思うので、8ヶ月ぶりにこのテーマについて更新。


 火曜日に「沈黙」を見た。そして、それを挟んで原作も読んだ。久しぶりに遠藤周作の本を読んだ。「沈黙」も何年ぶりだろうか?映画の方はそれほど心には響かなかった。この監督は遠藤周作が言おうと思ったことをわかっているのだろうかと思った。いや、わかっているからこそ、「これを日本の牧師たちにささげる」と出てくるのか?しかし、もし、わかっていたとしても、それは彼がこの作品をささげた日本の牧師の一人である私の心には届かなかった。ロドリゴの苦悩の描き方が納得行かなかったのだろうと思う。フェレイラの苦悩も。2時間40分という時間の限界なのかもしれない。
 その一方で、久しぶりに読んだ原作にはやはり心に響くものがあった。ロドリゴの心の揺れについての記述が、自分の心を見透かされているかのようだ。弱い者を見下すところ、自分は大丈夫だと思うところ、「自分は苦しむのはかまわないけれども、人々が苦しむのは耐えられない」と思いながら、実は「自分を派遣した本部はどう思うか」「宣教史の汚点になるのではないか」ということを考えているところ・・・。強く見えるロドリゴ、自分が強いと思っているロドリゴ、しかし、彼もやはり、自分が軽蔑しているキチジローと同じ弱い存在だということが見えてくる。「私はこの取税人のような罪人ではないことを感謝します」と祈っているパリサイ人の隣で「私はこのパリサイ人のような偽善者ではないことを感謝します」と祈っている自分を見るようだ。「私は遠藤周作のような半端なクリスチャンではないことを感謝します」と祈っているようだ。そして、ロドリゴが踏み絵を踏むときに、その踏み絵のイエスが「私はあなたの足の痛みがわかるから」と語りかける場面は、何度読んでわかっていても心に触れるものがある。それこそ、西洋のイエスと違う、日本のイエスだという、遠藤周作の主張にはある程度共感できる。というよりも、「西洋の切支丹の教え」が「デウスにすがるだけのものではなく、信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わなければならぬ」というものであることが問題なのだと思う。それは遠藤周作が感じた欧米のキリスト教であって、本当はそうではない、ということもできるかもしれない。しかし、私も、あのアメリカに来たばかりのとき、イエスが飼い葉桶の中に生まれたクリスマスの劇の最後に「勝利のキリスト」が出てきて、本当に戸惑ったことがある。神学校の授業で「日本に福音を伝えるためには、日本の文化をまず、キリスト教を受け入れやすいものに変えていかなければいけない」と言い放った自称「福音派」の学生もいた。そんな経験を思い出しながら読んでいると、この遠藤周作の描くイエス像、罪人の私達、弱い私たちを受け入れ、赦し、共に歩まれるイエスの姿は、本当に大きな慰めだ。「神は沈黙しておられる」と思っているときにも、実はいつも一緒におられる、私たちの苦しみをご存じで、まさにその苦しみの只中におられる、というメッセージは私たちに勇気を与えてくれる。私たちは、どこまでも私たちの痛みや弱さを知っていてくださるイエスに、もっと深く思いを巡らせるべきなのではないか思う。
 しかし、彼が描くイエス像に全く同意できるかというと決してそうではない。
 自分は今から30年以上前、大学生の頃、「悲しみの歌」に描かれている人々の姿に心震われた。ちょうど、正義感だけでは生きていけないことを思い知らされていた頃。そして、悲しい歩みをしている私たちを愛し受け入れてくださる遠藤周作が描くイエス像に魅力を感じて、彼の書いたものを読み漁った。しかし、あるときにやはり限界を感じて、パタリと読むのを止めてしまった。聖書が書いているイエスと遠藤周作が書いているイエスはやはり違うのだと。彼が描くイエスは私たちと一緒に泣き、痛みをわかってくださるが、それ以上何もできない、一緒にいてくださる存在でしかなかった。しかし、聖書のイエスはそこでは終わらない。イエスは復活して、今も生きておられるのだ。私たちに聖霊によって力を与え、立ち上がらせてくださるのだ。イエスを裏切ったペテロをイエスのために命を捨てる人へと造り替えたのだ。その復活理解が「イエスは弟子たちの心の中に復活した」という遠藤周作と私はぜんぜん違う。超越者でありながら、私たちとともにいてくださる神、その神を私は信じている。永遠の神であり、私たちのためにこの世界に飛び込んできて下さり、私たちの罪を背負い、しかし、死に打ち勝ち、今も生きておられるイエスを信じている。
 自分が同じようなところに置かれたらどうだろうか?そういうことも思わされる。最後の晩餐のとき「私はどこまでも着いていきます」と言い張りながら、いざという時にイエスを3度知らないと言ったペテロのように、自分の弱さを忘れないでいたいと思う。弱さをわかって受け入れてくださる主に感謝しようと思う。しかし、それとともに、私を超えた神の力を忘れないでいたいと思う。自分は弱い、しかし、神は必要な力を必要な時に与えてくださるのだ。
「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」ローマ8:38-39
 死の恐れを感じていた幼い日のコーリー・テン・ブーンに父親が言った言葉を思い出す。

「お父さんが、列車に乗る直前にお前に切符を渡すように、神さまは必要なときに勇気と平安を与えてくださるんだよ。だから、その時までは、今から起こっていないことについて、何も恐れる必要はないんだよ」

2016-05-09

神による勇気。

先週一週間はずっと肌寒い雨。
本当に土曜日の夕方まで、太陽を見ませんでした。
そして、昨日は眩しいほどの青空。

日曜日だったので、写真撮る余裕もありませんでしたが・・・。

今週は木曜日までは大丈夫みたいです。

先週末、私の人生に本当に大きな意味を持った一言を言ってくださった方が、天に召されていきました。

多分、その方ご本人は、ご自分の言葉が、その若者にどれほど大きなインパクトがあったのか、ご存じなかったのでは、と思います。直接、そのお話をさせていただいたことはないのでは・・・と思います。

もう何年も前にシリーズで書いたのですが、その時の原稿を、ちょっと長いですが、心からの感謝を込めて、まとめてここに紹介。

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20歳になりました。
いろいろ悩みながらではありましたが、
まあ、真面目に神様を信じて生きていました。

そしていつの間にか、自分の信仰の姿勢に誇りを持つようになっていました。
それが「傲慢」になっていったのです。

聖書も(ほぼ)毎日読んでいました。
お祈りもしていました。
教会も休みませんでした。
友達も誘いました。
献金も思いっきりささげていました。

そんな自分のクリスチャンとしての歩みが自慢でした。
そして、そうできない友人を見下げていました。

高校時代は桶に入っていた、ん?オケに入っていたのですが、
合宿とかが日曜日に重なると悩んでいましたねえ。
オケと合唱で合わせて音楽部(オペラとかやっていましたからねえ)だったのですが、
一回は合宿に行って、日曜日にその場で、人を集めて「日曜礼拝」までやっていましたねえ。
結構集まりましたよ。60人くらいのうち、20人か30人か・・・。

また大学受験の時は
意地でも日曜日にある模擬試験は受けませんでした。
今考えるとなんて嫌なヤツなんだろうと思うのですが、
日曜日に模擬試験に行っていた教会の友人には、
「そこまでして大学行きたいか?」とか毒づいていました。

20歳になった夏、そんな自分の傲慢な気持ちが打ち砕かれるときがやってきました。

私にとっての大きなターニングポイントです。

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それで、20歳の時。
夏でした。
私は時々伊豆大島にあるホーリネス教団のキャンプ場に
ワーカーとして奉仕に行っていました。
大島泉の家
私はここで育てられました。
船に乗っていかなければ行けないというところがまたいいんですよね。
一度行ったらもう終わるまで帰れないし、
他に周りに何もない、真っ暗なところ、
停電したときなんかなーんにも見えませんでした。
それから星がきれい、
海がきれい、
クワガタがたくさんいる・・・

まあいろいろあったのですが、
何よりも良かったのは、そこで持たれたキャンプが、毎回毎回良かった。
教会の規模は今のJCCNJと同じくらいなんですが、
中高生はうちの兄弟とちょこちょこ・・・。
で、このキャンプ場に来て、50人とか、100人とかの仲間の中に入って、
中高生向けのメッセージを聞いて、
共に歌って、共に祈って、
悔い改めに導かれたり、
友達のために祈ったり、
新しくされて帰ってきたものでした。

行き帰りの船の中では前の方に集まって、
みんなで賛美をしました。

そのキャンプ場で大学生になってからは
時々ワーカーをしていたわけです。

ワーカーをしているときには、
一生懸命陰の奉仕をします。
朝は5時半とか5時とかから朝ご飯の準備、
みんなが海に遊びに行っているときにはキャンプファイアーの準備とか、
夕食の準備とか、
汗だくになりながら、泥だらけになりながら、奉仕をしていました。

そんな陰の奉仕に気がついて、
声をかけて下さる方々もおられました。
「君のような人がいるからキャンプができるんだよ、ありがとう」

そして、キャンプが終わって家に帰ったとき、
自分が一人でいるときに、キャンプの裏方で奉仕をしていたときの自分と
まるで違う、心の中に醜いものがたくさん渦巻いている自分に気がついたのです。


その時、私は自分が「偽善者」だということに気がついてしまったのです・・・

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自分が偽善者だと気がついたとき、
ほんとうに落ち込みました。
自分をののしり、「おまえは偽善者だ!」と日記に書き殴りました。

子供の時から聖書を読んでいる中で、
こういうタイプの人間にはなりたくないと思っている種類の人々がいました。
それは「律法学者」であり、「パリサイ人」でした。
規則を細かく守りながら、
でも心の中は醜いものでいっぱい、
傲慢で、人を見下げている人々。
イエスも「おまえ達は白く塗った墓だ」と彼らを厳しく非難しました。

「ほんとうに嫌な連中だ!」と私は聖書を読むたびに思っていました。
でも、気がついたら自分がその偽善者になっていた。

すべてがバカらしくなりました。
聖書を読むことも、
お祈りをすることも、
奉仕をすること、
教会に行くこと、
伝道をすること
すべてがバカらしくなりました。
子供の頃から一生懸命やってきて、
それで自分が一番なりたくないような種類の人間になっていたわけですから。

そして、最後は生きていることさえもバカらしくなりました。
この後どうして生きていったらいいか?
「人間なんてみんな偽善者だ」と割り切って生きていくか、
このまま偽善を通して生きるか?

いろんな人に相談しました。
あまり相手にして頂けませんでした。
「若いっていいね」「そんなこと気にしていてはダメだよ」「君は立派だよ」

最後の期待を持って、
あの大島のキャンプ場で、自分の父親くらいの先生に話しました。
先生は私の話をしっかり聞いてくださいました。
そして、言われました。「君はほんとうに傲慢な人間だね」

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「君はほんとうに傲慢な人間だね」と言われて、
どういう意味か分りませんでした。
自分のような、自分の愚かさ、醜さ、偽善性に落ち込んでいる人間は
「傲慢」なんかじゃない、砕かれているんだ、
と思いました。

でも、そんな気持ちを知っておられたのかどうか分りませんが、
先生は続けました。
「君はまだ自分に期待しているのかね。君はもう、あのキリストの十字架に共につけられているんだよ」と。

その時に、私は初めて分りました。
自分が一生懸命がんばっても、
せいぜい偽善者止まり。
外側を繕うことくらいしかできないからこそ、
そんな人間だからこそ、
イエスは十字架にかからなければならなかった。

自分でがんばって立派な人間になれるなら、
イエスは十字架にかからなくてもよかった。

自分がそんな立派な人間ではないから、
イエスは自分を投げ出されたのだ。

そして、その時に、子供の頃から耳にたこができるくらい何度も何度も聞いていた、
「神の愛」「十字架の愛」が自分に注がれていることが頭ではなく心で分りました。
こんな偽善者にしかなれないような人間のために、
命を投げ出して下さった方がいる。
そこまでして下さった方がいた。
その事実に、ほんとうに愛されている喜びを感じました。

大げさではなくて、
今もその愛が自分を生かしている。自分を動かしている。
そう感じます。

それまでは、人がどう思うかが私を動かしていました。
人の期待に応えるのが自分にとって一番大切なことでした。
こう期待されているから、こうしたい、(逆に、したくない、と意固地になったこともありました)
そのように生きてきました。
でも、この時からは、「ありがたい」「私には何ができるだろうか」という思いが、
私を動かすようになりました。


ここから、「伝道」が楽しくなりました。

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証しはここまで。

今、自分がその時のその方の年齢に近づいてきています。
私が、今、20歳の若者に、同じような相談を受けたら、「君は本当に傲慢だね」なんて、そんなこと言えるだろうか?それが言えるほどの、神様との生きた関係に生きているだろうかと思わされています。

心からの感謝を込めて。


2016-04-26

神の大きさ。

昨日ひさしぶりにアップするまで、しばらく更新していませんでしたが、
その間にあったこといくつか、ご紹介。


3月の初めに、NJの南の方の海岸での祈りのリトリートに行ってきました。
ただ、ただ、祈り、讃美歌を歌い、聖書を開き、を繰り返す3日間。

2日目の朝、大西洋に面する海岸に行ってきました。
少しずつ明るくなる空。

水平線の上に浮かんでいる雲の中から、高いところにある雲から明るくなっていきます。


そして、しばらく経つと、低い雲の一部が輝いていきます。


そしたら、突然、水平線の上に輝く線が現れました。


そして、丸くなっていって、


きのこみたいになる。


そしてこんな感じに朝になる。


雲が少しずつ明るくなるのも感動しながら見てきましたが、
3枚目の写真の時に、水平線に一本の輝く線が現れた時には本当に感動しました。

考えてみたら、水平線から昇る太陽、あんまり見たことなかったんでしょうね。

そして、これが、自分が気が付かない時もいつもいつも起こっていたと思うと、不思議な感じがします。

神様のなさることもそうです。

私が気が付かない時も、神様は御業をすすめておられるんですね。

さて、今日の聖書。
今日はルカによる福音書20:41-47。

「このように、ダビデはキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」44節。

人々は救い主キリストを「ダビデの子」と呼んでいました。
それは、ダビデのような王というイメージにイエスを閉じ込める危険がありました。
それで、イエスはご自身がダビデの子である以上に、ダビデの主であることを明らかにされたのです。

私たちは神様を、自分のイメージの中に閉じ込めていないか、そう思わされました。
神様は私達の考えを超えた方、私達の想像を超えた方です。
神様がなさることを自分の考え、自分の頭のなかに閉じ込めないようにしたいと思います。

神様、
あなたは私の考え、私の想像を超えた方です。
あなたのなさることの大きさを見ることができますように。
私があなたのなさることをリミットしないようにしてください。

2016-04-25

春満開。

春になりました。
結構、長い間肌寒かったので、うれしいです。
まだ朝はちょっと冷えますが。

今日は2年半前に頂いた胡蝶蘭、2年ぶりに花をつけたので、開花の様子をビデオに。



昨日、3番目の花が咲いて、まだ幾つか蕾があるから、
もっと光の加減とか調節して、タイマーでシャッターが切れるカメラで、再挑戦してみようかな。

2016-02-05

単純に信頼する。

昨日、予想していた雪。
昨日の午後の段階では、1−2センチだった予報が、夜には5−15センチになっていました。
わたしの予報をアメリカの海洋大気圏局が真似してきた感じです。

今回はバッチリあたってよく降りました。


今回はニンジャマンが計測してくれました。


湿った雪だったので、顔が埋もれてしまいました。
そして、ものさしもはっきり見えません。

近くに寄ってみましょう。


なかなかはっきり見えないのですが、
よく見ると、数字が上の方が小さくて、下の方が大きいです。

ダメじゃん。上下逆さまじゃん。

ということで、5-10センチくらいかな。(笑)



湿った雪は、ビショビショになるので、外に出るのはちょっと嫌ですが、
枝が白くなるので、中から見るのにはきれいです。

午後には随分融けてきていますが、ボストン方面は随分降っているみたいです。

次の雪の可能性は月曜日から火曜日。
これは予報が難しそうで、日曜日にならないと、はっきりしないみたいです。

さて、今日の聖書。
今日はルカ7:24−35

「あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。」28節。

これは、どんな意味なのか、とてもむずかしい言葉ですが、
「神の国」を「神の愛の支配」と言い換えると、
偉大な人物であるバプテスマのヨハネの人間としての立派さも、
神の愛の中に生きる者の祝福の前には、小さなことなんだということかと思います。

それほど、素晴らしいものをあなたがたは受けているのだよ、ということです。

この後には、人々に対して、単純にその神の恵みを受け取りなさい、と語っている文章が続きます。

神様から差し出されている愛の支配。
それを単純に信頼して、そこに飛び込むこと、それが祝福なんだな。

神様、
あんまり難しいことを考えないで、
単純に、本当に単純に、あなたの差し出してくださっている恵みを「ありがとうございます」と受け取ることができますように。