2012-07-26

「あなたの若い日に造り主を覚えよ」

昨日はこんな夕日。
ウチの庭からだとあまり空が大きく見えないので、小さく切り取った空ですが。




そして、夜になると星が瞬いていました。






でも、今日は朝から「夕方にはdangerousなstormが来ますよ!」と予報が出ていました。
そして、6時半頃には空が暗くなってきて、不気味な雲が流れてきます。


「強い風で、いろんなものが飛んできますから、窓から離れてください」とラジオやテレビでは繰り返していたのですが、その雲の写真を撮らないではいられなくて、様子を見ながら、写真を撮っていました。




雲は左から右に流れていました。
よく見ると嵐を予感してか、鳥が飛び回っているのが見えます。
この後、風が強くなって、雷雨になりました。
今は夜の10時。すっかり雷は収まりましたが、ちょっと雨が降っているようです。
ウチのあたりは、恐れていたよりは、マシだったようですが、幾つか竜巻も発生したようです。


でも、同じ空でも、本当にいろんな表情があるんですね。


人間の小ささを感じます。


そんなこの世界を造られた神様の大きさを知ってもらおうと、教会に来ている子向けのミニキャンプを7月の初めにやりました。楽しかった〜。場所は牧師館。ハイ、我が家です。




聖書を読んだり。
遊んだり。

遊んだり、

遊んだり、

遊んだり、



遊んだり、





ごはんを自分たちで作って食べたり。
のり巻食べたり、






おいなりさん、食べたり、






すいか、食べたり、






バームクーヘン、食べたり、






ながしそうめん、食べたり、






パンケーキ焼いて食べたり






スイカの皮で顔作ったり、






工作したり、



カタツムリ作ったり、





もう、ホントに「やばたのしい」3日間でした。


教会にいつも来ている子たちのプログラムなので、ホントに少人数なんですが、小さいがゆえに楽しめるプログラム、小さいがゆえに話せる話、楽しくやりました。
そして、もちろん、お泊まりも。
楽しくて楽しくて、泊まる予定じゃなかった子たちも、そのままお泊まり。


ただただ、この子供たちに神様のみ思いが届きますように!と祈りながら・・・。

2012-07-25

牧師のなすべきことは何?

暑い日と涼しい日が何日か交代でやってくるNJの夏らしい日が続いています。
いつもよりも暑く感じますが、今日などは、夜9時で24.5度ですから、快適です。


明日はまた暑くて午後からは雷雨がありそうです。






7月の初めに、アメリカに来て20年になりました。
そして、もうすぐ、NJの教会の牧師になって15年になります。
いつも祈りながら、主に聞きながら、牧師のなすべきことを求めています。


今年の春に「Emotionally Healthy Leadership Conference」というのに出席してきました。
ピーター・スキャゼロという人の「情緒的に健康な教会を目指して」という本を読んで、彼が主宰するセミナーに出たいと思ったのでした。


その中で学んだことの一つに、「応えられない期待は怒りになる」というものがありました。
・・・だから期待に応えましょう・・・という話ではなくて、「その期待は言葉にしていないことが多いので、伝わっていないことがある」「伝わっていないのに、その期待を『当然の期待』として押し付けるのは不当」(日本では「それ読むのがプロ」みたいな風潮がありますよね)「期待を伝えられた方は、それに応えられるかどうかを、はっきりと答えるべき」という話でした。


そんな学びをした後、役員会でみなさんに牧師に何を期待しているかを言葉にしていただきました。


本当に愛にあふれた皆さんの言葉をいただいたのですが、今度はその「期待」に対して、私がそれに応えられるかどうかをお答えすべき番で、それを反芻しながら、過ごしてきました。


その中で、ずっと心に留まっていて、また読み返そうと思っていたのが「牧会者の神学」という名前のユージン・ピーターソンの本。ずっとずっとここに戻らなければ、と思っていました。


久しぶりにその表紙を開いたら、その裏にこんなことが書かれていました。


「本書は牧師の本来の働きは『聞くこと』であり、また『神が聖書において、祈りにおいて、そして隣人たちにおいて語る時、人々がその御言葉を聞きとる援助をすること』であると定義することによって、牧師の召命を教会運営という宗教的事業経営のごときものに歪小化しようとする強い圧力に対する解毒剤を提供する。」


牧師の働きで本当に大切なのは教会運営ではなくて、自分が神に聞いて応えて行く、そして、人々が同じように神に聞いて応えて行くサポートをする働きなんだと、もう一度引き戻されたような気がします。


そして、原題はこのようにありました。



Working the Angles: The Shape of Pastoral Integrity




「Integrity」・・・日本語にはしにくい言葉ですね。首尾一貫していること、表裏がないこと、一つの人格として統一がとれていることを表す言葉です。


いろいろなすべきこと、そして、「このような必要がある」という声、でも、与えられた時間や能力は限られている、そんな中で、自分が引き裂かれてしまわないために、自分のなすべきことは何なのかを、しっかりともって歩ませていただくことの大切さを思います。


さて、「日々のみことば」から。
今日はコリント第一の手紙13章。
これは「愛の章」と言われるところです。


「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。・・・」4-7節


正直な反応は、自分には愛がないなあということであり、ではどうすればいいの?ということでした。その前には「こんなことをしても、こんなことができても、愛がなければ、すべてはむなしい」と書かれています。絶望的な気持ちになります。


12章の最後には「さらにまさる道を示してあげましょう」と書かれているのですから、この道を求めるべきなんでしょうね。


本当に祈るしかありません。「私に愛を与えてください。私に愛することを教えてください」と。


よくいわれることではありますが、この「愛」の部分に自分の名前を入れて読んでごらん、「・・・は寛容であり、・・・は親切です。またひとをねたみません。・・・は自慢せず、高慢になりません。」と読んでいると、恥ずかしくなって、すぐに詰まってしまう。でも、そこに「キリストは」とか「神は」と入れるならば、どうだろうか、と。


本当に愛の源である方に愛することを教えていただきたいと思います。


主よ、
私の中に愛のないことを感じます。
愛することを教えてください。
これはもうあなたに頼るしかありません。
愛のなんたるかを教え、愛することをさせてください。


PS. ちなみに、このブログの題の「日々の祈りと日々の遊び」という言葉もこのピーターソンの本からアイディアをもらっています。「祈りと遊びは、その深い部分において、互いに一致するものを持ち、広い内的関連性を持つものであって・・・」99ページ。

2012-07-20

「手を入れてきれいにする」

昨日は、本当に暑くて、我が家の庭の温度計で(デッキのある壁に貼ってあるので、照り返しで高くなるのかもしれませんが)、41.7度Cまで上がりました。でも、その後、雷雨で20度台に下がり、今日は一日20度台の涼しいくらいの一日でした。ホッ。


明日は雨で肌寒いくらいかもしれません。22度くらい、の予報が出ています。


ちょっと前後しますが、6月の初めに、庭の木を一本切りました。
息子がいるうちに・・・と思って。



はしごに乗っているのが息子で、私はこのロープを持って、木があらぬ方向に倒れてしまうことがないように引っ張っています。(そして、写真も撮っています)

去年の10月に大雪が降った時に、大きなダメージを受けた木です。
元々、この家に引っ越してきた時にはそんなに大きくありませんでした。
でも、最近はどんどん大きくなってきて、隣から苦情が出るくらい。

なので、切ることにしました。3本あったのですが、少しでも自分ができることは自分で、と、その中で一番低い木は自分たちで切ろうと。

でも大変でした。のこぎりで、すごい時間かけて切りました。あと、切った丸太の重いのなんのって。

でも、それを観念して買ったチェンソーで玉切りにしてみると、


年輪が10年分くらいしかありません。
ホントにこの10年くらいの間にどんどん伸びてしまったということ。
こんなに大きくなる前に、ちゃんと手を打っておけば・・・ですね。

あとの2本は業者の方に頼んで切っていただきました。
大きなクレーンが来て、大の男が5人掛かりで、
1時間かけて切っていきました。

これが切る前。


そして、これが切った後。


本当にすっきり、きれいになりました。

イエスさまが「ブドウの木」のたとえ話をされた時に、
こんなことを言われました。

「実を結ぶ枝は、父が手入れをしてきれいにしてくださる」と。

ブドウの木はこんな勢いで太くならないけど、本当にいずれにせよ、ほっとくのはよくない。

それは痛いかもしれないし、悲しいかもしれない、避けたいかもしれない、でも、伸びっぱなしでは、実を結ばない、それだけではない、我が家の庭の木のように、切らなければいけなくなってしまうかもしれない。神様の手入れを、神様の剪定を、痛くても、辛くても、受け止めることができますように。

ちなみに、切った丸太はキノコを植えてみます。夏じゃなくて、春や秋に切った木で作るみたいですが、どうかな。

昨日の「日々のみことば」から。
昨日は第一コリント10:1-13を読みました。

「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」12節

私はこの言葉、本当に大切だと思うんですよね。
「自分は大丈夫」と思っている人がほんとうは一番危ない。
・・・そう思って、教会の皆さんに、話をします。
「自分は大丈夫、と思っている人が一番問題なんです」と。

でも今日もそんなことを考えながら、
「いや、自分こそ、だれよりも『自分は大丈夫』と思っていないか」と思わされました。

本当に主に信頼して、主に頼って、倒れないように歩ませていただきたいです。

主よ、
あなたの支えによっていかされていることを、忘れないように、守ってください。
いつもあなたの御許に歩むことができますように。

2012-07-17

めげないで出て行くこと。

今日は暑かったです。
38度以上に上がりました。
湿度はそれほど高くなかったんですが、日差しが強くて、車の中が高温になるので、外に出るのがちょっとおっくうになるくらい。


今夜から明日にかけて蒸し暑くなり、
明日は午後から雷雨の予報です。


今日は最初から「日々のみことば」の話。


今日、6時頃に起きて読んだのが、コリント第一の手紙9:19-27。
その中で目に留まったのが、24−25節。


「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」


伝道する者の真剣さ、情熱を感じました。
で、朝からこんな箇所を読んだら、昨日3週間ぶりに再開したジョギング、ちょっと筋肉痛かな、ということで休んでなんていられなくなりました。
で、走りましたが、本当に何度も何度も、「もういいや」というポイントを通って、とりあえず目標の30分。昨日よりもちょっとペースは遅かったようですが、走りきりました。


明日の朝はものすごい蒸し暑い予報が出ているので、自重して、今度は金曜日の朝くらい、と考えていますが、本当に自分との戦い、という部分もありますね。


でも、私たちが主の働きのために立ち上がる時に、その働きは主と共になす働きだということ。主が力を与えてくださるからできる。いや、本当に私たちの弱さに主の力を表してくださるから、恐れないで働ける、そう思います。


さて、先月の半ば、もう1ヶ月前になりますが、岩手から来られた先生ご夫妻、個人的にお話を伺ったり、集会でお話をうかがったりしている中で、本当に大切なことを教えられたように思います。7−8月号のニュースレターで、分かち合わせていただきましたが、リンクだと切れてしまう可能性があるので、その文章をここに転載します。






6月の中旬に、昨年の東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県宮古市から、宮古コミュニティーチャーチ牧師の岩塚和男先生ご夫妻をお迎えして、お話を伺う時をもちました。本当に遠く離れたところにいる私たちには少しずつ過去のものになりつつあるように感じてしまうあの大きな震災が、現地に歩む方々にとっては決して過去のものではなく、今も、皆さんが、たくさんの戦いや、大きな不安の中に歩んでおられることをもう一度、認識する時となりました。 その中で、先生方がお話をしておられたことの中で、一番印象に残っているのは、震災直後のことでした。 教会堂は津波があと50メートルのところまで来たものの、無傷ですんだので、大きな紙に「避難所に使ってください」と書いて窓に貼っておいた。すぐに電気が回復したので「携帯の充電できます」と書いて窓に貼っておいた。でも、誰も来なかった。待っていても誰も来なかったというのです。そこで、先生は避難所を回って行った。「教会の牧師です」と言っても、「宗教活動はお断りです」と相手にされなかった。お寺の住職には話をしてもらっているのに・・・。別に先生は伝道しようと思っていたわけではなかった。ただ、本当に多くの人々が痛みを覚えている中で、人々に仕えたいと思っておられた。そして、本当に膝をついて、体を使って、人々に仕えて行った。教会に届けられる世界中からの支援物資を周りの人々に配り、人々からの善意の支援物資が避難所や倉庫に山積みになったままになっていたのを見て、その仕分けと配布を自ら買って出て、それを空っぽにしていった。少しずつ、少しずつ、人々の信頼を得るようになっていった。家を失った人々が避難所から仮設住宅に移っていった後も、丁寧に丁寧に仮設のリーダーと連絡を取り、信頼を勝ち取っていった。一軒一軒人々の安否を問いながら、訪問を続けた。「来るな」と言われた家でも、家から出られなくなった人々、昼間からお酒をあおっているような、とっても放っておけない人々は、何度も何度も訪問を続けた。そして、今は訪問を待っている人々、訪問を待っている仮設のコミュニティーがいくつもあるという。 どんなにすばらしい施設を持っていても、どんなにすばらしいメッセージを持っていても、どんなにすばらしいサービスを提供できても、いつまでも待っているだけだったならば、先生方は人々と出会うことはできなかったでしょう。どんなにか出て行くことが大切なのか、ということを思わされます。 イエスは言われました。「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)と。私たちがもっともっとこの地域のコミュニティーに出て行って、人々に仕えることができますように。


私たちが出て行くべきところ、それを問いながら、でも、いつまでも考えているばかりではなくて、具体的に形にしていければと思います。

2012-07-16

休むこと。

ちょっとここのところ、しっかり「休む」ことをして来なかったのですが、今日はしっかり休みました。メールのやり取りも一日、自分の好きなことや家族のことをしながら時間を過ごしました。


で、その休みつながりでもあるのですが、6月の2週目は岩手の宮古から、被災地支援を1年以上にわたって続けておられる牧師夫妻においでいただいて、お話を伺うとともに、休養も・・・と思い、教会としてお招きしまた。


そして、お伺いしたお話も改めてご紹介したいですが、今日は休む話。


どこまでお休みになれたかわかりませんが、本当に、どんな働きでも、ちゃんと休むことって大切ですよね。よりよい働きをするために・・・ということもあるけど、その人が本当にその人として生きるために、ちゃんと休むことが大切だと思います。つまり、走り回っていないと何か悪いことをしているかのような、自分の価値が見いだせないような、そんな状態になってしまいやすい私たちが、ちゃんとゆっくり休んで、神様とゆっくり時間を過ごしていく中に、「ああ、自分は自分でいいんだ」と感じることって本当に大切だと思うのです。何かをすることにではなく、ただここに生かされていることに意味を感じる、そういうひと時。


で、火曜日に到着された先生方は雨の一日だった火曜日には十分睡眠を取っていただいて、水曜日から、ペンシルベニア州のランカスター地方にご案内しました。


今も、電気や車を使うことを拒否し、馬車で生活しているアーミッシュの方々が多く住む地域です。






こんな馬車がひっきりなしに通ります。


ゆっくりと時間が流れるところで、ゆっくりと過ごしていただきました。


そして、ご夫妻の雰囲気がちょっと伝わる一枚を。




写真を撮る夫をじっと暖かく見つめる妻・・・って感じ。
こうやってずっと働きを続けておられるんだなあと思います。


今回の1週間の滞在がこれからの働きのために、少しでも力になれば・・・と思わされます。


久しぶりに「今日のみことば」から。
先週読んだ言葉ですが、コリント第一の手紙1章17節。


「キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。」


本当にそうだと思いました。
いつの間にか、洗礼を受けた人の数が、その教会の祝福をはかったり、牧師の働きを評価したりするような基準になっているように思う。少なくとも自分の気持ちの中にはそういうものがあったと思う。


でも、私の使命は、「福音を宣べ伝える」ことにあったんだと、もう一度思わされました。


神様、
いつもいつも忠実にあなたのメッセージを語る者でありますように。
あなたがいつも語るべきことを教えてくださいますように。

「虹」神の栄光と、神の決意。

5月の末からの続き。
カルフォルニアから帰ってきて、1週間後。
6月6日の夕方に郵便局が閉まる前に郵便を出そうと思って、通りに出たら、なんだか車がゆっくり走っている。「もう、急いでいるのに!」と思って、曲がり角を曲がったら、そこには見事な虹が。多分、人生で一番はっきりくっきりの虹でした。

で、結局、「消えないでくれ〜」とあわてて家に帰ってカメラで撮ったのがこの写真。

外側にもうすーく、写っていますが、実際はもっとはっきりと見えたダブルレインボウでした。


で、くっきり写っている内側の虹を望遠で撮ると・・・


赤、橙、黄、緑、青、藍、紫と見えますね。無理やり言っている感もあるけど。
でも、その内側に黄色と緑もあるように見えます。

本当にそれほど、鮮やかな虹でした。

虹って、英語ではrainbowで「弓」なんですが、実は旧約聖書が書かれたヘブル語でもそうなんですね。「雲の中に弓が現れた」と。新約聖書も含めて、聖書の中には4回出てきます。

ヨハネの黙示録の4章で、神の栄光の姿として、10章では天使の姿として、虹が輝いている姿が描かれています。

またエゼキエル書の1章にも、神の栄光を表す様子として使われています。
「そのまわりにある輝きのさまは、雨の日に雲に起るにじのようであった」1:28。

その「弓」としての力の象徴か、それともその鮮やかな色ゆえか、神の栄光を表すものとして虹は理解されてきたようです。本当にそうですよね。私もこの虹を見た時に、「かみさま、すばらしい!まさにアーティスト!」と思いました。

そして、もう1つが創世記の9章のノアの記事です。

神は虹を契約として与えられたとあります。
「もう、私は洪水によって人を滅ぼすことはしない」と。
この虹はその契約のしるしだ、と。

この「洪水」と訳されている言葉はノアの洪水にしか使われない言葉で、「地のすべてを滅ぼし尽くしてしまう大洪水」を指しています。ですから、神様は「地のすべての人々を滅ぼし尽くすような洪水はもう起こさない」と言われたわけです。

ということは、私たちはこの神様の決意がなければ、地上からぬぐい去られてしまっても、滅ぼされてしまってもおかしくなかった、それほど、人の罪は深いのだということを聖書は語っているのだと思います。

そして、神はもっと大きな決意をしてくださいました。それは私たちが信じる時に救われる道を開く、そして、そのために、私たちの罪が赦されるためにひとり子を与える決意をしてくださったのです。

次にこんな虹を見る時にはそんなことを思いながら見上げようと思います。

今も、大雨の中におられる方々のために守りを祈りつつ。

2012-07-12

先の世代を支える使命。

今日の夕方、無事に帰宅。


皆さんに祈られていたせいか、疲れをあまり感じない旅でした。
今日の午後、フィラデルフィアの郊外に引っ越された方をご訪問する予定があったのですが、それまでちょっと時間があったので、当たり前のようにハイウェイを指示してくるカーナビを無視して、ローカルの道に入って、バージニア州とメリーランド州の境を流れるポトマック川沿いに車を止めて、河原に降りていくことに。


すると、どこからか、滝の音が。
その音のする方に歩いていくと、ポトマック川に流れ込む小さな流れの途中に滝がありました。「滝フェチ」を自認する私は、そこに進んでいくことに。水着だったら、うたれに行くことができるくらいのちょうどいい滝。




そして、足下を見ると、そこにはなぜか「しそ」が。




なぜ、ポトマック川のほとりに「しそ」はないだろう、とにおいを嗅いだら、正真正銘のしその香り。なぞだ。


でも、そんなこんなで、河原で一休み。
癒されて再出発。


そして、午後にご訪問したのは、先日80歳のお誕生日を迎えられたご婦人。
今日は2時間くらい、戦後の満州からの引き上げの話、そして、アメリカ空軍の軍人だったご主人と結婚されてアメリカに来られる時の話、本当に壮絶な話を伺いました。


アメリカに来られる時には生まれて初めて乗った飛行機のエンジンが2つ火を噴いて、海面に着水しなければいけないかも・・・と言われて、海面すれすれを低空飛行して、なんとか、着陸できる島を見つけて、そこに無事に着陸。でも、泊まるところもないので、砂浜で寝たとか、翌日、エンジンを修理して、ハワイ、サンフランシスコと飛んで、民間機に乗り換えてやっとのことでNJに着いたとか、まあ、本当にすごい経験をして来られたようです。(満州引き上げはもう、悲しすぎる話がたくさんありました)


お話を伺いながら、本当にこの世代の方々のことを支える使命が私たちにはあるんだと思わされました。


今まで「次の世代」のことをよく口にしてきましたが、「先の世代」の方々を支えることも、ほんとうに大切な私達の使命ですね。主の導きに感謝。

2012-07-11

目指せ!「手乗りハチドリ」

さて、本格再開に備えて、やはりこの1ヶ月余の間のことをぼちぼち書いていこうと思います。


もうずいぶん前ですが、5月の終わりに、3日間だけ、南カルフォルニアで会議に出席していました。会議自体も本当に、そこに加えていただけたことが喜びとなるような幸いなひとときだったのですが、直前に新しいおもちゃを手にしていた私は、その新兵器を手にちょっと散歩に出ました。


そして、ニュージャージーとは全く違う植物の写真をいろいろ撮っていたのですが、途中で、ハミングバード(ハチドリ)に出会ってしまったわけです。そして、そこで格闘。そして、成果はこれ。






さすがハミングバード、羽ばたきのスピートが半端じゃないので、羽が止まっていませんが、初めてではこんなもんでしょう。


で、Youtubeにはこんなのが。







その後、NJでも庭に来た、という話を聞いて、よし、「目指せ!手乗りハチドリ」だ、としばらく蜜を置いていたんですが、まだお目にかかりません。


実現するんだろうか・・・。でも、ぜひやりたい。アラスカに住みたい。



「信仰によって今も語っている」

前に書いたのはいつだったかなあ、と思ってみてみたら、6月11日、ちょうど一ヶ月前。

そのあと、どんなことがあったかなあ、と振り返ってみると、
12日から日本の宮古で被災地支援をしておられる牧師夫妻と時間を過ごして、
25日から「ひがきゃん」があって、
2日から「教会ミニキャンプ」があって・・・と続いて、
その間に上の娘の高校の卒業式があったり、
暑い中、庭の片付けをしたり・・・
Facebookの方が気楽なので、ちょこちょこ書いてきましたが、
こちらはなかなか手つかずでした。

今週は急遽外に出ることになでも、おかげでこうやって時間ができて、久しぶりの更新。1ヶ月も休んで、訪問してくださる方はいるんだろうか・・・と思いながら、昨日の出来事を。

先週の木曜日、ここにも何回かご紹介している私たちの大切な方が主のみもとに召されていかれました。

父と同じ年に生まれ、父と同郷の島根県で育たれ、私の名前も一発で読めた方。
くわしくはこちら
息子がアトランタの大学に入ってからは、毎年、夏の終わりに大学に息子を送っていく時は、お寄りしていました。たくさんお世話になりました。

昨日、メモリアルサービスがあり、ここまで数ヶ月、あまりまとまった時間が取れないできたのに、今週は特別な動かせない用事がない1週間。

これは「行って来なさい」と主が言われたのだと、感じて(元々あんまりそういうのない人なんですが・・・)、教会の皆さんにも祈られ、励まされ、車を12時間ほど走らせて、お伺いしました。




象徴的だったのが、この聖書とバッジ。

60代半ばで教会に通い始めたこの方が、どれほど一生懸命聖書を読み、聖書に聞いてきたか、それを感じさせる書き込みがいっぱい。ところどころ日本語も見える。

そして、このバッジは、「歓迎係」用のバッジです。
クリスチャンになられてからは今では6000人の方が集まるというこの教会(行き始めたころは数百人だったそうですが)で、歓迎係をニコニコしながらされていたそうです。

この言葉を思い出しました。

「彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。」ヘブル11:4

2012-06-11

ペテロ第一の手紙から教えられたこと。

また久しぶりの更新になりました。 
いろーんなことがあって、いろいろ分かち合いたいことはあるのですが、
まずは、この更新を休んでいる間に読んでいた聖書の言葉から。

 ペテロ第一の手紙を読んでいました。
そして昨日が最後でした。
 その中で、先週の火曜日の読んだところ、 3:9が心に残りました。 

「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」

 これができない。
本当に難しい。 
最近心に迫る言葉が、

「自分にあいさつをしてくれた人にだけあいさつしても何になる。そんなの誰でもできる」

というイエスの言葉です。

侮辱されたら,むっとしてしまう。
 攻撃されたら言い訳をしてしまう。
自己防衛をしてしまう。 

先週の金曜日にはルカによる福音書のイエスの十字架の場面を読んでいました。
そのイエスの姿。
自分を憐れんで、声をかけてくれる人にも、
 自分を十字架にかけて、ののしり、つばをかける人にも、
 同じように接したイエス。

自分だったらどうするかと思う。
自分の痛みをわかってくれる人には、「わかってくれる?」と答え、
自分をののしる人には「なんでそんなことを言われなければいけないんだ?」と答える。

でも、イエスは変わらなかった。
自分のことではなくて、人のことを考えていた。 

そのような歩みをさせていただきたいと思う。

主よ、
どうか、あなたの御言葉通りに歩めますように。
祝福を受け継ぐ者となることができますように。

2012-05-25

労苦は無駄にならない。

なんだか、最近なかなか定期的にアップできないでいますが、元気しています。
ここのところ、NJは毎日雨続き。
昨日は何度も雷が鳴り、土砂降りがあり、
今日は朝のうち、霧雨。
でも、午後には晴れて、蒸し暑かったです。


このさきも、結構こんな天気みたいです。


先日、20年前、日本で私が牧師として駆け出しの時に、出会った、一人のご婦人から連絡をいただきました。ご主人が洗礼に導かれたと。


彼女の方は、日本でわたしたちが牧師として働きを始めたところに、集って来られて、いろいろ質問をして来られていました。そのあと、引っ越されて、アメリカに渡られて、NY州のロングアイランドの普通の英語の教会で洗礼を受けられました。
その後、ご一家はロスアンジェルスの南に引っ越されて、10年以上前、まだ、ウチのしたの娘も生まれる前だったと思いますが、一度お伺いしたことがあります。でも、その後、たまに連絡がある程度でした。


でも、今年になってから、息子さんが洗礼に導かれ、そして、今回、ご主人も洗礼を受けられたとのこと、本当にうれしいニュースでした。昨日、そのメールを読みながら、涙が止まりませんでした。


決して「洗礼」の数をカウントしてそれで成否を判断するのではないのですが、やはり、洗礼に導かれる方々が起こされないと、さびしいものです。「何か自分は間違っているのではないだろうか」と思うことさえあります。


そんな中で、このようなニュースを聞いて、ああ、20年前のあの働きも決して無駄ではなかった、そして、すぐに何かの結果が出なくても、忠実に語り続けること、伝え続けることの大切さを思わされます。


なまけ者は寒いときに耕さない、それゆえ刈入れのときになって、求めても何もない。」箴言20:4


主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」第一コリント15:58

2012-05-17

朝が楽しみ。


今朝はぐっと涼しく、すかっと晴れて、さわやかな朝を迎えました。

冬は「寒いから・・・」、夏は「暑いから・・・」、春は「花粉が飛んでるから・・・」といろいろ理由をつけて、ご無沙汰していたジョギング、昨日始めて、今日筋肉痛なのは、喜んでいいのか悪いのか・・・。

でも、昨日の寝る前から、走るのが楽しみでした。

元々、自分にとって走ることは、訓練でしかなく、楽しいものではなく、あんまりやりたくないけど、さすがに運動不足で、やらないと・・・というものだったのですが、今朝は、「楽しみ」にしている自分がいて、走りながらも「楽しんでいる」自分がいました。
楽しみにしていたら・・・遠足の日の子供のように、早く目が覚めて、その前に、昨日の夜も、すべてを早く済ませて、早く寝たい、と思っていて・・・とすべてがいい循環になっていくんですね。

お祈りもそうだと思いました。

義務で15分座って祈っていなければ・・・と思っていると、それは辛い。
訓練だから・・・と言っても、そういうことを喜びにできる人はいいけど、自分はそういうのが苦手。そして、どうしても他のことが優先されて、後回しになってしまう。
もちろん、ながーいクリスチャンとしての歩みの中では、そういうときもあるだろうし、そういう「訓練」的な見方も必要なのかもしれない。

でも、神様と共に歩むこと、神様とともに過ごす時間の尊さ、楽しさ、もっと知ることができたら、と思います。



これはジョギングのあと、Instagramという最近Facebookに買収されたiPhoneアプリで撮った写真。昨日はどうしてもうまくいかなかったけれども、今日は花びらが開き始めて、いい感じ。そして、素の写真よりも、Instagramの効果がいい感じ。

そして、一日さわやかないい天気でした。
この先も日曜日くらいまでいい天気が続くようです。

さて、今日の聖書。
今日は歴代志第一17:1-15でした。

「ナタンはダビデに言った。『あなたの心にあることをみな行いなさい。神があなたとともにおられるのですから。』その夜のことである。次のような神のことばがナタンにあった。」2−3節。

朝令暮改という言葉がある。
誰も、朝言ったことが夜変わっていることは気持ちがいいものではない。
一度言ったことを撤回するのもみっともない。
振り回される方も大変だ。

預言者ナタンが王ダビデに「神のために神殿を建てたい」と言った時に、ナタンは「神があなたと共におられるから、ぜひやったらいいでしょう」と答えました。でも、その夜に神様はナタンに、昨日の言葉を撤回しなさい、ダビデが建てるのではない、と言われるのです。

ナタンはどんな気持ちだったかなあと思いました。
みっともない。
かっこわるい。
みんな、自分を信頼しなくなるんじゃないか。
言うことが変わるのはよくない、そんなことを言われるのではないか。
何よりもダビデが「なんだ、昨日はいいって言ったじゃないか」と切れるのではないかと思ったかもしれません。

でも、ナタンは神様に従いました。

自分のメンツや、人々の期待や、そんなものに振り回されない事の大切さを思います。

主よ、
あなたに従う者とならせてください。
人がどう思うかではなくて、あなたに従う者とならせてください。

2012-05-16

神様の造った世界の中で。

ここ数日、また蒸し暑かったです。
でも、これは今日まで。
このあと、夜遅くに乾いた空気が入ってきて、
明日の夜とかはちょっと寒いくらいまで冷えそうです。


今朝は、雨上がりのもやの中、すごーく久しぶりにジョギングをしました。
3kmで20分以上。ふう。


でも気持ちよかったです。


そして、咲き始めた我が家のバラ、
水滴が溜まってとてもきれいで、
写真に撮ろうと思ったのですが、
なんだかうまく撮れないので、あきらめました。


わたしたちの目って、すごいですよね。
一瞬で(あ、最近はそうでもないですが・・・)ピントがあってしまう。
そして、立体的に頭の中に画像が浮かび上がる。
見たいものがぐっと浮き上がって、その他のものが、背景に溶けてしまう。
心の中に刻み付けておきました。


そのあと、クロッキー教室でも花の絵を描いて、
「野の花を見なさい」との聖書の言葉を読んで、
ホントに、神様が与えてくださっているこの世界はすごいなあと思います。


あ、昨日は、ヒラタケ収穫して、いただきました。
キノコも不思議な神様の作品ですよね。
わたしたちの食べられない木とか、分解して、わたしたちが食べられるものを作ってくれるんだから・・・。


そして、今日の聖書箇所もまさに、その神様の作品に目を向けさせるところでした。
最近歴代志を読んでいるのですが、この歴代志というのは、最初が系図で、たくさん人の名前が出てきて、もう、何を読んでいるのか・・・という感じなのですが、第一の16章くらいになって、いろいろ教えられることが増えてきました。

今日は歴代志第一16:23-43。


「天は喜び、地は、こおどりせよ。国々の中で言え。主は王である。海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。野とその中にあるものはみな、勝ち誇れ。」31-32節。


神様が造られた天地、海、自然界のもの、
神様を賛美している。
今朝のもやも、バラの花も、そこからしたたる水滴も、
神様を賛美している。

私も一緒に賛美をしたい。
なんだか、ホントに生活の中で大切なものは何か?
わたしたちが本当に注目すべきものは何か?
考えさせられました。

主よ、
あなたを賛美します。
この自然界と一緒にあなたを賛美します。
明日も、賛美しますね。


さあ、明日も走るぞ!・・・っとここで決意表明して自分にプレッシャーかけとく。
ではでは、おやすみなさい。






2012-05-12

神様まじやばくて、すてきだ。

今日はホントにいい天気でした。
今週、ちょっと肌寒い日も多かったのですが、
今日はあたたかく、またカラッと晴れて、気持ちのいい一日でした。
これ、土曜日に用事がなければ、どっかでかけるのになあ・・・な日。
牧師によっては金曜日までにすべての準備を終えて、
土曜日は休日としている、と聞きます。
今の私はちょっと考えられませんが、
人生のどこかでそんな時があったらいいかな、と思います。
特に子供たちのために。(もう遅いかな。)


さて、久しぶりのキノコねたですが、
先日のヒラタケのバケツ、そのまま放っておいても全然生えて来ないので、
横っ腹にいくつか穴を開けました。


そしたら、作戦成功で、1週間ほどで、穴の中にキノコが生えてきて、
それから3日ほどで、こんなに大きくなってきました。



株全体の幅が7センチくらい。
15個くらいの傘が我先にと押し合いへし合いしているのですが、
その中の一番大きいモノが2.5センチくらいです。

こんなことになるんだったら、もっと大きな穴をあけておけば良かった・・・です。
収穫は来週の前半、といったところでしょうか。
この調子でどんどん出てきてくれるといいのですが・・・。

でもね、たくさんあけた穴の中で、よりによって、WARNING!の表示のあるところなんですよね。複雑・・・。

最近、教会で、聖書の教えの基本を学ぶクラスをしているのですが、
その中で、今週は「神」について。
神様はどんな方か。

私は最近、どんどん語彙が減ってきて、
それに、日本語の使い方がそれほど上手じゃなくて、
(あ、もちろん、他の言葉もそうですが・・・)

神様はどんな方か?
と考えると、「すごい」「でかい」「まじすごい」「まじでかい」って感じなんですよね。
どうも、「全能の神」とか、「憐れみの神」とか、そうだと思いますし、正解だと思うのですが、自分的にはどうも、頭の上を通り過ぎていくような感じ。しっくり来ないんですよね。
で、最近、マイブームなのは「神様、まじやばい!」です。50近いオヤジの、それも牧師の言葉っぽくないかもしれないし、感じがうまく伝わらないかもしれないですし、品位も何にもないかもしれないのですが、それが実感。

そして、今回の学びの中で、神様すてきだ、と思わされました。
「すてき」だなんて、女言葉みたいな感じもするのですが、永遠の三位一体の交わりを持っておられる、聖なる神様が、「こっちおいでよ」とわたしたちをその交わりに加えようとしてくださっているなんて、なんて「すてきだ」と思わされたのです。

もちろん、そのためには、イエスの十字架、という大きな大きな代価が払われているわけですけどね。

うれしいな。感謝。

神様、

あなたはなんてやばくて、すてきな方なんでしょう!

2012-05-02

無知と無関心。

今日は一日雨でしたね。
そして、なんだか肌寒かったです。


そして、明日も曇りがちでちょっと雨の予報。


今日、2カ所で話した話。


NJ州にはいくつ原発があるか知っていますか?
どれだけの電力をそこで作っているか知っていますか?
NJ州にはアメリカで稼働中の一番古い原子炉があることを知っていますか?


そして、今回調べて、初めて気づいたこと。
Indian PointというNYCとウェストチェスターの電力の30%をまかなっていると言われる原発、NYCからわずか60キロのところにあると言われていますが、それが、わたしたちの町、Paramus, NJからはわずか35キロしか離れていないこと、私も知りませんでした。




ホントにわたしたちは無知だし、無関心だなと思います。
スリーマイルがあって、チェルノブイリがあって、
スリーマイルは昔だし、チェルノブイリはソ連だし・・・と思っていて、
そして、福島の原発事故があって、
それから1年が経って、でも、わたしたちはまだどこか別の世界の出来事であるかのように、地震がないこの地域だったら大丈夫、だと思っていて。


でも、みんな大丈夫だと思っていた。
3回の事故とも、起こる前はみんな、ずっと大丈夫だと思っていた。
おおざっぱな言い方で申し訳ないですが、緻密な話をする人には見えて来ない話。
事故が起こるのは人間の世界、やはりなかなか避けられない。
でも、一生懸命事故が起こらないようにみんな努力をする。
でも、いくら万全の態勢が整っていると言っても、いったん事故が起こったら何年も人が近づけないようなものを造ってはいけないんだと思う。


最初の事故は間一髪大惨事は免れて、
その次の事故は大きな被害をもたらしながら、たくさんの人がだまされて働かされて、何とか封じ込めて、そして、今度はまだまだ何が起こっているのかわかっていない。


そんなものを造ってはいけないんだと思う。


そして、最近いわれるのはコストの問題。
発電にかかるコストはより小さいと言われる原発。
でも、それには次の世代というか子々孫々末代まで「使用済み核燃料」の処理というか永代管理というか、なんだかまだ解決していないことのためのコストを押し付けて実現しているだけのこと。すごいセルフィッシュですよね。


もしも、黙っているならば、何もしないならば、自分の生活を変えようとしないならば、「賛成でも反対でもない」と中立を決め込むならば、教会はそういう政治的な問題に関わらない方がいいと黙っているならば、無関心を続けるならば、この自分もその自己中心的な生き方に加担しているだけのこと。


答えは出ていると思います。


教会には産業界の方もおられて、その方々によっても支えられているから、あまりそういう発言は・・・という意見の方もおられるかもしれません。教会分裂の火種になるから、とだんまりを決めている牧師もいます。教会の使命はそういうことじゃないだろう、という意見の方もおられるでしょう。でも、それは中立でも何でもない、自己中心的な生き方を肯定しているだけのこと。産業界のクリスチャンが本当にその業界において、黙っていない地の塩、世の光として、用いられていきますように、お祈りしています。


あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」
エステル4章14節


神様、わたしたちがこの時代のこの地に置かれていることの意味を見失うことがありませんように。