Memorial DayにCentral Parkで犬のリーシュを外して散歩をさせていた女性が、黒人男性に「ちゃんとリーシュをつけて」と言われて、腹を立てて、911に「脅されている」と嘘の電話をした話、ひどいなあ、と思っていたら、それどころではない大きな出来事が起こって、大騒ぎになっていました。この新型コロナウィルスの感染が少しずつ収まってきて、いよいよ少しずつ社会も開いていくという時に、抗議活動とかデモとかどうなのかという気持ちが最初にありました。また暴動のような事が起こり、略奪も起こっている中で、どうしてこうなるのだろうか、と怒りをも感じていました。そして、早く収まらないだろうかと思っていました。
自分の心の中で大きな転機になったのは5月31日の夜に教会の中高生たちの集まりで、この問題を取り上げたことでした。そして、聖書のルカによる福音書の10章の「良きサマリヤ人」のたとえを開いて、「無関心でいることは向こう側を通っていくことなのではないか?」と話しながら、最後には「でもみんなには抗議活動に行ってほしいとは思わないけれども・・・」と付け加えないでいられませんでした。まだ暴動や略奪も起こっていた頃です。しかし、その夜、そして次の朝、「それで本当によかったのだろうか?」と思い始めました。「早く収束してほしい」「落ち着いた生活を取り戻したい」という気持ちは、今まで何百年も続いていた人種間の格差、偏見などの問題をそのまま置き去りにしてしまうことになるのではないだろうか、と思わされたのです。
そして、もっとこの問題について、今も痛みの中にいる人々、抑圧の中にいる人々の声を聞かなければならない、知らなければならないと思うようになりました。アメリカで育って、私たちよりも、問題について身近に感じている子どもたちからも、「これを読んだらいい」「このビデオを見て」とせっつかれて、いろいろな情報に触れることになりました。
その中で見えてきたのは「構造的な問題」です。最初は「あの警察官が問題だった」「彼も何度も問題を起こしてきたらしい」「他の警官も助けようとしなかった」などの個人的な問題に目が行っていました。最初の警官が逮捕された時に、「正義がなされた」と思いました。しかし、その後に聞こえてくる声は、そういう個人的な問題ではなく、社会構造の問題なのだ、ということでした。たまたまですが、この問題が起こる1週間ほど前、5月18日に大学時代に勉強していた「解放の神学」の「構造的な罪」には辟易していたという話をFB上で書きました。本当の問題は、私たちの心のなかにあるのではないかと。しかし、今回の出来事の中でわかってきたことは、どんなに個人が立派であっても、良心的な人であっても、社会構造に問題がある時に、その個人の善意は問題の解決にはならないし、反対にその社会構造の維持のために利用されてしまうことさえある、ということでした。今回も、警察関係の方々のなかには立派な方々がおられる、というか、そういう方々がほとんどだということを思います。そのような行動を見聞きします。しかし、社会全体が人種によって格差があり、偏見があり、また、それだけではなく、その事に気がついていない時に、立派な人の善意の行動も、解決にはならないということです。
もちろん、ひとりひとりの心の問題が大切です。だから、わたしは牧師として奉仕をしています。これからもしていくでしょう。構造の問題と言っても、ひとりひとりの心が変わっていかなければ、構造が変わっても何も変わりません。ただ、今まで支配されていた人々が支配する人々になっただけの話です。民衆のため、抑圧された者たちのため、と始まった社会主義革命は、新しい独裁を生み出しただけでした。だから、私たちの内側が変わらなければならない、それは確かです。しかし、社会構造は問題ではないというわけではありません。
あのジョージさんの首を膝で押さえつけていた警官を止めなかった3人の同僚たち。どうしてだろうと思います。そのうちの2人はまた新人で、指導を受ける立場で何も言えなかったという話も聞きました。それでも、自分がその中のひとりだったら、自分は彼を力づくで止めようとしていたのではないかと思います。そう信じたい。しかし、もし、自分がそう思うならば、何百年にもわたって、黒人の人々の首に膝を置いてきた、この社会に対して「その膝をどけろ!」と訴えるべきだと思うのです。ジョージさんのミネアポリスでの葬儀の時にも牧師が、「私たちは何百年もの間、首に膝を置かれてきました」と言っていました。今、社会に向かって「その膝をどけろ!」と言えない者が、あの現場の同僚警官だったとして、体を張って、彼を止めることができるでしょうか?
あの警官をスケープゴートにして、それでおしまい、いつの間にかデモも終息。今まで通りの生活が戻ってくる、それでいいのでしょうか?彼の姿は私たちの姿なのではないでしょうか?また、この国に住むアジア系の住民の一人として考えると、私たちの姿は、あの3人の同僚の姿なのではないでしょうか?「いや、何もできなかったのだ」「わたしは手を下していない」ですむことではないのだと思わされます。3週間がたった今、そして、日常を取り戻そうとしている今、わたしができること、わたしがすべきことはなんだろうかと思わされます。
「あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」エステル4:14